第002話 思わぬ大役
翠蓮に続いて、行政区画を真っ直ぐ進む。
幾名かの夜勤明けの文官が、進む先々で道を開けて両手を袖に収めて頭上に高々と掲げて拝礼の姿勢をとる。
紅紅たち一行は、謁見の間のある大堂に足を踏み入れる。
天井の高い板葺きの広間は、足元からひんやりとした冷気を感じる。
最奥に一段高く設えられた漆塗りの黒檀の太守席には、既に父の朱治が正装の漢服に戴冠佩刀して腰掛けている。
紅紅は静々と父親の前に進み出ると、拝礼の姿勢で跪く。
背後には侍女頭の翠蓮を始め、侍女たちもまたそれに倣う。
そんな愛娘を暫し穏やかな眼差しで見詰めていたが、意を決するように徐に口を開く。
「紅紅や。朝早くから呼び出してしまったが、これから私が言うことを心して聞きなさい」
優しい声音ではあるが、決意に満ちた険しい表情の父を初めて目にする気がする。
「はい、お父様」
紅紅は緊張した面持ちをひた隠して、穏やかな口調を心掛けて答える。
「これより、孫殄冦将軍の使者が謁見の間に訪れる。私にとっては旧知の者だ。多少……ゴホン、豪放磊落なところもあるが、先ずは丁重に迎えることじゃ。要件次第ではあるがのぉ」
そこで朱治は再び柔らかな顎鬚を一撫でして、束の間の思索の時を過ごしたが、直ぐに再び険しい表情になったかと思うと言葉を継いだ。
「紅紅には朱家当主たる私の名代として、これから来る者と共に阜陵県まで、さる御方のお迎えに同行して貰いたい」
「阜陵県といえば、長江の大河を渡って遥か北の地ですね。昔、叔母様の屋敷に遊びに行った覚えがございますわ」
「そう、今回向かう先は正にその屋敷となるじゃろう。今は引き払って施然だけが留守居役をしておるはずじゃ」
「し、施然様!」
紅紅は驚きのあまり声を上擦らせたかと思うと、途端に見る見るうちに耳までほんのりと朱に染まる。
「そうじゃ、従兄妹の施然じゃ。昔はよく遊んでおったじゃろう」
「は、はい! お父様」
(えっ? や、ヤバッ。 昔から立ち居振舞いが素敵でカッコ良い施然様! そう言えば何か有ると、必ずあたしのことを助けてくれてたわ。ひょっとして施然様もあたしのことが気になってたとか? ここのところ一年くらい音信不通だったから心配になってたけど、きっと大事なお役目を課せられてたに違いないわ。まさかの再開なんて、これって運命なのかしら?)
なにやら挙動不審な動きと共にモジモジしだす愛娘を目の前にして、朱治は腕を組みながら更に暫し思考の渦に沈み込んでいたが、やがて意を決した面持ちで言葉を継いだ。
「紅紅はまだ齢七歳。お前の不安な気持ちはよく分かる。だから無理強いも出来ぬ。本来ならあの御方の迎えには、私が自ら赴きたいところだが、政情不安なこの揚州の治安を一刻も早く正常化するためには、まだまだ余人に任せる訳にもいかん。それに今後は曲阿県の治安維持も手掛けねばならぬかも知れん。しかし此度の任の重要性を鑑みるに、私の名代は唯一の子女である紅紅以外には思い当たらん」
「お父様! あたしにお任せくださいませ」
「じゃが、此度は遊山の旅とはならんであろう。まだまだ幼き紅紅にどんな危険が及ぶかも知れんのだ」
「大丈夫ですわ! い、いえ大事なお役目とあらば、あたしだって朱家の娘です。無事にこの大任を全うしてみせますわ」
朱治には立派な口上とは裏腹に、あどけない表情を浮かべる愛娘の姿を改めて目の前にして、やはり幼過ぎるのでは? との懸念が沸き上がるのを感じずにはいられない。
しかし今は、その感情すらも唯々《ただただ》押し殺すしかなかった。
「これより使者を迎え入れる。紅紅は私の名代として、隣の席に座りなさい」
侍女頭の翠蓮は朱治太守に対して深々と拝礼を行うと、残りの侍女たちを引き連れて静々と謁見の間から引き下がる。
入れ替わるように呉県の重鎮の文官、武官が入室し始める。
紅紅は父の隣の一段下がったところに設えられた、朱塗りの椅子にチョコンと腰掛ける。
やがて銅鑼を打ち鳴らす音色の響きと共に下座の大扉が、ギイイ――ッと軋む音を立てながら開かれていく。
その大扉の向こうには、七尺七寸(約180センチメートル)は有ろうかという見上げる程の大漢が待ち構えていた。
正装である真紅の漢服を身に纏ってはいるが、頭の総髪は無造作に一つに束ねられ、針鼠のように剛毛に覆われた髯は頬顎に手入れなく生い茂っている。
丸太のような足が板葺きの床を踏み締める度に、ギシリギシリと重厚な軋む音が響き渡る。
太守席の前まで進み出ると、その大きな体躯を屈めるように深々と拝礼しながら跪く。
「お久しぶりでございますな、君理県令殿。いや失礼仕った。今は呉郡の朱太守様でございますな」
「いやお主と私の仲ではないか、以前のように君理とお呼びなされ。貴殿の兄上、子烈殿もご壮健であるか?」
「兄者は相変わらず孫殄冦将軍と共に、最前線で戦争三昧の日々でござろう。もっとも我も手勢の義侠団を束ねて、各地を飛び回っておりましたがな。ガハハハハッ!」
豪快にひと頻り笑い飛ばすと不意に真顔に直って、再度拝礼の姿勢に戻りながら胸元から書状を取り出し恭しく頭上に捧げ上げる。
「こちらは孫殄冦将軍から、呉県県令の朱太守への親書にござる」
直ぐに文官が黒盆を携えて丁重に盆上に移して、朱治が腰掛ける太守席に捧げ上げる。
朱治も恭しく親書を受け取ると、封を紐解いて書状に目を落とす。
「伯符殿もようやく悲願の第一歩を成し遂げられたご様子。先ずは上々《じょうじょう》。それでは此度の来訪は、私が大切にお預かりしている御母堂様をお迎えする任ということでよろしいかな」
朱治は顔を綻ばせて、陳宝の両眼を見詰める。
両者の口元に笑みが零れたかと思うと、隣からトンでもない声が響いてきた。
「ふぅわわわ、くっ、臭ぁ――い! ずっと息を止めてたけど、もう我慢できないわ」
紅紅が鼻を摘まみ、しかめっ面で跪く陳宝を見詰めている。
【人物註】
・陳武:字は「子烈」。官位は別部司馬。若くして寿春県に赴き孫策に出仕。不敗の精鋭部隊を率いる。
【用語註】
・別部司馬:別動隊の指揮官。信頼できる者を充てることが多い。
・義侠団:「義侠」は義を重んじ弱きを助ける理念。義侠の理念と精神をもつ集団。




