第032話 閑話 曹操の思惑(前篇)
今年の初雪で、街道の景色は薄っすらと白く白粉で化粧する。
真新しい新雪を二本の轍と、いくつもの馬蹄のUの字が一列に跡を残す。
「ここからが、曹操の本拠地許県となるのぉ」
二人の親子が、二輪車馬に揺られて進む。
従者は数名が騎乗のままで、隊列を組んで付き従う。
「張粟邑県県令様。まさかここまで同行頂けるなんて、なんて感謝したら良いやら」
張汪は若者の言を鋭い視線で止めると、同時に小声で囁く。
「張清よ、これからは儂のことは父上と呼びなさい。当家で正式に養子縁組の形式は整えたのじゃ。それに今回の曹操との面会は一応の名目として、跡継ぎの紹介ということに成っておるのでのぉ」
それだけ言うと手にした杖に頤を乗せて再び、好々爺然とした微笑を讃える。
「それと一筋縄で、曹操と互角にやり取りができるなどと思わんことじゃ」
そう言葉を継ぐと、雪の中にも関わらずに周りで働く人足を視線で指し示す。
「あれは黄巾党に参加していた人達だ。非戦闘員なのに、こんな土木事業に駆り出されているのか!」
張清は悔し気に吐き捨てるように言う。
「間もなくこの地を新たな都とするとの専らの噂じゃ。まだまだ噂の範囲と思うとったが、これは曹操が帝位を簒奪するのも時間の問題やも知れんのぉ」
張汪は表情を一切変えずに、ポツリと呟くように溢す。
張汪の一行は、許県の県衙に向かう。
***
その頃、曹操は許県の大邸宅を拠点に自ら鍛え上げた親衛隊に対して、長安に遷都した亡き董卓の下で未だに傀儡と化している皇帝を奪還すべく指揮を取っている。
「よいか。皇帝を奪還したら、先ずは洛陽にてお迎えするのだ。そして洛陽の荒廃振りを良ぉ―く目に焼き付けさせることが肝要である。その後は理由を付けて、この許県に再度お運び願う。そこで洛陽の都にも劣らない許県の街並みを見せ付けて、皇帝自らが遷都を申し出るように仕向けるのだ。そのためにも一から町の区画整備を行い、新都建設に邁進せよ!」
「「ハハッ!」」
大堂に集う古参の武官・文官一同が、一勢に曹操に向かい平伏す。
曹操の号令の中、一人の文官が前に進み出る。
「こちらが新都の設計図と工期に予算、動員人数などが纏められております」
「さすが荀文若よ。常に先々を見据えて、我が覇道の道筋を導き出しおる。さすが若くして『王佐の才』と称えられた智者であるな」
曹操は満足気に、図面や数字のまとめられた調書に目を落とす。
すると県衙の門史が、荀彧に対して何事かを報告する。
荀彧は一瞬驚きの表情を浮かべるが、静かに曹操に報告を述べる。
「どうやら先触れの使者が伝えてきた通りに、粟邑県の県令が養子を伴って県衙の正門に訪れているそうなのですが。どうも」
荀彧にしては珍しく、その続きは口籠ったまま曹操の隣まで進むと何やら耳打ちする。
「なんだと! あの小僧が生きていると。なんと運の良い若者で有ることよ」
主礼席で感嘆の声を上げると、静かに思考を巡らす。
大堂に集まった武将も文官も一言も声を発する者はいない。
「わざわざ県衙に赴くのも面倒であるな。この曹操の邸宅で張親子を直々に迎え入れて、養子縁組の件を祝ってやろうではないか。すぐに使者を送るがよい」
曹操は顎の髯をひと撫ですると、深謀から沸き上がる笑みを浮かべる。
大堂から人払いを済ますと、荀彧と共に親衛隊『虎子』の隊長である典韋と数名の部下を招集して張親子の来訪を待つ。
やがて南の大扉が静かに開かれると、二人の親子が正装に身を包み姿を現わす。
