第001話 江東の朝焼け
江東は大陸でも温暖多湿な地域である。
残暑厳しい季節には早朝から朝霧が立ち込め、辺りの静寂と共に幻想的な光景が広がる。
そんな江東の地、呉県の堅牢な城郭の外から静寂を打ち破るように、土埃を巻き上げて数十騎の一団が城門に向かって直走る。
城門との距離が詰まるにつれて、夜警の門候・門卒たちに緊張が走る。
物見からは門候が営舎に向かって伝令として走り、門史は警戒を知らせる鐘を打ち鳴らす。
騎乗の一団は各々が自前の革鎧を身に纏い、その肩越しに背負う得物も様々であるが、それらは一様に使い込まれたものである。
とりわけ先頭を直走る大柄な漢はひと際目を引く。
総髪を粗野に束ねるだけで兜も被らず、顔の輪郭が二回りも大きく見える剛髯が頬顎を包み込む。
特に目を引くのは背に靡く重厚な真紅のマント。特に金糸で何やら大きな文字が刺繍されている。
大柄な漢は片手でマントを紐解き、そのまま鷲掴みにすると高々と掲げて野太い声で名乗りを上げる。
「我は孫殄冦将軍の配下で陳宝と申す。呉県の県令、朱太守への目通りを願う。早急に取り次がれよ!」
まだ城門からは遥かに距離があるにも拘らず、大漢が発する口上は傍から聞こえるかのように地鳴りのように轟き渡る。
更には騎乗の一団が一斉に、真紅に染め上げられた『孫』の文字の書かれた旗を片手で握り締めて高々と掲げ揚げる。
まるで騎馬一団の頭上に、真紅の巨大な布が棚引くように見える。
その光景を目にした城門を統率する呉県の城門校尉は、城壁の上から狙いを定める弓兵や城門を固めて槍を構える門卒を慌てて制止する。
騎乗の一団は城門の前でピタリと騎馬を停めると、先頭の大漢が胸元から書状を取り出して城門校尉に向かって目の前に突き出す。
城門校尉はおずおずとその書状に手を伸ばすと、再び騎乗の大漢に大音量で制される。
「無礼者! 我は孫殄冦将軍の使者であるぞ。これは朱太守宛の親書じゃ! そのほうは直ちに城門を開いて、県衙まで案内すればよい」
先に報告に出ていた門候が戻ると、城門校尉に何やら小声で囁く。
すると城門校尉は目を見開き、急ぎ城門を開くように指示を始める。
重厚な城門が地鳴りのように軋む音を響かせながら、ゆっくりと開いて行く。
開かれた城門からは幅広く固められた大路が、市井の街並みを横手に県衙まで真っ直ぐと延びている。
呉県の城門校尉は自らも馬を曳き、大漢と轡を並べる。
「孫殄冦将軍の使者殿、ご無礼仕った。これより朱太守の元までご案内申し上げる」
陳宝率いる一団が呉県に入城すると、再び城門は固く閉ざされる。
初秋の穏やかな風が朝霧を晴らし、柔らかな陽光が江東の城壁を朱く染め始めていた。
呉県の県衙には、高官らが住む屋敷が建ち並ぶ。
その中でも県衙に隣接するひと際大きな屋敷には、県令を兼任する朱治の一家が住んでいる。
特に朱家の屋敷の中でも、ここ紅紅の寝所からは女性の声が甲高く響く。
「姫サマ、お起き下さいませ。旦那様からの火急のお呼び出しにございます。紅紅様! お早くお目覚め下さいませ」
妙齢の侍女頭がけたたましく呼びかけながら、紅紅の身体を揺さぶり続ける。
「翠蓮ったら、まだお日様も昇ってないわ。お父様もきっと寝ぼけてるのよ。だ、か、ら、お休みなさ――い」
紅紅は再び、掛布団に包ろうとする。
「今日ばかりは、そうはいきません!」
侍女頭の翠蓮は布団ごと紅紅を担ぎ上げ、寝台から引きずり下ろす。
その弾みで紅紅は、強かに床にお尻を打ち付けてしまう。
「痛ったたたたた。翠蓮ったら酷いわ。お父様が呼んでるからって、こんなに朝早くから起こすことなんて今まで無かったじゃない!」
紅紅はお尻を擦りさすり、頬っぺたを大きく膨らませる。
「本日は急な特使が参られているのです。旦那様も県衙の謁見の間に向かっているはずです。このたびは普段の政務とは異なる印象でしたから、きっと重要な内容だと思いますわ」
翠蓮は、息吐く暇なく話を続ける。
「直ぐに御髪を整えて、正装にお召替え頂きますよ」
次々と侍女たちが集まると、紅紅の髪を櫛で丁寧に梳かして絹仕立ての長衣の曲裾袍を帯で着付けていく。
やがて髪は両側をお団子に結い上げられ、紅玉付きの銀の簪を挿し、薄紅色の曲裾袍の着付けも済み、薄っすらと紅を引かれる。
紅紅はまだ、今年七歳になったばかりだ。
それでも正装に身を包むと、それなりの姫サマに見えるから不思議なものである。
それは名家の跡取りとしての教え、立ち居振る舞いの賜物と言えよう。
侍女頭の翠蓮も自ら深い緑色の深衣に着替えて、身嗜みを整えている。
化粧の類いは、あくまで控えめに品よく整えている。
「それでは参りましょうか」
翠蓮が先導して母屋を離れる。
向かう先は県衙内での政務区画にある大堂、謁見の間である。
「ふあぁあぁ……」
大欠伸の紅紅には、これから起こる出来事など微塵も気にしてはいなかった。
【人名註】
・孫策:字は「伯符」。孫堅と呉太妃の長男。孫堅戦没後に若くして家督を継ぐ。
・陳宝:字は後述。兄の陳武と共に孫策に出仕。義侠団を率いる。
【用語註】
・殄寇将軍:賊徒討伐を名目とした将軍。孫策の役職。袁術が皇帝を蔑ろに任命。
・県衙:地方行政機関(行政・司法・徴税・治安)のこと。県令が執務する役所。
・城門校尉:城門の治安・警護責任者。
・門候:城門校尉に従う実務担当官。
・門卒:城門校尉に従う監視・警備兵。
・門史:城門校尉に従う記録・雑務担当。
・深衣:上衣とスカート状の布を縫い合わせたもの。女官の正装。
・曲裾袍:深衣の一種。スカート状のシルエットがより長く優雅。




