第029話 罪人との駆け引き
張清は諦念を浮かべた表情のまま、梟に顔を向けて静かに語る。
「お姫サマの口添えはとても嬉しいが、私が行ったことは決して許されることではない。孫将軍が仰る通りに相応の罰を受けなければならない」
― ひょっとしたら、わたしの差し出すこの手のひらは、あの人の救いには《《ならない》》のかも知れない ―
自分の力不足に無力感すら感じる。それに確かに孫策は、既に罪を処断すると言っている。
― 情けは他人の為ならず ―
フッと脳裏に、そんな言葉が浮かんでくる。
再度、梟は覚悟を決めて背筋をピンと張る。
「あなたは曹操の言いなりになって、こんな理不尽な要求に従うだけなの? それでは黄巾党の民を一人も救えなくって、その人たちみんなの期待を失望に変えるだけなんだわ。そして憎しみに駆られた黄巾党の民は、誰も望まない戦争に身を投じる。そんな生き方を強いることが、あなたの遣りたいことだったの!」
「違う! それだけは断じて違う。私が居ることで黄巾党の民は曹操の下を離れられないのかも知れないんだ。解放される民が居ないのなら、せめて心の束縛だけでも取り除いてあげられるかも知れない」
張清は勢いよく立ち上がる。
その拍子に腕に掛けられていた布が、ハラリと落ちる。
見ると手にも足にも、丈夫な革で作られた枷が嵌られている。
― 今まさに束縛されているのは、間違いなくこの人なんだわ ―
梟も席から立ち上がり、大きく息を吸い込む。
「もしも『孫子幻の第十四篇』を持たせて曹操の元に戻れば、本当に十万人の民が解放されるのかしら? そもそもあなたは未だ冠礼の儀も受けてないのに、そこまでの重荷をたった一人で背負うべきではないわ」
「少なくとも私の歎願を受けて、曹操はそう約したんだ。青州で投降した折も、曹操に指揮下に入れば父が民に施したように一生の生活を保障するって約したんだ。私にこれ以上、何が出来たと言うんだ」
― 顔は紅潮しているが、まだまだ絶望の糸に囚われている ―
すると徐に呉太妃が一言だけ提案する。
「それでは、この者に『孫子幻の第十四篇』を譲りましょう」
その場に居る者全員が、呉太妃を見詰める。
「たかが兵法書の一篇に過ぎません。それで、この若者の運命と十万人の民が幸せになるのなら、それは始祖孫武の意志に他なりません」
呉太妃は静かに諭す。
「母上、あれは孫家の宝です。それを成り上がりの曹操の手にむざむざ渡すのは、私は反対です」
孫権が珍しく強い口調で反対する。
その孫権の言を制すように、孫策も立ち上がり張清に問う。
「事情は全て聞かせてもらった。私は母上の申される通り、疲弊した民を十万人も救えるのなら『孫子幻の第十四篇』をくれてやっても良い。しかも丁度都合良く『君主篇』とはな。曹操も戦争ばかりではなく、何が国の統治に肝要かを知るには良い機会となろう」
そう述べると、ニヤリと笑みを湛える。
「そこで張清よ。孫家は先祖伝来の家宝を其方に託すのだ。果たしてその対価をどのようにして返す積もりであるかな?」
「もしもその話の通りに私の願いが叶うのなら、曹操に『孫子幻の第十四篇』を渡して民十万人を解放するのなら、その民と共に孫家に仕官いたします。孫将軍が先日発布した令は投降した民を保護するもの。曹操の屯田兵制よりも遥かに寛大な触れと感じました」
ようやく張清の瞳にも光が灯る。
「それではお主に『孫子幻の第十四篇』を託した時点から、我が孫家の傘下に入ると言うことでも良いな」
孫策がひと際大声量で、張清に問い掛ける。
「約束を違えることは断じてありません。教典『太平清領書』に誓って!」
張清は力強く応える。
孫策は大いに満足すると、再び席に深々と腰を下ろす。
「それではこの後は、僭越ながらこの公瑾が話を詰めましょう。それと張子布殿もお呼びいただけないでしょうか?」
孫策は大きく頷くと陳宝を残して、孫家一同を引き連れて離れの座敷牢の如き簡素な部屋を後にする。
「権兄様。先程は異なる意見を述べてしまい申し訳ありません」
梟は孫権の背に向かって深々と頭を下げる。
アッハッハッハッハ!
孫権はひと頻り笑い飛ばすと、梟に向かって笑顔で応える。
「梟の意向などお見通しさ。お陰で私が悪役を演じる羽目になってしまったがね」
その返答に、さすがの梟もキョトンとする。
「まぁ、ここまでが冠礼の儀の習礼と言う訳だな」
孫策が先頭で笑顔で応える。
「まぁ、本当に『孫子幻の第十四篇』など渡す積もりなど無いのですよ。誰も知らぬ『君主篇』。少々、曹操には耳が痛い内容を私が竹簡に筆で認めましょう」
呉太妃も何やらクツクツと、忍び笑いを堪えている風情だ。
「ひょっとして、みんなでわたしのことを騙してたの!」
梟もここまで聞けば察しが付く。
「だけど偽書なんかを、張清に持たせて無事で済むのかしら?」
心配半分、後ろめたさ半分で問い掛ける。
「誰も『君主篇』など知らないのだよ。曹操だって真贋も計れずに張清を罰することは出来ないさ。もしも偽書と断じる欠陥を見つけ出しても、孫家から持ち出した『孫子幻の第十四篇』なんだ。曹操の対応が見物というものだよ。きっと青州兵に対する人質である張清を誅する訳にもいかず、かといって青州黄巾党十万人もの兵力を手放すとは思えん。きっと我々が描いた絵図の通りに動くはずさ」
孫権が珍しく饒舌に語る。
「それにな。ちゃんと張清を見守る者も用意してある。張昭が三公の役所に推挙された時に、共に辞退した者がいてな。名を張汪という。今は豫洲の粟邑県の県令を務めているはず。青州兵の処遇にも一枚噛んでる変わり者でな。場合によっては張清を養子に迎えて、曹操の支配下から解き放ってくれよう」
孫策が楽し気に語り始める。
「それでも、あの張清をただ開放する訳ではないんでしょ?」
梟が核心に触れる。
「それはそうね。死罪から罪一等を減じるのですから。今後はそれなりの働きをして貰います」
呉太妃が毅然と述べる。
「張清は陳屋衛都尉の最初の《《裏》》の部下とする。そのためにも、この曲阿県に潜伏中の褐巾賊は一人残らず捕縛する」
孫策は振り返り、皆に向かって宣する。
― 今は張清にとって青州黄巾党とは距離をおいて、新たな生きがいを見出すべきかもしれないわ ―
梟はそこまで考えを巡らせると、兄達の背に追い付こうと回廊を駆け出す。
【人物註】
・張汪:字は不明。優秀な文官で八歳の娘がいる。曹操の勢力下の豫洲で栗邑県県令を務める。
【用語註】
・三公:後漢の最高官職で大尉・司徒・司空の三つの役職で軍事・行政・民政について皇帝の補佐をする。




