第007話 阜陵県からの出立
呉太妃は凛と立ち上がり、次々と指示を発していく。
「兪伯海殿にも、引き続き道中の警護を頼みます」
「お任せあれ」
施然の隣で静かに控えていた武官が、言葉少なく答える。
「陳宝殿も義侠団を速やかに参集なさい。家人と共に荷馬車を整えます。準備が整い次第、この屋敷を離れます。先ずは彼の物売りの荷馬車とは別経路を辿って長江の渡しを目指します。無事に渡河が済んで江東の地に入れば、多少の安全は見込めるでしょう。それでは急ぎますよ、総員解散!」
呉太妃の指揮の下、各自役割を定めて機敏に動き始める。
紅紅も翠蓮を伴って、急ぎ出立の支度に戻る。
(まるで軍議の席に居合わせたみたいだったわ。それにしても、あの孫権様は終始落ち着き払っていたわね。まるでこの場の決定を見通していたみたい。ヤッパリ格好良過ぎ。それと、あの娘。梟も聞けばあたしと同い年だって聞くじゃない。うかうかしてたら差を付けられちゃうわ)
どうやら行商人の荷馬車が屋敷の前を通り過ぎるのは、早朝って訳ではないようである。
(それはそうよね。皆が寝静まってるところを監視してたって意味がないのだもの)
夕闇が迫る頃、施家の家人たちは黙々と手際よく荷物をまとめては荷馬車の荷台に積み込み荒縄で固定していく。
陳宝も義侠団を引き連れて、馬の手配や荷台の整理を手分けして進める。
食料などの運び込みも順次手際よく行っていき、果ては野営の準備などに至るまで準備に余念が無い。
気が付けば、辺りは夜の帳に包まれていた。
やがて屋敷内には油灯に火が灯り、忙しなく動く姿を人影として写し出す。
それでも夜半には全ての出立の支度が整っていた。
呉太妃を始めとする孫一家は、施家の家人らとも別れの挨拶を交わす。
「本当にお世話になりました。貴方たちのことは生涯忘れることは無いでしょう。曲阿県の呉景屋敷に落ち着いたら、きっと文を届けさせますわ」
「御母堂様もご壮健で、旅のご無事をお祈りしております」
施家の家人は一様に涙を浮かべながら、決意の表情を引き締め直して旅の一行を送り出す。
二輪車馬は呉太妃と梟に譲って、紅紅と翠蓮は荷台に布を敷き詰めて身を寄せ合うようにその上に腰を下ろす。
すると梟が二輪車馬から飛び降りて、紅紅の乗る荷馬車にやって来る。
「わたしもこちらに御一緒して良いかしら?」
梟は昼間見た模擬戦で汗を流す平服の姿とも、大広間で見た正装した鮮やかな紫紺色の曲裾袍の出で立ちとも異なっていた。
長い髪は一つに結わえて、紺碧色の長衣の上には白銀に光る肩当てと胸当てが一体化した軽甲冑で身を固め、その手には朱塗りの短鎗が握り締められている。
「ひょっとして、あたしたちを護るために移って来たの?」
紅紅は勘良く尋ねる。
「そんな大層なことではないわ。一緒の方が何かと心強いのよ」
梟はどこかしら照れ臭そうにそれだけ言うと、紅紅の隣で短鎗に身体を預けるように腰を下ろす。
事前に孫家を護衛していた兪期門僕射率いる護衛十名は孫家正規軍の鎧を身に纏い、御者や騎乗に分かれて二輪車馬を固める。
孫家の男子もみな騎乗して隊列に加わる。
そして陳宝率いる四十余名の義侠団は各々独自の革鎧に身を包み、それぞれが独特の形状をした武器を手にしている。
その中でも大柄な陳宝はひと際目を引く。
トレードマークと言うべき重厚な真紅のマントを纏い、黒光りする大振りの斬馬刀を背負って葦毛の大きな馬に跨ると、行きの旅程では伺えなかった武人としての姿を曝け出す。
その姿は、まさに一軍の将と呼ぶに相応しい威風を醸し出している。
満月の月に照らされて、孫家の一行は慌ただしく夜の裏街道をひたすら進む。
それでも呉太妃が言うには移動の速度が違うために、最悪は一両日中にでも追っ手に追いつかれることを覚悟しなければならないとのことだ。
追っ手を警戒して、義侠団の数名が少しばかり離れたところから殿として後に続く。
何か異変があれば直ぐにでも、携帯用の角笛で知らせる手筈になっている。
そんな警戒の中でも二・三日は何事もなく、帰途の旅路は穏やかな風に後押しされるように順調に進む。
荷台の上では紅紅と梟の距離も縮まり、何時しか自然な会話が出来る距離感まで打ち解けるようになっていた。
「ところで梟姫サマは阜陵県の屋敷も長かったんでしょ?」
「長いって言っても半年くらいよ。その前は歴陽県の屋敷とか、追っ手が掛る度に引越しする日々だったんですもの。それと呼び方は梟でいいわ」
「じゃあ、あたしのことも紅紅って呼んでね。それにしても梟もその歳で苦労してるのね」
紅紅は改めて、梟が握り締める朱塗りの短鎗に目を移していた。
(この短鎗だって使い込まれてるのが分かるし、何より手に馴染んでるのがシッカリ伝わるわ。先日の木剣での模擬戦も凄い動きだったけど、命懸けで鍛錬しなければならない事情があったのね)
「そう言えば、先日の模擬戦を見てたんだけど、梟って相手が男の子でも、大人相手だって一歩も引かずに打ち合ってて凄かったわ。どうしたら、あんなに上手に剣術の稽古が出来るようになるの?」
「そうねぇ。毎日剣術の鍛錬は欠かしたことがないわ。それに模擬戦と言ったって剣術の稽古なんだから、相手を見定めれば演舞のように型に添って打ち合うだけなのよ」
「そうは言っても相手の動きなんか、いつ変わるか分からないじゃない」
「長く稽古を積んでいると身に付くことだけど、例えば相手が次に右足を踏み込む時、必ず重心を左足に掛けてからでないと、右足って前に出せないものなの」
その話を聞いて、紅紅は荷台に立ち上がって右足を前に出す動きを試してみる。
「本当ね! 右足に重心が移ったままで右足って前に出せないわ」
「剣術は基本的にその繰り返しなのよ。打ち込む前には必ず重心がどちらかに偏るものなの。知ってれば裏をかく方法もない訳じゃないのだけど、あれは稽古だから基本を忠実に体を動かすことの方が大事なのよ」
その言葉に紅紅は、すっかり感心してしまう。その時である。
ピィ――ッ! ピィ――ッ!
甲高い角笛の音が、遥か後方から響き渡る。
甲高い音の方に視線を向けると、後方から義侠団の騎兵が隊列の中心まで駆け寄ってくる。
その遥か彼方からは重厚な馬の蹄の音が幾重にも重なり、濁った黄灰色の土埃を巻き上げている。
【用語註】
・角笛:牛角や木で作られた甲高い音を発する笛。軍事的に進軍などの合図としても使われた。




