第005話 阜陵県の屋敷に迫る影
身支度を整えて隊列に戻る頃には壮絶な模擬戦も終結を迎え、皆が屋敷に戻るところであった。
挨拶は改めて屋敷に戻った後に行うこととなり、孫一家の後に続いて紅紅と陳宝の一隊も追従する。
阜陵県の屋敷は施家の別宅ではあるが、間取り自体はかなり広くとられている。
しかしながら、さすがに五十人単位で共に宿泊出来るはずもなく、義侠団の面々は施家が用意した近隣の空き家を間借りする形で落ち着いた。
もちろん紅紅と翠蓮、それに陳宝の三名は屋敷を共にすることとなっている。
屋敷は以前に紅紅が訪れた時のままに家人によって管理されているようで、新しく用意された部屋も清潔で快適な空間が心身の疲れを癒すのに十分である。
家人の中には翠蓮の顔見知りや以前訪れた時のことを覚えていた者も多く残っており、紅紅を敬いながらも気さくに接してくれる。
やがて家人から、屋敷にある大広間に集まるように促された。
以前来た時に燥ぎ回っていた大広間には格調の高い装飾が施されており、謁見の間に相応しく設えられていた。
上座には呉太妃が紫色に彩られた正装を身に付けて、紫檀に精緻な彫刻を施された椅子に泰然と腰掛けている。
両の脇には片側に施然と呉太妃の護衛を任されている兪期門僕射が左側に腰掛け、反対側には孫一家の子女が一同に並んでいる。
下座から紅紅と陳宝がそれぞれの親書を携え、拝礼の姿勢で跪いている。
翠蓮は扉の外に、施家の家人と共に控えている。
チラッと不安そうに見つめる翠蓮と目が合ったが、ニッコリと飛びっきりの笑顔で応えた。
(翠蓮ったら心配性なんだから、これで少しは安心してくれれば良いんだけど)
そう思いながらも、紅紅自身が親書を入れた筒を固く握り締めていることにも気付かずにいる。
拝謁は悔しいところだが、陳宝が先となった。
(まぁ、実の息子である孫殄冦将軍の親書が優先されるのは当然のことだわ。別に陳宝のほうが大事にされてる訳じゃないんだからねっ)
そう思いながら拝謁を見詰めていたが、思いがけない光景を目にする。
徐に呉太妃の方から席を立ち、陳宝の目の前まで歩み寄ったのだ。
「本当に久しぶりだわ。子愛殿もこんなに立派になって。寿春県で兄上の子烈殿と共にお会いしたのが昨日のようだわ」
呉太妃は優しさに満ち溢れた微笑を浮かべて、拝礼したままの陳宝の手を取る。
「御母堂様。我は任侠の者ですので、字呼びはご勘弁下され。今は名のみで通しております故。今後は陳宝と名のみでお呼び付け下され」
それを聞いた呉太妃は、透き通るような嫋やかな片手をそっと口元に添えてクツクツと微笑む。
その仕草に、さすがの陳宝も頭を搔く。
(何々? 呉太妃ってスッゴク善い人っぽいじゃない。陳宝があんなに推してるのも分かる気がするわ。それにしても、字は子愛って言うのね。なんか見た目と全然違うけど、ちょっと可愛いじゃないの)
陳宝もどこかしら緊張してるのか? 珍しく舌を噛みながら口上を述べると、ぎこちない所作で孫殄冦将軍の親書を恭しく手渡している。
上座に戻り親書を一瞥すると、陳宝に改めて声を掛ける。
「それでは陳宝殿、良くぞ遠路遥々親書を届けて戴きました。帰郷の折には、そなたの功績に見合う十分な褒賞を取らせましょう。それにしても戦況は伝手伝手から報告を受けていましたが、こんなに早く劉繇が曲阿県から逃げ出すとは思ってもいませんでした。きっと兄君の陳別部司馬殿のご活躍と、貴殿の戦働きのお陰なのですね」
