第031話 それぞれの初恋の行方
年の瀬もさし迫る頃、紅紅は茶菓子を携えて母屋にある梟の部屋に向かって小走りで向かう。
今日は呉太妃が開く私塾もお休みだ。
私塾も毎日行われる訳ではない。ただし剣術の稽古は別のようで、毎日行う鍛錬の積み重ねが重要なんだと梟は言いながら、早朝から決められた型を繰り返している。
ちょうどお昼前の時間なら、稽古も終えて身支度も済ませている頃だろう。
紅紅は侍女頭の翠蓮が用意してくれた、茶菓子の入った木箱を抱え直す。
何しろ先日、梟の言ってた通りの犯人が再度事件を起こしたのである。
今では白昼堂々と孫権が習礼を行っている最中に、張清が数多の将軍が居並ぶ前で盗みを働こうとしたという噂で持ちきりである。
その事件の後に張清は処刑されたとも、激戦の最前線に送られたとも噂されている。
紅紅が目的の部屋に到着する頃には、ちょうど寛ぎながら応接間を出入りする梟の姿を見止める。
「梟! 遊びに来ちゃったわ」
お菓子の箱を掲げながら、明るい笑顔が弾ける。
「紅紅、待ってたわ。きっと色々と気になることがあるのよね? ここのところお互いに忙しく動いてばっかりだったから、ゆっくりとその後のお話も出来ずにいたわよね。ちょうどお茶の準備をしていたところなのよ。一緒にいただきましょう」
静かな微笑で応える。
応接間には、すでに茶器が二組用意されている。
「あら梟ったら、あたしが来ることを誰から聞いたの? 近くだからと思って侍女の遣いも送らなかったのに」
ここのところの梟は、傍目から見ても忙しそうである。
もちろん事件のことも関係あるのだろうが、何よりも年を明ければ兄の孫権の冠礼の儀が控えている。
忙しい事情は、何となく察することが出来る。
「わたしが紅紅と会いたかったの。ちょうど一緒にお茶を楽しめたら良いなって思ってたのよ」
何事もないかのように、静かな微笑を浮かべたままである。
二人は連れ立って、応接室のいつもの席に付く。
「あ――ぁ。年が明けたら、まずは権の君が冠礼するでしょ? その次の吉日には、施然様が冠礼するのよ。あたしだけが知らされてなかったみたいに、みんな施然様が冠礼したら朱家に養子に入るって話バッカリしているわ!」
紅紅は、剥れたような表情を浮かべる。
「まぁ養子に迎えることは大事な話だから、両家ともに水面下での交渉は進んでいたのでしょうね。そんな折に劉繇との戦争ですもの。軽々には触れ回れなかったのも察しが付くわ。きっと伯符兄様が江東を安定したのを機に本格的に決まったのでしょうね」
「梟は冷静でいられて良いわよ。あたしなんか、好きな人がお兄様になってしまうのよ。もっとも梟の恋の話じゃ無いけど、あたしが結婚するのだって、あと七年は掛かるんだって思い知ったわ。だから施然様との恋も冷静に考えてみれば、結局は結ばれなかったのかも知れないわ」
あまりの残念な経緯に、迂闊にも梟の心の琴線に触れてしまう。
「やっぱり、わたしが周公瑾様と結ばれることって無いのかしら?」
憂いを浮かべながら、ポツリと溢す。
「違うのよ! そんなんじゃなくて、施然様と周公瑾様では雰囲気が違うじゃない。なんか周公瑾様って、いつ結婚するのか分からない感じに見えるでしょ? 孫伯符様もその点は似てるわよね。実際に二人とも才能に溢れてて、見た目も超ぉイケメンだからモテない訳が無いんだけど、現に二人とも二十歳になっても未だ結婚の話が出て無いじゃない」
紅紅が慌ててフォローする。
確かに孫策は、すでに孫家の当主であるのに未婚のままである。
「実際に伯符兄様が冠礼した時には各地に名声が轟いてたから、名家からの婚姻の申し入れは後を絶たなかったの。だけど父が突然に陣中で没したのを契機に話はピタリと止まったわ。孫家は土地を世襲する名家とは違うから、孫家の将来を危ぶんだのかも知れないわね。それに伯符兄様は直ぐに孫家の家督を継ぐことになって、その後は袁術の命ずるままに各地を転戦することになってしまったのよ。とても婚姻どころでは無くなってしまったわ」
「ごめんね。あたしも孫家の事情をそこまで知らなかったのよ」
「ううん、そうじゃなくて。周公瑾様も若くして名声が轟いていて、伯符兄様よりも若くして家督を継いでいたのよ。紅紅の言う通りで、何故未だに未婚なのかはよく分からないのよね」
梟は真剣に小首を傾げている。
そこで更なる地雷発言を口にしそうな紅紅だったが、ここだけはグッと堪える。
「あたしの好きな人が好きなお兄様になっちゃうのはとても悲しいことだわ。それでも全くの他人になってしまうよりはマシなのかも知れないわね。それに関しては前に梟が言ってた通りだわ。想いは叶わなかったけど、絆だけは深まったのは事実よね」
紅紅はカラ元気で苦笑いを浮かべる。口角が不自然にピクピクと歪む。
「周公瑾様はわたしが考えている間に、数手先を見通しているような御方なのよ。だから余計に不思議に感じるわ。そう言えば今日は張清のことが知りたくて来たんでしょ?」
梟はいつの間にか、愛用の鉄扇を口元に添えている。
「えっと、そんなことは……有るかも。だって本当に梟が想いを寄せているんじゃないか? って思ってたのですもの」
「わたしは紅紅にだけは、隠し事なんかしたくないって思ってるの。だけどここで話せるのは、真実のほんの一部分だけ。それですら内緒にしておいて欲しい内容なの」
きっと梟の笑顔に憂いが漂っていたのはそう言うことなんだと、薄紅色を纏う少女は察する。
そして飛びっきりの笑顔を浮かべて、頷きながら答える。
「当り前じゃない! あたしだって、朱家唯一の姫サマなんですからね。他人には打ち明けられない秘密くらい、いっぱい心の内に秘めてるのよ」
梟はクツクツと笑いながら答える。
「今なら少しだけ自分の気持ちが分かる気がするの。張清に感じてたのは違和感なんかじゃなくて、きっと親近憎悪みたいなものだったんだわ。だから逆に全ての罪が見通せても罰したくない思いが過ぎったのかも知れないの。それを見透かしたかのように、全てを解決に導いてくれたのが周公瑾様なのよ」
「じゃあ、きっと張清が犯した罪も止むにやまれなかったんでしょ? それを無かったことにする方策を、周公瑾様はお考えになったのね。それならば張清も、きっと幸せな人生が送れそうね」
梟は驚いたように愛用の鉄扇をピシャリと閉じて、紅紅の瞳を見詰める。
「あなた時々、核心を突くようなことを言うのね」
「それはね。もう少しだけ二人に時間があったのなら。きっと梟は張清のことを気になっていたと思うのよ。これは梟が辿り着けなかった初恋なんだわ」
「そうなのかしら?」
「そうに決まってるじゃない!」
二人の少女のクスクス笑いが、呉景屋敷の母屋に静かに響き渡る。
二人の初恋を失った少女たち。
二人の名家の姫サマ。
寒風が吹き荒び、呉景屋敷の落葉を舞い上げる。
間もなく新しい年、新しい恋を迎える。
―― 第二章 完 ――




