ヘンペルのカラス Y【防御する】
「それは……引き籠るわよ。みんな私を疑うって言うのなら、私が外に出なければいいんでしょ?
その代わり外で何が起きようと、私は知らない。後悔しても知らないから」
「異論のある者は居るか?」
誰も異論を唱える者は居ない。鳩羽は厨房に物置から台車と段ボールを取りに行き、厨房で食料や飲料水を確保すると食堂を出て行く。
そして、鳩羽菖蒲の夜は音もなく過ぎていった。
(……おそと、出たいね)
何日経ったのか、鳩羽は数えていない。だから、記憶はあやふやで外の出来事はもう、鳩羽には解らなくなっていた。
無論、食料やペットボトルを数えればある程度は絞り込む事が出来る。しかし、鳩羽にはそんな事をする気力さえ湧き上がってこなくなっていた。
「べつに……本、持って来たし」
シャワーとトイレは個室内にある。食料や飲料水はどっさり持ってきたし、飲料水を冷蔵する冷蔵庫だって物置から小型の物を見繕って運んで来た。
心配はない。そのはずだ。幾度も繰り返した思考に溜息を吐き、鳩羽は読みかけの本をベッドの上に置き直す。
本の虫と化した鳩羽だが、朝から晩まで本を読み続けられるほど、本が好きな訳ではない。他に暇を潰す手段がないだけだ。
だからこそ、息が詰まりそうな鉄筋コンクリートの檻の中から抜け出したくて堪らない。実際、引き籠り続けるというのは苦痛な行為だった。
狭い箱の中に閉じ込められるという事は、少しずつ活力を奪われて行く事と同義だ。やがては本を読む意欲さえ消え失せ、人形のように指先さえ動かせなくなる。
飢えに襲われても全身を蝕む倦怠感に負け、喉が渇こうと、頭がぼんやりと白く染め上げられていこうと、感情や思考が虚ろに薄れていこうと、やがてはその事に疑問すら抱かなくなる。
『ハト、やっぱり1人でこもるのはよくないよ。ボクがみんなを説得するから、一緒に外へ出よう。
だいじょうぶだよ。みんなも急な事態に混乱して、ついハトに押し付けてしまっただけなんだ。ボクもハトが辛い時に庇えなくて、ごめん。
ハトさえよかったらだけど……みんなも反省してる。みんな、ハトに謝りたがってるよ。ハト、ボクらを赦してくれないか』
「……やっぱり、アレックスの言う事に従って外出とくべきだったかな……」
鳩羽はドアに目を遣る。ドアの前にはクローゼットが置かれており、ドアを塞いでいる。
(ううん。だって、ピッキングしてきたひとがいたんだよ。やっぱり、外に出たら死んじゃうよ)
鳩羽はこくりと力なく頷いた。そう、鳩羽はとうに時間感覚を失くしていたが、時計で言うと午前3時の話だ、彼女の部屋に何者かが侵入しようとして来た。
『だ、だれ……?』
ドアを開けた音、ドアがクローゼットにぶつかった音、それから十数秒後、侵入者はドアを閉めて去って行った。
不意を突かれて凍り付いた鳩羽は、それから暫く息を呑んで動けずに居た。部屋の隅に縮こまって、腰を抜かした彼女は、もしもがあれば抵抗なく殺されていた事だろう。
「……キミがいてくれて、よかった。でなかったら、私は限界を感じてアレックスの言う通りにしてたと思う」
か弱く今にも消えてしまいそうな弱弱しい声で、彼女は微笑を繕う。だが、その顔色は死人の色だ。
「なんでかな……もうずっと前から、頭がすごくぼーっとしてるんだ……まどがないからかな、息もくるしくて……すごく狭い鳥籠のなかに、閉じ込められてるみたいなんだ……」
どさり、と彼女はベッドの上に倒れ込む。情報を取り込みようがない状況では、読んだ本の考察や感想以外に考える事は何もない。
脱出なんて発想は浮かべた途端、胸を掻き毟りたくなるような想像ばかりが落ちてくるからだ。だからだろうか、物が考えられなくなってきている事実が判らない。
(このままだときっと、なにもなくてもしんじゃうよ)
「うん……それもいいかもしれない……いつから、たべてないんだっけ?」
(まだ、2日ぐらい……だとおもう)
「ああ、どうりでうごかせないわけだ……」
立とうとすると、急に目の前が真っ暗になり、身体が言う事を聞かなくなる。気が付けば、立ちくらみを起こして倒れ込んでしまっていた。
ベッドの上に置いてあった食料や水はもうない。手を伸ばすだけでも息が切れる。腕を持ち上げるだけだというのに、腕が鉛のように重たい。自分の肉体はこうも重かっただろうか。
頭がぐらぐらする。舌が口腔に張り付いて動かない。唾液すらも乾き切り、彼女は砂漠の中に居るような飢えと孤独さに蝕まれる。
鳩羽は時間の感覚さえも失くしていたから、数時間もそうして辛うじて意識を保つ状態を続けていたのだという、自覚すらも無かった。
(――……のど、かわいた。おなかへった。かわいた。かわいた。かわいた……)
【もうどうでもいいや】
【だれか、たすけて】
此処まで読んでくださってありがとうございました。