その言葉に陳宝も、まるで少年の様に瞼に薄っすらと光るものを浮かべている。
次は紅紅が拝謁する番である。
筒の中に大事に収めていた親書を取り出すと、いつも翠蓮が行う所作を思い浮かべながら静々と呉太妃の前まで進んで、深々と拝礼し終えると親書を捧げ奉る。
直ぐ隣で久しぶりに出会う施然がその所作を見詰めていると思うと、妙な緊張を覚える。
呉太妃は手づから親書を受け取ると、陳宝の時と打って変わって内容を熟読する。
少し読むたびに何かしら、思索に耽るようである。
(何かお父様の親書には特別なことが書かれているのかしら? ひょっとして、あたしの所作が場違いでおかしな感じになってたんじゃないの! そんな失態を施然様の目の前で演じてたとしたら、恥ず過ぎてガチで終わってるじゃない)
そんな混乱し捲った思考を払い除けるように、呉太妃は優しさに満ち溢れた微笑を浮かべて語りかけてくれる。
「あなたが朱紅紅ですね。その歳で父、朱太守の名代を見事に果たすとは、さすがに江東の名家と謳われる朱家の姫君ですね。このたびの恩義には容易く報えるとは考えておりません」
そこで呉太妃は言葉を区切り、少し考え込む姿を見せたかと思うと直ぐに言葉を継ぐ。
「この親書にはあなたも曲阿県まで同行する旨が書かれています。しかし、流石にそこまでさせるのは忍びない。それに今は状況も変わっているのです。あなたと施然には家人と共に、この屋敷に残って貰いましょう」
(えっ? マジ天使じゃん。呉太妃って神対応過ぎ! あたしと施然様を自然に二人っきりの生活にしてくれるなんて、夢が叶っちゃうじゃない。エモ過ぎて泣けてくるわ)
しかしながら空気の読めない施然は、呉太妃に向き直ってトンでも無いことを口にする。
「私はまだまだ呉太妃からの教えを授かり切ってはおりません。是非とも曲阿県の呉丹陽郡太守の屋敷に同行させて下さい」
施然は席を降りて紅紅の隣に跪き、拝礼の姿勢で歎願する。
「もちろん十日前から袁術の手の者がこの屋敷を見張っていることも、ここから二・三里(約1㎞)先に手勢百名程を待機させていることは存じておりますが、最後まで供に任じて下さいませ」
施然は更に深々と頭を下げて懇願する。
さすがの呉太妃もここまで言われては施然を残して出立することに抵抗があるようで、更に静かに思索に耽っている。
紅紅はあまりの展開に、ついつい隣で歎願している施然に訊いてしまう。
「ところでどうして十日前とか、百名の兵士とか、それが袁術の配下だとか分かってるの?」
「それは」
施然は対面に並ぶ孫家の子女を順に目を移していき、最後の同い年くらいの女の子のところで視線が止まる。
「それは全て、孫梟姫サマの推理と観察眼の賜物なんだ」
【人物註】
・孫梟:字は元服前で無い。呉太妃の唯一の娘で七歳。本作のもう一人のヒロイン。
・陳宝:字は「子愛」。義侠の立場から名だけで通す。私設の義侠団を率いる。
・兪河:字は「伯海」。元は孫堅の族氏から兪家の養子になる。勇猛実直な腹心。
・呉景:字は不明。丹陽郡太守。呉太妃の弟。呉国王寿夢の末裔とされ元の姓を『姫』という。
・袁術:字は「公路」。淮南の支配者。孫家を襲撃して皇帝の玉璽を強奪。皇帝の地位を狙う。
・劉繇:字は「正札」。袁術と対立して呉景を排斥。孫策に敗れ曲阿県を捨て豫章郡に敗走。
【用語註】
・期門僕射:貴人の外出時に、小人数の衛兵を率いて護衛する近衛官。
・里:距離の単位。当時は『短里』と呼ばれる約400m。




