第010話 長い闇夜を越えて
ホ――ッ! ホ――ッ! ホ――ッ! ホ――ッ!
「ほら? 今度は音の回数が変わったわ。なにかの符牒かも知れないわ」
梟は既に宿直衣から平服に着替えて、愛用の軽甲冑を身に付ける。
朱塗りの短鎗を手に取ると、振り返って毅然として声を掛ける。
「紅紅はここで待ってて。わたしはお母様に相談して来るわ」
「梟も昼間みたいな無茶だけはしないでね」
その声に軽く微笑み返したかと思うと、寝屋から素早く漆黒の闇へと姿を消す。
呉太妃の寝屋の前には警護の者が立哨しており、梟の姿を認めると直ぐに拝礼の姿勢をとる。
「梟姫サマ。既に『日の君』と施然様が中においでです」
「権兄様と施然様が。分かりました。わたしも入ります」
そう言うと、ひと回り大きく設えられた寝屋の中に滑り込む。
呉太妃は既に着替えを済ましており、孫権と施然は並んで跪いている。
梟も並んで跪くと拝礼して奏上する。
「街道の向こうから、不審なフクロウの《《鳴き真似》》をした声音を耳にしました。あれは何かの符牒のように感じます」
呉太妃は深く頷き、梟に説明する。
「施然も山林に人影を見掛けたと申している。今は兪伯海殿に警備を強化するように命じたところです。直きに陳宝殿も訪れるでしょう」
言うや否や、ひと際大柄な人影が寝屋に顔を出す。
「御母堂様、遅れてすまねえ。今、部下の中でも夜目の利く者を数名斥候として出した。やはり夜陰に紛れて、向かいの山林に十名以上は潜んでいそうだ。それと幕舎が山林に近すぎちまう。ここでは弓矢が届く範囲だ。少なくともあと一町(約100m)程、幕舎を奥に下げちゃあくれないか? 前面は義侠団でシッカリと固める。今、篝火も増やす準備を始めてはいるが、今の位置じゃあ敵に対して標的を照らし出すことになりかねない」
「急ぎ兪伯海殿に言って、幕舎を一町ほど奥に移させましょう」
呉太妃の即断即決にも、敵の動きが一枚上回ったようだ。
「敵襲!」
前方に展開する義侠団から、夜を引き裂くような雄叫びが響き渡る。
途端に幕舎の寝屋を標的に、次々と火矢が放たれる。
寝屋は忽ち業火に包まれる。
事情が伝わっていない者達も多く、寝屋の中からは多くの者が訳も分からずに飛び出してくる有り様だ。
正に味方はパニック寸前に陥っている。
「母上。急ぎ一町ほど奥に本陣を構えて下さい。施然は朱家の一行の避難を指揮してくれ。私は兪伯海殿に合流して本陣を固めさせます。それと敵は夜陰に乗じて、弓矢での攻勢を強めるでしょう。陳宝殿には有るだけの盾を持って、前面からの侵攻を阻んで頂きたい」
孫権は沈着冷静に適確な備えを指示していく。
「権兄様。わたしも同行してよろしいかしら?」
梟は決意を秘めた瞳で、孫権に訴える。
孫権は首を振り、妹の梟に指示する。
「お前は施然と行動を共にしろ。急げ!」
そう一言残すと、陳宝と共に寝屋を飛び出す。
呉太妃も孫権の方策に従い一抱えの陣幕を護衛に持たせ、急ぎ一町ほど奥に下がって簡易な本陣を設営する。
梟は施然と手分けして、朱家の人達や兪河率いる近衛兵を本陣の陣幕の内外に配置替えをする。
そうして山林から距離をおいたはずなのに、不意に梟の耳元を鋭い風切り音が暗闇の中を切り裂く。
白銀色の肩当てに”カツンッ"と鋭い衝撃が響いたかと思うと、直ぐ脇の地面に短い弓矢が突き刺さる。
(特殊な短弓の矢だわ。新手の敵は袁術の軍とは全く違う)
首を強く振って梟は思考を振り払い、紅紅のいるはずの寝屋に向かって歩を速める。
寝屋の前には、紅紅とお付きの侍女が立ち尽くしていた。
いくつかの寝屋は既に炎に包まれて、赤々と満天の星空に色を染め上げている。
二人ともその光景に立ち尽くして、ただ見詰めているのだ。
「ジッと立ち止まってちゃダメ! 直ぐにこっちに来てっ」
茫然としたまま動き出せない二人を見詰めると、強引に紅紅の手を取って本陣に向かって走り出す。
「翠蓮も後に続いて!」
梟の鋭い口調に背中を押されるように、二人の後を追い縋る。
本陣に辿り着くと直ぐに、呉太妃に報告する。
「お母様、敵は火矢だけではなく短弓も使い分けて打って来ています。恐らくは短弓には毒が塗られてるかも知れません」
報告しながら、肩当てに残る毒々しい緑色に塗付されてたであろう鏃の跡を見詰める。
「敵は暗殺に特化した部隊なのでしょう」
呉太妃は明らかに異常な襲撃に戸惑っているようである。
兪河が重ねて奏上する。
「部下が敵一名と会敵しております。惜しくも討ち漏らしましたが、夜陰に紛れ複数名が本陣に向かって回り込もうとしていたとのこと。急ぎ近衛兵の配置は全方位配置に変更いたしました。部下によると黄巾党の如く茶褐色の頭巾で顔を覆い、全身も同色の装束で身を包み、刃渡りの短い得物で武装していたと報告が上がっております」
梟が今度は、兪河に向かって伝える。
「夜陰に紛れて短い得物を振るう敵には、義侠団の皆様が持つ大振りな剣はとても不利だわ。急ぎ、陳宝殿に情報を届けさせて!」
「梟姫サマの申す通りですな。儂が自ら前線に伝えに走り、そのまま敵の侵入を阻止して参ります」
呉太妃に深々と拝礼を取ると、颯爽とその場を立ち去る。
静寂の中で前線では時折、金属が打ち鳴らす甲高い音だけが響き渡る。
そんな単調な時間が永遠に続くかと思われた。
しかし未だ季節は秋口に差し掛かったばかり。漆黒の闇夜も次第に東の空から、徐々に白み始める。
やおら山林の中から甲高い指笛が鳴ったかと思うと、交戦中だった敵も急ぎ退く。
残されたのは、圧倒的な静寂のみ。
既に火が掛けられた寝屋は、全て焼け落ちている。
討ち取ったはずの敵兵も数人いたはずであったが、敵の遺骸は跡形も無く消え去っている。
代わりに大地に横たわるのは、義侠団数名の亡骸であった。
その死因の全てが一瞥して弓矢の鏃跡。その傷跡から毒によるもので有ることは一目瞭然であった。
その亡骸を前に屈み込み、陳宝は幅広い背を小さく丸めて大きく震わせていた。
「済まねえ! 我を信じてここまで付いて来てくれたっていうのに、本当に済まねえ」
徐々に強まる朝陽を浴びながらも嗚咽交じりの野太い声は、いつ途切れると言うこともなく草原に響き渡り続ける。
【用語註】
・宿直衣:上流層が就寝時に着用した単衣。白絹などで仕立てられた。
・黄巾党:太平道という宗教団体。184年に指導者の張角が蜂起。反乱は中国全土に及んだ。




