第006話 梟(シャオ)という女の子
紅紅は施然の顔と、その視線の先で背筋を伸ばして座る梟の姿を交互に見返す。
孫家の末席に座る少女は鮮やかな紫紺色の曲裾袍に身を包み、凛とした佇まいは、やはり呉太妃に似て幼さを残しながらも可憐な美しさを兼ね備えている。
(ひょっとして、施然様はあの娘のことが、す、す……って絶対に有り得ないし! でも一年以上行動を共にしていて、今の施然様のことなんて全く知らないし)
そんな紅紅の気持ちも知らずに、施然は我が事のように梟の話を始める。
「あれは十日くらい前のことだ。荷馬車を曳く行商人が屋敷の前を通るようになったんだ。行商人は隣の村まで荷の品物を売りに出ているという噂で、行きも帰りも屋敷の前を通っていたんだ」
「それがどうして、兵士百名に繋がるのよ?」
最初こそ施然の態度に腹を立ててた紅紅だったが、あまりに話の見えない展開に関心が謎解きに移っていく。
「ちょうどその頃は、秋の長雨が続いていたんだ。すると梟姫サマが可笑しなことを言い始めたんだ」
「一体なんて言ったの?」
今度は末席に控えて座る梟に向かって訊いてみる。
「わたしは長雨で剣術の稽古が出来なくなったから、身体が鈍らないように木剣を持って近所を走ることにしたの。ある日、空の荷馬車が水溜まりを通った時に水飛沫が跳ねて服に掛かりそうになったわ。その空の荷馬車は行商人の荷馬車と同じくらいの大きさにも拘らず、轍が作る溝が行商人の荷馬車より深かったの」
「それがどうしたの? あたしには全然分からないわ」
「物売りの積んでる荷物が何かまでは分からないけど、物売りの荷馬車のほうが空の荷馬車よりも重いはずなのに、空の荷馬車のほうが深い轍を残すのは不自然でしょ?」
「不自然かも知れないけど、それって気にする程のことなの?」
紅紅は小首を傾げて考える。
「確かに空の荷馬車だって、荷馬車の材質や太った御者の違いの分だけ重くなることはあり得ることだわ。それでも荷物の重さに比べたら些細な違いのはずなのよ。それで帰りの行商人の荷馬車が通るのを物陰で待ったわ。すると行商人は屋敷の手前で荷馬車を止めて、暫らく屋敷の中の様子を伺ってたのよ。やがて何かを書き留めると、再び荷馬車を走らせて何事も無かったかのように屋敷を通り過ぎて行ったの。そこで今朝に付いた轍の深さと、帰りに通った轍の深さを比べてみたら全く同じだったわ。つまり隣の村まで商品を売りに出てるなんて噂自体が嘘だったのよ」
そこまで聞けば、紅紅にだってピンとくる。
「つまり空の荷馬車を走らせてまで屋敷を往復する目的は、この屋敷を監視するためだったのね!」
梟は軽く頷いてみせる。
「まさか数年越しにまた、袁術の野郎が御母堂様を狙ってるなんてな!」
不意に陳宝が怒鳴るような大声を上げると、昔を振り返るように続きを語り出した。
「梟姫サマが語った話は、この屋敷ではかなり深刻に受け止められたんだろうさ。実際に数年前にも孫一家は袁術の命令に従って主人が出兵中に、卑劣にも袁術配下の襲撃を受けてしまってな。暫らく人質生活を送ることになったんだ。あの時ほど呉太妃のお側に居れなかったことを悔やんだことはない!」
陳宝は握り拳を震わせると、床を強かに打ち据える。
その言葉に施然は深く頷き返して、後を続けて聞かせる。
「私もその話は聞いていたので、『日の君』……権の君と相談して直ぐに行商人の後を付けてみたんだ。そしたら案の定、二・三里程先に在る集落を拠点に空き家を兵士達が営舎のように使っていたんだ」
それまで寡黙に呉太妃の隣に座っていた青年もまた、低い声で語り出した。
「あの集落で使われている民家の数を見れば、百名程度が住んでいることが分かる。家の手入れからも、最近仮住まいを始めたのは明白だ。後は集落で一番大きな家を探るだけだった。すると屋敷の裏庭には、夥しい数の『袁術』の旗がはためいていたのさ。あの旗だけは忘れようがない」
孫権自身もつらい思い出があるのか、膝に置かれた両手は固く握り締められている。
その姿を見て、改めて施然が話し始める。
「それが五日前のこと。それからは、いつ襲撃が起きても対処できるように常に身構えなければならなくなった。武術の訓練は屋敷から離れた場所で、より実践的な模擬戦を取り入れることになったんだ。ただし兵数の差は如何ともしがたい。そこに紅紅たちが訪れた訳だ。陳隊長が率いる部隊を見た時は、天の恵みだと思ったよ。そして行商人が屋敷を監視する時間は決まっているから、その時間を避けて皆で屋敷に戻って来たって訳なんだ……だから!」
施然はひと際大きな声を絞り出し、改めて呉太妃に向かって拝礼の姿勢を正して訴える。
「私はこれまで必死で稽古に打ち込んで参りました。今こそ教えを活かして御恩に報いたいのです」
遂には、床に額を擦り付けての歎願である。
それを視界に捉えることなく、呉太妃はじっと目蓋を閉じたままより深い思索に耽っているように見受けられる。
(施然様があんなに懇願してるのに、ガン無視って有り得ないんですけど! それでもあの雰囲気は、どことなくお父様が時折見せる感じに似てるかも? それに施然様があそこまで懇願するのって一体誰のためなのかしら? 目の前の呉太妃のため? 確かに先生みたいに見えるけど。ヤッパリ梟とかいう女の子のためじゃないの?)
紅紅はモヤモヤする気持ちを押し殺して、施然の姿を見詰める。
すると時折、その視線は呉太妃の隣に座る孫権にも注がれる。
(そう言えばさっき、施然様が言ってた『日の君』って何のことなのかしら? きっと孫権様のことみたいだったけど。ひょっとしたら男同士の熱い友情って線もアリ寄りのアリなのかも知れないわね)
紅紅が少しばかり自信を取り戻し掛けたところで、目の前の呉太妃が徐に指示を飛ばし始める。
「直ぐに梱包済みの荷物を荷馬車に積み替えます。家人一同は、屋敷に残って家の管理を引き続き任せます。万事は普段通りに。炊飯も数日の間はいつも通りの人数分を支度なさい。これは朱家の意向ですが、曲阿県までは朱紅紅と施然にも同行して貰います。施然は事情を施家に伝える文を認めること。それと……外に控えてる朱紅紅の侍女の方、貴方はどうしますか?」
大広間の外に控える翠蓮は一歩だけ広間内に足を踏み入れると、深々と拝礼して跪いて奏上する。
「お初にお目に掛かります。朱紅紅の侍女で、名を沈翠蓮と申します。もしもお許し願えるのであれば、是非とも姫サマに付き従いたく改めてお願い申し上げます」
翠蓮も床に額を擦り付けんばかりに平伏している。
「それでは、ここからは時間との勝負ですよ!」
呉太妃の指示が大広間に響き渡る。
【人物註】
・孫権:字は元服前で無い。孫堅と呉太妃の次男で十三歳。孫家では『日の君』と呼ばれる。