先ずは張汪が拝礼の姿勢で杖を突きながら下座に就き、丁重に平伏す。
張清はその背に続いて、ひと抱えもある木箱を手にして父の所作を真似る。
「兗州牧の曹孟徳様に、新年の御年賀を申し上げる。つきましては吉日を選び、この者を正式に張家の養嫡子と致しました故、紹介のご挨拶に罷り越した次第にございます。些少ではございますが、年賀並びに養子縁組の引出物は県衙の方に収めさせて頂きました。こちらは、その目録にてございます」
親衛隊『虎子』の隊長である典韋が進み出て、目録を受け取ると背後に控える若者に対して苦々しく一言溢す。
「よくも生き残った上に、おめおめとこの許県に足を踏み入れたものよ」
目録と養子縁組みに関する奏上文が、曹操の手に渡る。
「張粟邑県県令よ、遠路の挨拶ご苦労である。しかしながら、その若者をどこで見付けて養嫡子としたのかの経緯については詳細を聞かせて貰わねばならぬ」
曹操の鋭い双眸が、二人の親子に突き刺さる。
しかし泰然とした風情で、張汪が答える。
「実は我が家は娘が一人いるのみで、家督を継ぐべき嫡子には終ぞ恵まれることはございませんでな。今年こそは跡継ぎを得られるようにと、神仙に祈って年を跨いたのでございます。すると翌朝、我が屋敷の前に若者が倒れていると家人が知らせに来ましてな。話を聞けば出自は明かせぬものの、曹孟徳殿に仕えていたと申すのです。話せば話すほど学識豊かで、聞けば当家と同じ張氏とのこと。これぞ神仙からの天啓と思い、今年の吉日を以って当家の養嫡子として正式に迎えました。それ故に、真っ先に曹孟徳殿にお会いしたいと思い馳せ参じたる次第にてございます」
曹操は訝し気な視線を張清に浴びせると、張汪の口上は話半分に聞き流して張清に対して詰問する。
「張清よ。私との約定を元に、これなる典韋の指揮の下で『虎子』による作戦に従事していたのであろう。派遣した『虎子』の部隊は、その殆どが捕縛されるか自死しておる。お主だけがおめおめと生きて戻れた経緯を聞かせてもらおうか」
曹操の視線が、更に鋭さを増す。
「恐れながら申し上げます。任務に基づき潜伏先で任務遂行の機会を伺っておりました。狙う物は管理が厳重で、とても手が出せる状況では在りませんでした。しかしながら間もなく好機が訪れました。とある御仁の冠礼のために、習礼を催すこととなったのです。私は衛士として潜入していましたので、そうした式典の荷物を運ぶと見せかけてその内の一巻だけを懐に忍ばせました。直ぐに繋ぎの者と連絡を取って脱出したかったのですが音信不通のままです。いつまでも屋敷に留まることは出来ません。黎明を以って駄馬一頭を引き連れて屋敷を飛び出し、飲まず食わずで兗州に向かって直走りました。やがて豫州に入ったことは分かりましたが、地図も無く何処に向かえば良いかも分からずに彷徨っておりました。その上に地方の治安は未だ安定せず命からがら北に向かって進むと、やがて大きな屋敷に辿り着いたのです。そこで力尽き落馬した様でした。その後は養父の申し上げた通りでございます」
張清は木箱を恭しく捧げ持ちあげると、再び平伏す。
そこで典韋が進み出て、木箱を受け取ると曹操に恭しく献上する。
【人物註】
・荀彧:字は「文若」。後漢の名門荀家の出自。徳治による王道を補佐する者『王佐の才』と称揚される。
・典韋:字は不明。堂々とした体格で怪力である。曹操の親衛隊を率い武猛校尉となる。
【用語註】
・虎子:親衛隊数百名内でも曹操の身辺警護に当たった精鋭部隊。武力を伴う諜報活動も行う。




