第030話 とある若者の旅立ち
新年を待たずして再び義侠団の装いを整えて、陳屋衛都尉率いる二十余名は騎乗して呉景屋敷を旅立つ。
道中から一人一人と隊列を離れて、各地の諜報の地へと馬首を向けることとなるのであろう。
張清は変装をして、この一行と行動を共にしている。
どこに曹操の手の者、褐巾賊が潜んでいるとも限らないからだ。
残りの二十余名も、厳重に屋敷の警護に当たる。
それより数日前に、話は遡る。
張清が通常の兵舎に移ることとなったとの知らせが、梟の元に届いた。
― あの若者は、ずっと教祖の息子という枷に縛り付けられているんだわ ―
そう思うと、孫家の姫サマとして運命を定められた自分と重ねて想いを巡らすようになる。
― とにかく会ってお話だけでもしないと、きっと後悔することになるわ ―
その想いから、張清に会いに兵舎に向かう。
今回は、紅紅にも内緒だ。
― あとで何か言われてしまうかも知れないが、あの娘には乱世に横たわる醜い部分には触れさせたくない ―
そう思い、その後は張清の話題にも一切触れていない。
梟が兵舎に足を運ぶのは稀なことである。
この呉景屋敷の中では主の姪であり、主君である孫策の妹であり、どうしたって姫サマなのである。
堅苦しいことに慣れていない梟ではあるが、孫策が江東で築いてきたものを知らぬ身ではない。
自らもまた、孫家の姫サマという見えない枷で縛られていることを自覚する。
兵舎は同じ間取りの部屋が一列に並ぶ。他に共有スペースもあるが、今回の目的はあくまで張清の部屋となる。
事前の連絡が行き届いていたようで、とある一室の前にだけ人影が佇む。
「急にお話がしたいなんて、聞いて驚かせてしまったかしら?」
梟は身体を縮こませながら、出迎える若者に語り掛ける。
江南とはいえ、この季節はさすがに大衣を纏っていても肌寒いのだ。
若者は「どうぞこちらに」と短く挨拶して、扉を開いて招き迎える。
梟も促されるままに、兵舎の中に足を踏み入れる。
簡素な部屋には寝台の他は文机一つ置かれていて、椅子だけが窓際に置かれている。
促されるままに、窓際の椅子にチョコンと腰掛ける。
張清は所在なさげに入り口の扉を開いたまま立ち尽くしているので、楽に腰掛けるように伝えると寝台の隅に腰掛ける。
梟は何から話し出したら良いかと、一拍の間を置く。
窓の外に視線を送ると、正規兵たちの掛け声が訓練場から聞こえてくる。
「ここの衛士として、生涯を過ごすことも出来たのかしらね」
窓の外の厳しい鍛錬の様子を目にしながら、フッとそんな言葉が口を吐く。
「私は極刑を覚悟しておりました。罪一等を減じるようにお口添えを頂いたのは、梟姫サマだとお伺いしております。どうして私などのために助命を頂けたのかは知りませんが、ありがとうございました」
張清は姿勢を正して、改めて拝礼の姿勢で感謝を述べる。
「聞いたの?」
短い問いにも、丁寧に『礼』を以って首肯する。
― やはりこの若者も未来を嘱望されて、色々な勉学やら儀礼の作法を学んできたのに違いないわ。だけど…… ―
「誰にも止むにやまれぬ事情ってものがあるわ。だから慎重に量刑を決めて欲しかっただけなのよ」
どうしたって、言葉が途切れ途切れになって上手く繋がってくれない。
「だけどね。わたしは殺された家人を良く知ってたわ。陽気なオジサンで結婚は未だだったけど、自分の収入はほとんどを実家の母親に仕送りしていたわ。今は戦乱の世だからって、死んでもいい人なんて誰もいないのよ」
若者は寝台に崩れるように腰掛けると、声を震わせながら話し始める。
「私はあの時、初めて人を殺めてしまいました。青州での再挙兵の際ですら誰も手に掛けることは無かった」
