第017話 大きな楠の木の下で
紅紅の新しい部屋は、事前に到着していた侍女たちのお陰で既に綺麗に整えられていた。
侍女頭の翠蓮も、部屋の中を一通り一瞥すると振り返り侍女たちに声を掛ける。
「皆の者ご苦労でした。これならば姫サマも快適にお過ごしいただけるでしょう」
そう言うと、後ろを付いて来る紅紅を中に迎え入れる。
新しい部屋は、嘗て呉県の県衙に設えられてた部屋よりも見違えるほど広くて立派である。
続きの間もいくつか用意されていて、応接の間、控えの間、寝室、さらに専属侍女が泊まれる部屋まで用意されている。
「翠蓮、ここって広くて素敵ね」
「はい。落ち付いたら、明日にも呉太守と呉太妃の下に御礼の挨拶に出掛けることに致しましょう」
そう言うとアポイントを取りに、侍女一名を母屋に向かわせる。
「久しぶりのお屋敷だもの。早速、お気に入りの服に着替えたいわ」
紅紅は翠蓮と他に侍女数名を従えて、控えの間に向かう。
お気に入りの服を身に纏うと、丁度よいタイミングで侍女から報告が上がる。
「従兄妹の施然様がいらっしゃいました」
(まったく、従兄妹は余計なのよ!)
「じゃあ、応接の間にお通しして。茶菓子なんかも用意できるのかしら?」
報告に来た侍女は、静かにコクリと頷いてみせる。
「それでは、応接の間にお通し致しますね」
(ヤッバ。超ォ緊張して来るんですけど。ただ部屋で会うだけなんだから、今までの道中と一緒なのに。それでもこの機会に施然様の気持ちも確認してみたいし、場合によっては、この大切な想いも伝えたい)
そうこうする内に施然が応接の間に入ったと、侍女から報告が上がる。
再度、控えの間に用意されている銅鏡を覗き込んで身嗜みを整えると、意を決して応接の間へと歩を進める。
そこには略装ではあるが、身嗜みを整えた施然が応接の間に待ち構えている。
その向かいに立つと侍女が軽く椅子を引き、その椅子にチョコンと腰掛ける。
卓の上には菓子が乗せられた盆と、ジャスミンティーの淹れられたカップが二客用意されている。
施然がジャスミンティーの香りを楽しみながら一口味わい、そして話し始める。
「今回は叔父……いや朱君理様の命とは言え、たいへんな旅となりましたね。紅紅も少し見ない間に、とても大人びてて驚きました」
すると爽やかな笑顔を見せる。
「そう。前に在った頃から大分変わって見えたのね」
紅紅も静かにジャスミンティーのカップに口を付ける。
「阜陵県の屋敷から出る時には覚悟を決めていた積もりでしたが、まさかあれ程までに危険が迫るとは思ってもいませんでした。立派にお父上の名代を果していましたよ」
施然は心から嬉しそうな表情をつくる。
(そうよ! ヤッパリ今しかないわね。このタイミングを逃したら、ズルズルとまた幼馴染の関係のままだわ)
紅紅は静かに立ち上がると、施然に尋ねる。
「この屋敷は裏庭もとても立派ですね。施然ももう見てきたのかしら?」
「いや、着いたばかりで慌ただしくしていたから、さすがに未だ見て回る余裕は無かったよ」
「じゃあ丁度良いわ。二人だけで少しだけお庭を散策してみない?」
紅紅は飛びっきりの笑顔で施然を誘う。
二人は梅の古木が立ち並ぶ裏庭を進む。
「一つ聞いても良いかしら?」
「何かな?」
「施然はあたしのことを、どう思ってる?」
「もちろん、とても大切に想っているよ」
やがて梅の古木の向こうに、大きな楠が見えてくる。
「立派な木ね。あそこの木陰に行ってみましょう」
きっと樹齢数百年にも届こうかという楠の大樹は、その枝を広く拡げて大きな木陰を作り出す。
紅紅は施然の方を振り返り、意を決して言葉を振り絞る。
「施然様、実は大切なお話があるの」
「実は私からも、紅紅に伝えておかなければならない話が有るんだ。だが先ずは紅紅の話から聞かせて貰うよ」
紅紅は大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと話し始める。
「施然様はあたしのことを、その大切に想ってるって言ってくれたけど。実はあたしもなの。施然様は具体的にどんなふうに大切に想っていらっしゃるのかしら?」
施然の答えを、期待の眼差しで見詰める。
「わたしは昔から紅紅のことを、実の妹のように大切に想って来たんだ」
(え? 実の妹? 妹? 妹? 妹? 妹? 妹? 妹? 妹?……)
「ちょうど良い。私から伝えたい大事な話にも関係あるんだ。実は前々から話が出ていたのだが、朱君理様には御嫡男が居らっしゃらない。そこで私に養子に入らないかって話が出ていたんだ。今回この屋敷で孫伯符様に仲介をなさって頂いて、正式に朱家に養子として迎えられる事に決まるそうなんだ。私も来年は十四歳、数えで十五歳だ。ちょうど『日の君』、孫権様も来年は冠礼なさる。私も冠礼と同時に朱家に入り、朱然と名乗ることになる。大事なことだから真っ先に君にだけは伝えておきたいと思ってた。来年には実の兄として、いつでも頼って欲しいんだ」
(嘘! 実の兄? 兄? 兄? 兄? 兄? 兄? 兄? 兄? って、施然様が朱然様になっちゃったら、『同姓婚』になって永遠に結婚なんて出来なくなってしまうわ!)
当時は婿養子を取るという制度はなく、同じ姓の者同士が結婚することを忌み嫌う風習が有った。
当然、そうした事情を幼少から知る紅紅には、辺りの光景が自然と滲みだす。
「どうしたんだい。紅紅にもこんな素敵な話を突然聞かせてしまって、驚かせてしまったね」
そう言って、紅紅を優しく抱きしめるとゆっくりと頭を撫でる。
とうとう我慢の限界が訪れる。
紅紅の両眼から大粒の涙が、止めどもなく流れ落ちる。
それは抱き締める施然の青い衣に大きな染みをつくり出す。
やがて落ち着きを取り戻すと、背を凛と伸ばして精一杯の見栄を張る。
「あたしも昔から、施然様が実の兄だったらどんなに嬉しいかと常々考えていましたわ」
気が付くと二人の影は長く伸び日差しもだいぶ傾き始め、太陽は西を流れる長江の向こうに呑み込まれていくようだ。
「そろそろ屋敷に戻りましょうか?」
「ああ、そうだな。大事な話も早く伝えられて良かった」
斜陽に染まる施然の姿は、それでも美しかった。
【用語註】
・銅鏡:銅で出来た鏡。片面を磨き上げることで鏡の役割を果たす。貴人しか持つことは無い。
・同《《姓》》婚:儒教の教義に基づき血縁に関係なく『同《《姓》》』の者同士の結婚を忌み嫌う考え方。特に上流階級に浸透している。




