第016話 呉景屋敷
長江を渡ってからの旅程は、順調そのものである。
江東は今や孫策の勢力圏であり、治安の回復のために曲阿県入りした孫策始め、呉県県令の朱治や丹陽太守の呉景なども続々と江東入りを果たして、治安の安定に努めているからに他ならない。
よって所々で休憩を取りつつ、紅紅の念願の水浴びや綺麗な水での清拭もいつでも行うことが出来る。
(これでいつでも、施然様とあんな事やこんな事になったって安心していられるわ)
紅紅は気色満面の笑みを浮かべる。
もちろん紅紅の知識には、本当の意味での「あんな事やこんな事」は存在しない。
それでも気兼ねなく近くで話せることだけでも、十分に幸せなのだ。
(それでも大切なことが、いつだって伝えられると思ったら大間違いだわ)
阜陵県を出立してからの過酷な一週間とはうって変わり、のんびりとした旅程も一週間を過ぎた頃に、施然が荷馬車に轡を並べて紅紅に伝える。
「ようやく曲阿県に入ったようです。呉太妃の弟君、呉丹陽郡太守のお屋敷はそれは立派で県衙と見間違うほど広々とした造りになってるそうですよ」
施然は爽やかな笑顔を湛えながら、今度は梟に向き合う。
「曲阿県のお屋敷は、梟姫サマにとっても懐かしいでしょう」
「叔父様の屋敷にも、たったの一年ほどしか暮らしてなかったわ。それでも初めはここで、ずっと暮らせるって思ってたから感慨深いわね」
梟は荷台の上から、隊列の進む先を懐かし気に見詰めている。
やがて曲阿県の城門が目に入ると、正規軍が街道沿いに整列して立哨する姿が目に入る。
隊列が通り過ぎる度に、正規兵は二輪車馬に対して抱拳礼にて迎える。
城門の前には騎乗した武人が、一行を出迎えているようである。
更に城門の奥からは『孫』の旗を靡かせて、楽士が勇壮な曲調で鼓吹の音を響き渡らせている。
孫家一行の隊列が城門に辿り着くと、勇壮な鼓吹の音色もピタリと止む。
すると正面に威風堂々と騎乗していた青年の将軍が下馬して、二輪車馬の下に向かう。
その体格はがっしりとしており、端正で精悍な顔立ちの内にも厳しく写る表情には、その青年が歴戦を戦い抜いた将軍であることを如実に物語っている。
「ご無沙汰しております、母上殿。再び無事に呉景屋敷にてお迎え出来ましたこと、心より嬉しく存じます」
すると抱拳礼にて、深々と頭を垂れる。
荷台の上で、梟が説明する。
「あの緋色の甲冑を身に纏ってる将軍がわたしの兄、孫伯符殄寇将軍よ。それに城門には呉叔父様や張叔父様、あちらには周公瑾様もいらっしゃるわ」
「あら? あたしの父上もいるじゃない。あれが朱君理。あたしの父上で呉郡の太守なのよ」
てっきり呉県にいるとばかり思っていたので、紅紅も驚きを隠せない。
呉丹陽郡太守も豪華な甲冑を纏い二輪車馬に近づくと、優し気な表情を浮かべる。
「姉上、ようこそ曲阿県まで。再び姉上に会えるのを楽しみにしておりましたぞ。もちろん以前のように、我が屋敷は姉上のものと思って自由にお使いなされ」
朱治もまた丁重な出迎えの口上を述べる。
呉太妃は出迎える三人に礼を返すと、孫殄寇将軍が先導して呉景屋敷に向かう。
行く手に白く高い塀が水掘の向こうに、長々と連なっている。
そのこと自体が、この屋敷が戦時に建てられたことを物語っている。
やがて大通りに面した水堀に架かる木橋を渡り正門をくぐると、母屋の他にも複数の離れの屋敷が建ち並ぶ広大な呉景屋敷に到着する。
「懐かしいわ。全然変わってない! 今もわたしの部屋はそのままになってるのかしら?」
その嬉しそうな声に呉景は頷いてみせると、梟は荷台から飛び降りて母屋へと走り始める。
紅紅は翠蓮の手を借りて、静々と荷台から降り立つと一ヶ月ぶりに出会う朱治の胸の中に飛び込む。
「お父様が曲阿県にいらっしゃるなんて聞いていませんでしたわ」
紅紅は大粒の涙を浮かべて、朱治の顔を見上げる。
「やはり、どうしても曲阿県にも足を運ばねばならなくなってな。私がここに到着したのもつい先日のことなのだよ。お前も直きに到着するだろうと思って、紅紅の専属の侍女たちも何名か先に連れて来ておる。部屋は離れを一棟借り受けておるのでな。自由に使わせてもらいなさい」
紅紅は涙を振り払い、飛び切りの笑顔を浮かべる。
「ありがとう、お父様。翠蓮も早く行くわよ!」
紅紅は翠蓮の袖を掴むと、早く新しい部屋を見たいとせがむ。
そんな光景を目を細めて見守る朱治であったが、徐に翠蓮を呼び止め声を掛ける。
「沈翠蓮にも此度は辛い道中を任せてしまったな。本当にご苦労じゃった」
「そんな勿体なきお言葉。あくまでも旦那様からの命を成し遂げたまで。それよりも旦那様の名代を見事に果たした紅紅様のことを労ってくださいませ」
「そうであるな。改めて紅紅や、此度の大任を見事に果たして大儀であった」
「朱家の娘として、当然のことを成しただけですわ」
朱治には、この旅でひと回りも大きく成長した愛娘の姿を改めて見詰める。
(そんなことより、早く新しい屋敷と部屋を見てみたいわ)
紅紅の想いは、既に新しい生活への期待に満ちているのであった。
(それにこれで施然様とも同じ屋根の……敷地に住むことになるんだわ。何だか念願が一つづつ叶う充実感って、結構ヤバいんですけど)
父の朱治に一礼して、新しく住むことになる離れの屋敷に歩を進める。
新しい屋敷に近づくと、大きな荷物を抱えている施然の姿を視界に捉える。
「施然様、もうお住まいは決まりましたの?」
紅紅は興味津々《きょうみしんしん》に尋ねる。
「ああ、朱呉郡太守の使われている屋敷に同居させてもらう事になっているよ。たぶん紅紅が住むことになっている屋敷とは隣同士だろう。しかも隣接する離れとは渡し廊下で全て繋がっているから、困ったことがあったらいつでも相談に来ると良い」
爽やかな笑顔で紅紅に優しく語りかける。
(何々こんな夢のような展開って! 阜陵県の屋敷での同棲生活も魅力的だったけど、叔母様の別荘よりもこの屋敷の方が断然に快適だわ。超ォアガるわよね。このビッグウェーブに乗るしかないんじゃない?)
「あ、あの施然様。お引越しが一段落したら、そ、そのお話っていうか、相談が有るのですけどよろしいかしら?」
耳まで真っ赤にさせている紅紅の心臓は、早鐘を打ち鳴らしている。
「そうだね。荷物をひと片付け済んだら呼びに伺うよ。実は私も紅紅に伝えたいことがあるんだ」
カラ――ン、コ――ン、キ――ン! カラ――ン、コ――ン、キ――ン!
紅紅の脳裏には心臓の早鐘から打って変わって、幸せを予感させるような幸福を齎す鐘の音が頭上から降り注ぐように聞こえる。
【用語註】
・抱拳礼:胸の前で右手の握り拳を左手で包むようにしてお辞儀をする敬礼。主に武官や武将が行う。