そして自らの手のひらを見詰める。
その光景を目にして、梟も彼のあの固まり切らない剣ダコの手のひらを思い出す。
― ずっと小振りの剣での技を習得してたのに、きっと義侠団に入ってから大振りの剣での訓練で出来たのね ―
「私はあの戦争においても次代の教祖と崇められて、仲間が矢傷や飢えに苦しんで死んでいくのをただ見守ることしか出来なかったのです。そして曹操は苛烈でした。相手の犠牲が兵士であろうが、一般の民であろうが容赦がなかった。だから周将軍が事情を吟味して策を授けて頂かなければ、この任務を失敗した時点で無事に帰れるなど考えてもいませんでした」
「それは任務を果たしていたとしても?」
「はい。結局はその場限りで、曹操にとって端から私の存在自体が邪魔だったのです。そのことが今ならハッキリと分かります。曹操が覇権を狙えるのは、青州兵の人数の多さと教義による団結心なのです。つまりは私自身が青州黄巾党の民を縛り付けていたのです」
そこまで話して、自分が曹操という人間にいかに踊らされていたかを思い知る。
しかし再びその瞳に希望の光を宿すと、梟に対して続けて語り出す。
「しかし周将軍から策を授けて頂きました。今は曹操が青州兵を決して手放さないのは明白です。その代わりに青州黄巾党百万人が仕えるのは曹操一代に限る旨を誓紙を以って約させるのです。今ではなく、未来の自由を手に入れるのです」
「そんな無茶な駆け引きを、あなた一人で取り付けるのは余りに無謀だわ!」
梟はその危険性に声が一段と大きくなる。
「周将軍は思慮深い御方です。私自身の身の安全にも抜かりなく、同姓の張汪様との養子縁組の手配までして頂いたのです。張汪様は曹操の勢力下である栗邑県で県令を務めていますが、帝位を簒奪する者を忌み嫌ってるそうです。そのため、最初の目的地として粟邑県を目指します」
― さすが周公瑾様だわ。いつの時点からここまでの策を練っていたのかしら? ―
梟は周瑜の策を聞かされて、改めて緻密な策略に舌を巻く。
「もちろん。孫家への感謝と償いは一生背負うつもりです。今後は陳屋衛都尉様の《《裏》》の組織の傘下に正式に入ることになります。今後、孫家が必要となる情報は陳屋衛都尉様に届けさせて頂きます。そして梟姫サマにも」
「それって、孫家の間者として諜報活動をするってことでしょ? 危険な任務だわ」
「これは私の贖罪なのです。それと私自身の枷まで解いて頂く、梟姫サマへの細やかなご恩返しでもあるのです。それに諜報というほどの情報を私ごときが簡単には得られませんので危険も余り無いのです」
張清は初めて、明るく笑顔で答える。
「あなたは黄巾党なんて多くの人々の人生を抱え込む必要なんかないわ。必ずただの張清として生きていく方法が有るはずよ。諦めないでね。きっと幸せを見つけてね」
梟は、自らの願いを重ねるように訴えかける。
「梟姫サマにも、きっと多くの生き方が有るはずです。いざという時には、この張清を思い出して下さい。きっとご恩に報いさせて頂きます」
張清は静かに、儒教的な拱手礼で別れの挨拶をする。
「張清もお元気で。あなたのことは忘れないわ」
梟は両手を胸の前で拝むように合わせて、道教的な作揖の挨拶でお辞儀する。
その日寒風吹き荒ぶ静かな兵舎の中で、二人だけの穏やかな別れの時間がゆったりと流れる。
そしてその数日後に、《《元》》義侠団の隊列が曲阿県の呉景屋敷を離れる。
【用語註】
・拱手礼:儒教に基づいた礼儀作法で、敬意や感謝を含んだ挨拶に使われたとされる。
・作揖:一般的にも浸透している宗教的挨拶。仏教にも道鏡にもルーツを持つ。




