第033話 閑話 曹操の思惑(後篇)
曹操は木箱を開くと、古い竹簡を手にして繁々《しげしげ》と読み耽る。
すると、みるみる顔色が変わるのを皆が固唾を飲んで見守る。
「こんな物が『孫子幻の第十四篇』であろうはずがない!」
やがて顔に青筋が走り、プルプルと竹簡を握る手を震わせると大堂の床に叩きつける。
古くなった紐はその衝撃で千切れて、竹簡のみがバラバラと大堂の床一面に散乱する。
それに対して張清は静かに反論する。
「これは習礼とは申せ、孫家の冠礼に用意されたものです。これを偽書とされるのであれば、本物の存在こそ幻なのかも知れません。それよりも約定は果たしました。青州兵十万人の即時解放をお願い申し上げます。それに、この地で百万人の元黄巾党の非戦闘員が労役に付かされていることも知りました。これも違約と思われます」
「黄巾党云々のことなど、関係は無いわ! これは天子様をお迎えする国家事業ぞ。万民が労役に励むのは当然のこと。それにこのような火急の折である。青州兵十万人の開放は叶わん願いぞ」
曹操が大上段で、張清に吐き捨てる。
深と静まり返った大堂に、しわがれた声が響き渡る。
張汪は誰に語り掛けるともなしに、ゆったりとした口調で嘆きを漏らす。
「これは異なことを申されますなぁ。将なれば『厳』も必要なれど、『信』も『仁』も肝要と心得ます。我が《《息子》》は約定の下で命令に従ったまででございましょう。主命のために真贋も知れぬ物を命懸けで持ち出させておいて約束を反故にされる。それは信賞必罰の理とは思えませんなぁ。し、か、し、じゃ!」
しかし次の瞬間、徐に立ち上がると手にした杖を振り上げて張清を強かに打ち据える。
「この愚か者めが! 約定が有るとは申せ、主君の命に従うは当然の摂理のことじゃ。それを嵩に着て褒賞を求めるなど、君臣の忠義を弁えておらん。ましては事は天子様に関わることと有らば、万民がそれに従うが道理というものじゃ」
あまりに強かに打ち据えるため、張清の額の辺りから真っ赤で温かな液体がツウッと滴る。
「張粟邑県県令殿、私はこの者を罰する積もりで申したのではないのだ。その辺りで止められよ」
曹操も慌てて止めに入る。
すると張汪は、再び杖を床に置き丁重に平伏す。
「これは重ね重ねのご無礼の段、平にご容赦下され。然るに曹孟徳殿も黄巾党の残党とは申せ、いつまでも中華の民を兵役に縛り付けるのはいかがなものかと存ずる。この中華の土地も民も須く天子様のもの。今は天子様のためにご入用とあらば使われるのが宜しかろうと存ずるが、末代まで兵役に就かすは不憫というもの。せめて青州兵の任期は曹孟徳殿の一代に限るとの旨を誓紙として認めて頂きたい」
曹操と張汪の間は緊張感を帯びた静寂に包まれる。
フッ、ハハハハッ、ハハハハッ!
曹操は高らかに突然笑い出すと、荀彧を手招きする。
「この江北の地にも、未だに有望な人材に満ち溢れておる。まだまだ私は目が行き届いていないようであるな。紙と硯を持て! すぐにその旨を誓紙としてまとめて、張氏の養子縁組の餞としようぞ」
その後の曹操は打って変わって上機嫌になり、張氏の養子縁組を改めて祝う。
そして脇に控える荀彧に対して、機を見て囁く。
「私は常々『唯才是挙』と申しておったが、まさか有名無実化している『三公』の如き役所への推挙が、これ程までに適格に行われているとは思わなんだ。董卓始めとする無能な者による専横で名のある優秀な人材が、皆揃って南方に逃れていることが歯痒かったが、目の前に智者は数多居るではないか」
それに対して、荀彧は静かに頷いて見せる。
張氏親子は正月らしく華やいだ御膳で歓待されて、翌日には許県を離れる。
約定は果されなかったが、張清は誓紙を一枚を手にしている。
帰りの二輪車馬で、張汪は静かに語り出す。
「痛くはなかったか?」
「実際に痛みが無ければならなかったのです。それは、今になって良く分かります」
張清は頭に巻かれた包帯に、そっと手を触れる。
「民を永遠に兵役に就かせるなど、まるで奴婢の扱いではないか。ただし今は曹操よりも質の悪い長安に巣食う李傕や、袁術らが天子様の名を利用して天下万民に苦痛を強いておる。いま暫くは元黄巾党の一派を曹操の配下に置くのも止むを得ん選択やも知れんのぅ。ただし今回誓紙を書かせたが故に、あとは時を待てば良い」
「はい。父上」
張清は明るい笑顔で応える。
「曹操も今年で齢四十と聞く。この乱世の中で六十歳まで生き抜こうとも、黄巾党残党が屯田兵として仕えなければならんのは、あと二十年くらいのものじゃ。お前が曹操の歳になる頃には、望み通り元黄巾党の民は皆が解放されよう。それは青州兵三十万のみならずじゃ。労役を課されておる元黄巾党の無垢の民、百万人も同様と成ろう。焦らずに内外のことを大局に立って見詰めることこそ肝要なのじゃよ」
そう言い終わると、張汪は息子の頭をワシャワシャと撫で繰り回す。
「痛っ。痛いですよ父上!」
「張清よ。儂が拝命しておる粟邑県県令の職は華やいだものではない。しかし都での政に比べれば、地に足を付けて県民のための施政が行えるのじゃ。それは天子様が居られるからこそ成すことが出来るのだ。努々《ゆめゆめ》疎かにしてはならん。それと」
張汪は更に声を潜める。
「其方が孫家の間者を遣り続けるので有らば、よくよく巧くやるのじゃ。常に天下の趨勢を見極めることこそ肝要ぞ」
張清は驚いて目を瞠る。
さすがにそこまでのことは伝えてはおらず、手渡した書状にもそんなことは一行たりとも書かれてはいなかったはずなのだ。
張汪の双眸が、それまでとは打って変わって鋭いものに変わっている。
「情報はこの戦乱の世においては正に宝のようなものなのじゃよ、但しじゃ。玉に関心がない者に玉の情報を命懸けで探る必要はない。黄金もまた然り。そして古びた竹簡もまた同じなのじゃよ」
張清の驚きの表情など全く気にせずに、張汪は静かに続ける。
「それとな、お前はもう黄巾党教祖の跡継ぎでも、祀り上げられる存在でもない。きっと儂に託したのは、その重過ぎる枷から解き放つ意図もあるのじゃろうのぉ」
山間に入ると、積もる雪の量が少しづつ増えていくのが良く分かる。
少しずつ轍の跡が深くなるのを見ると、一行は粟邑県への道中を急ぐように進みだす。
「梟姫サマにとって、お宝となる情報とは一体どういったものになるのだろう?」
フッと口を吐く言葉が、白い靄に包み込まれる。
【用語註】
・奴婢:奴隷のこと。戦争奴隷、犯罪奴隷、借金奴隷など様々で、それぞれ「蒼頭奴」「官奴」「家奴」などと呼ばれる。




