第023話 深夜の惨劇
深と静まり返る呉景屋敷。
所々に油灯が灯されるのみで、遠く虫や蛙の奏でる音が微かに聞こえるばかり。
要所にはもちろん立哨を置き、警備に当たってはいるが形ばかり。
今の曲阿県の治安は非常に落ち着いているのだ。
そんな呉景屋敷の片隅に人影が揺れる。
音もなく油灯の脇を擦り抜けるように、その人影は呉景屋敷の母屋へと滑り込む。
ギャー! ギャー! ギャー! ギャー!
梟の寝所で、フクロウのパイシャオが羽搏き騒ぎ出す。
「どうしたの? パイシャオ、安心して。大人しくしてちょうだい」
寝台の脇に据えられた油灯に火を灯すと、梟がパイシャオを撫でながら窘める。
隣に寝ていた紅紅も、眠い目を擦りながら身体を起こす。
「なにか起きたの?」
「分からないわ。もう少し様子をみて何もなければ、改めて寝ましょう」
梟は厚手の大衣を肩から羽織ると、朱塗りの短鎗を手元に寄せて、外の様子を静かに伺う。
僅かな灯りの中で、不審な人影は屋敷の奥へと歩を進める。
すると深夜にも関わらず、不意に赤ら顔の家人が廊下に踏み出す。
手持ちの携灯で廊下を踏み出すと、不審な灯りが廊下の角に消えるのを目にする。
見間違いかと確認のため、その後を追う。
「お――い! 誰かいるのか」
一声掛けて、廊下の角を折れる。
すると……。
グゥガガガガァ――!
声にならない叫び声が、静寂な闇夜を切り裂くように響き渡る。
その必死の断末魔は、呉景屋敷を急に動かし出す。
「ヤッパリ何かが起きてるみたいだわ」
梟は寝所を飛び起きると、直ぐに侍女を集めて部屋を固めさせる。
「紅紅はここで待ってて。ここならば侍女たちが守ってくれるから安心だわ」
「梟はどうするの?」
紅紅は恐る恐る尋ねる。
「わたしは状況を確認しに行くわ」
梟は朱塗りの短鎗を片手に、断末魔の発声源へと向かう。
警備の衛士や母屋の各所から、軽武装した者が飛び出してくる。
向かう先には、既に武装した者が数名集まっている。
「どうなっている?」
背後から、孫権の低い声が響く。
「どうやら、何者かが邸内に侵入した模様です。侵入経路は判明しておりませんが、門扉は固く閉ざされ、賊を捉える包囲網は陳屋衛都尉殿が自ら指揮を執っておりますので、直に捕まるかと思います」
孫権の姿を見止めると、警備の衛士は抱拳礼で深々と拝礼しながら報告する。
「刺殺されたのは……」
視線を向けると、夥しい血溜まりを避けるように、大衣を被った少女が倒れた家人を上から丹念に調べている。
「梟、何か分かるか?」
孫権が短く問う。
「鋭利な刃物で喉元を一突き。不意を突いたのか、余程の手練れか。それに傷口が変色していて、周囲に緑色の液体が付着しています。この液体は、ここまでの道中で夜陰に紛れて襲ってきた褐巾賊が使っていた毒と同じもののように見えますわ。皆に毒には触れないよう周知させて下さいませ」
梟は未だ仄かに暖かい家人の遺骸の目蓋をそっと閉じさせると、両の手を胸の上に組ませる。
すると、ハッと思い付いたように声を上げる。
「誰か直ぐに陳宝に伝えて! 賊は褐巾賊の一味の可能性が高いって」
警備の衛士が一人駆け出していく。
梟は孫権を見詰めると毅然とした声で伝える。
「この後は権兄様が指揮をお取り下さい。褐巾賊だとしたら、この広大な屋敷のどこに潜んで居るやも知れません。孫家一家に家臣重鎮が揃っているのですから、もうこれ以上の被害を出す訳にはいきませんわ」
その後は孫権の指揮の下で徹底的な捜索がなされるが、夜が明けても遂に賊を捕まえることは出来なかった。
翌日になり日が昇ると、賊の残した痕跡をいくつか見付けることが出来た。
まずは肝心な凶器は、中庭の池から呆気なく発見される。
理由は簡単である。池に放たれていた鯉が数匹死んで浮かんでいたのだ。
毒に汚染されていることを留意して、池の底を攫ったところ刃先の鋭い小刀が押収される。
また、その奥を念入りに捜索すると外壁に鍵爪の跡が見つかり、辺りには鍵爪で割られたであろう塀の瓦が欠けて落ちていた。
それらを以って、今回の事件は物取りの単独犯で屋敷に侵入したは良いが金目の物が見付からずに、迂闊にも母屋に足を踏み入れたところで家人に見付かったために夜陰に紛れて殺害した上で証拠となる凶器を池に投げ捨てて、慌てて鍵爪付きの縄を手繰って昇り水堀を泳いで渡った後に町中に逃走したと結論付けた。
「こんなことで賊を取り逃がしたとするなんて、権兄様らしく有りませんわ」
梟は今回の事件の幕引きには、大いに反対で珍しく孫権に直談判しに来ている。
「まぁ、梟なら納得しないだろうな。お前にだけには伝えておこう。今回の件は既に、皆に報告済みなのだよ。伯符兄様にも、母上にもな。賊もこれ以上は危害を加えることは出来ないだろう。警備も厳重にするからな。賊を捕らえるのは容易いかも知れない。しかし真の陰謀を知るには、賊を油断させて少しばかり泳がせてみることだ」
孫権は既に今回の事件のあらましを、既に見抜いているような口振りである。
「もしも、わたしが先に賊の正体を見付けたらどうしますか?」
孫権は顎に手を遣り、暫し考察するが直ぐに決断する。
「さすがに梟が見抜く頃には皆が気付いていようが、先ずは私か母上に伝えなさい……だが予め言っておくが、孫家に弓引く者は何人で有ろうとも極刑に処すことだけは忘れるなよ」
「もしも。もしもわたしが賊の正体と企みの全てを知ることが出来れば、その後の処遇に関してわたしも協議に加わることをお許し願えますか?」
梟は毅然として、孫権と対峙する。
「フッ、良いだろう。約束しよう」
孫権はやや表情を緩めて答える。
そして立ち去る妹の成長ぶりを、ただ優しく見届けるのであった。
― あ! そう言えば一晩中、紅紅を寝室に置き去りにしてきちゃったわ ―
急ぎ足で自室にとって返すと、紅紅は一人剥くれながらフクロウのパイシャオにカエルの足を与えている。
「朝食も忘れて、大衣を羽織ったまんまの格好で、今の時間まで出て行ったきりよ。事情は侍女伝手から聞いてはいるけど。梟ったら、あたしのこと完全に忘れてたでしょ?」
紅紅はジト目で、梟のことを見詰めている。
「本当っと、ごめんなさい!」
勢い良く頭を下げる梟に対して、紅紅は明るく笑って答える。
二人顔を見合わせて、大笑いする。
その姿は傍目からは昨夜から長く続いた緊張感から、やっと解放されたサインのように見える。
― 皆は一件落着って思ってるかも知れないけど、危険はまだ取り除かれていないんだわ ―
【用語註】
・大衣:防寒用の外套のこと。




