第004話 期せず遭遇した模擬戦
ひんやりとし始めた秋風が、色付き掛けた木の葉を舞い上げる。
山麓に添って伸びる街道の中をむさ苦しい集団が歩を進める。
「もう阜陵県に入ってるわ。間もなく目的の屋敷も見えてくるはずよ」
紅紅の声にも、どことなく覇気が感じられない。
その小さな手には、仄かに煙りが立ち昇る香炉を大事そうに抱えている。
(ホンッと最悪よ! まさか二週間もの行程の最中に一度も湯殿に入れないなんて考えてもいなかったわ。こんな臭いままで、憧れの施然様に会うなんて。超ォ有り得ないんですけどっ)
自らも麻の衣に鼻を近づけて、改めてクンクンと匂いを嗅いでみる。
真っ先に漂ってくるのは焚き染められた香で有るのは間違いない。しかしなのだ。
(何でなんで! 香を焚き染めれば湯殿を使わなくても大丈夫じゃなかったの? こんな奥から漂って来る悪臭ったら、まるで隣で馬に乗ってる陳宝みたいじゃない。途中までは良かったのよ。翠蓮に水を沸かして貰いながら清拭で、ギリ許容範囲で居られたっていうのに。牛渚洲から、軍船で江北に辿り着くまではまだ我慢出来たわ。そこから途端に水辺が無くなっちゃうなんて。これが真夏の最中の移動だったら絶対に汗まみれになって、施然様にお会いしても、一生『汗臭い女』のレッテルを張られちゃうところだったわ)
紅紅は嫌な想像から逃れるように、ブルブルっと頭の中の妄想を振り払う。
「小紅の嬢ちゃん、さすがの長旅で疲れちまったかい。まぁ、そっちの翠蓮が描いた地図によれば、あと少しってところだ。頑張りどころだぜ」
陳宝は明るい笑顔でそう言い放つと、葦毛の馬体を先に進ませる。
「疲れてなんか無いわよ! ただし約束の通りに屋敷に着くまでに絶対に湯殿か? 最悪でも水辺を見付けてから屋敷に向かうんだからね」
葦毛の尻尾に向かって、精一杯の声を振り絞る。
旅の疲れからか、紅紅は改めてぐったりと二輪車馬の座席に体重を預けて、大人しく香炉から漂う香りで気を紛らわせている。
しかし再び先頭の方から妙に騒めく声が聞こえ始めると、周囲の景色に目を移す。
先頭から陳宝が馬首を巡らして、一駆けで二輪車馬の隣に轡を並べたかと思うと、野太い声で絶望的な一言を降り注ぐ。
「ガハハハハッ! 小紅の嬢ちゃん、どうやら目的地に着いちまったみたいだぜ」
そう言いながら、広々とした空き地を指し示す。
おそらく屋敷から程なく離れた場所なのだろう。二十数名の大人子供が木剣を手に携えて、実戦さながらに鍛錬を積んでいる光景が唐突に視界に飛び込んで来る。
その中には見知った、意中の凛々《りり》しい姿を見付けることが出来る。
(ああ! 懐かしい。あれって間違いなく施然様だわ。相変わらずひと際目を惹くわね。あの中で一番俊敏に動き周りながら剣を振るうお姿もとっても尊き。ヤバッ! やっぱり超ォ推せるんですけど)
剣術の鍛錬は、いつ終わるともなくひたすら続いている。
広大な敷地の中で二つの陣営に分かれた者達が、まるで実戦さながらに模擬戦を続けて居るのだ。
よく見ると数人ずつ、異なる色の布を腕に巻いている。
その少ない集団ごとに、時折左右に走ったり後ろに下がったりと奇妙な動きを見せている。
そんな中でも紅紅の瞳は、自然と施然の雄姿を追い掛け続けるのだが、どうしても気になる二人の人影が目に留まる。
一人は施然と同じ年頃の男性。きっと施然と同じ十三歳くらいなのだろう。
しかもその立ち居振る舞いは、ひと際堂々としていて隙も見せない。
(あの方も剣術の太刀筋は見事ね。しかも、と、に、か、く、施然様にも見劣らない程の超ォイケメンじゃない! 従兄妹の施然様が素敵なのは当然の帰結だけど、あの方もなかなかカッコ良いわよね)
そしてもう一人と言えば、意外にも紅紅と同じ年頃の女の子である。
ひょっとしたら年上かも知れないその整った容姿は、同性でもとても気になってしまう。
長い髪を一本に結わえて、鋭い剣筋で年上の男性や大人たちとも互角に打ち合っている。
汗を振り撒いてはいるがそれはとても爽やかな汗で、その容姿を際立たせることはあっても決してその美しさを損なうことは無い。
(なんか、言葉に出来ないくらい圧倒されちゃうわ。あんなに綺麗なのに鮮やかに木剣を振るって、手にマメとか出来ないのかしら? これだけ激しい戦闘の中でも息も乱さないで凛としているのって、マ、マジって感じ)
紅紅は木剣を手に集団で舞踊を舞うような光景に暫し目を奪われていたが、やがて現実の事態に気が付く。
(あらっ? ちょっと待って、冷静によく考えてみるのよ。あんな綺麗な娘と施然様が、毎日同じ屋根の下で過ごしてるってことじゃない。それって、ここのところあたしと音信不通だったこととか、関係アリ寄りのアリってことじゃないの)
そんな食い入るように見詰める私を見つけて何を勘違いしたのか、隣から一緒にジッと見つめながら陳宝が、説明するように話しかけてくる。
「小紅の嬢ちゃんも惹き込まれるだろ。あの模擬戦は二手に分かれて戦っちゃあいるが一向に勝負が付かない。そうなる様にあの壇上の御方が差配してるのさ」
確かによく見ると壇上には妙齢の女性が佇んでおり、左右に持った軍扇を巧みに振るって、両方の陣形や配置換えを行っているように見える。
片方が劣勢になると陣形の弱いところに人を集めたり、反対の側にハンデになるように配置を変えたりしている。
「あの軍扇を振るっている御方こそ、孫殄冦将軍の御母堂様、呉太妃ってわけだ」
そう言うと、自慢の重厚な真紅のマントを広げて見せる。
そこには金糸の刺繍で『呉太妃命』の文字がデカデカと縫い込まれている。
(なになに? この見た目は熊みたいなオッサンなのに、あの妙齢の女性が推しってことなのかしら?)
そんな風に思うと途端に陳宝の横顔から憧れる推しを見詰める熱いキラキラしたものを感じると共に、同類であるような連帯感を感じるようになってくる。
「陳宝に提案が有るんだけど。あの人達が模擬戦に勤しんでる内に、急いで水浴びをしに行きましょう! それはとても大事なことだわ」
「それなら、この近くに湧き水のある場所が在ったはずですわ」
隣の翠蓮が、素敵なアイデアを提案してくれる。
二輪車馬に乗る紅紅と翠蓮に続いて、葦毛の馬を駆る陳宝はいそいそとその場の隊列を抜け出すのであった
【人物註】
・呉太妃:死別した孫堅の正妻。四子一女の母親で女手一つで孫一家を束ねる。孫策の実母。
【用語註】
・軍扇:軍隊を指揮する際に用いる扇。諸葛亮が使ったとされる羽扇もこの一種。




