第二十八話
零階層――通称『世界の中心』の西端には、協会本部が管理する広大な訓練場が広がっている。
土と砂利を固めた地面、並び立つ木製の人形や的。そこでは朝から晩まで、登塔者たちが汗を流す音が絶えず響いていた。
朝もやが立ち込める中、僕は片隅の人気の少ない新人用区画で、一本の棒を手に型の反復練習を続けていた。
深呼吸をひとつ。
足を開き、重心を落とす。
腕を振り上げ、無駄な力を抜いて、打ち下ろす。
――バシュッ。
空気を裂く音が、耳に心地よく響く。
「──左払い、右突き、転身……!」
木製の棒が風を切り、足元の砂が軽く舞う。
訓練施設で学んだ型を正確になぞる。
流れるように横薙ぎ、後ろへと振り返り、袈裟斬り。
身体の軸をぶらさぬよう、意識を集中する。
一週間前の初陣以来、毎朝ここで基礎を磨いてきた。小鬼との戦いで痛感した「力不足」を、埋めるために。
「…少しは、様になってきたかな」
自分に言い聞かせ、もう一度最初から型をなぞる。
たった一週間。されど、濃密な一週間だった。変わったことは、数え切れない。
初めに武具。
貯めた魔判で新調した六尺棒。長さ百八十センチ。六階層で採れる漆黒の樫材を芯に、表面を油で丹念に磨き上げた特注品。
滑らかな手触り。握っただけで、身体能力を底上げする追加強化付き。通常の木材よりも重量があり、小鬼の頭蓋骨を容易に砕くほどの打撃力を持つ。
棒の中心部には、金色の金具がひとつ細工されている。重心を微調整するための装飾であり、同時に耐久力を高める魔石も埋め込まれていた。
防具も一新した。
協会から貸し与えられていた新人防具を返却し、鎖を編み込んだ軽量鎧を購入した胸当て部分には、衝撃を僅かに緩和する陣法が刻まれている。
手首から肘までを覆う強化革製の籠手。
無手の格闘戦に備えた手の保護に加え、斬撃を分散させる機能を持つ。
腰には革細工の道具袋。
中には、小型回復瓶を数本、二日分の保存食、予備の紐、 小型携帯用救急箱、最後に手の平サイズのナイフが収められている。
塔で生き残るため。初めて自分で選び、自分で揃えた装備だった。
これらを揃えるのに、ほぼすべての魔判を使い切ったが、悔いはない。
新人勢には節約しろ、我慢しろと説く者もいるが、よほど自制心のある者でなければ長続きしない。
型をゆっくりと再びなぞる。
正面打ち、横薙ぎ、袈裟斬り、回転して後ろ斬り。
一つ一つを、丁寧に、正確に。
「ふぅ……」
日課の鍛錬を終え、僕は六尺棒を脇に立てかけ、手ぬぐいで顔や首筋の汗を拭った。
身体はじっとりと熱を帯び、心地よい疲労感に満たされている。
そのとき、弾むような足音が近づいてきた。
「純、お疲れ様。休日だからって、朝から無茶しちゃダメよ!」
声の方を振り向くと、舞さん――いや、最近はもう「舞」と呼ぶようになった彼女が小走りでやって来た。手には小さな水筒を持っている。頬はうっすら赤らみ、呼吸も少し弾んでいた。
本物そっくりの朝日が彼女の肩越しに差し込み、汗ばんだ肌に涼しげな風が通り抜ける。
「はい、これ。冷たい水…よかったら」
「ありがとう、舞」
彼女は少し恥ずかしそうに、けれど真っ直ぐに水筒を差し出した。指先に伝わる、ひんやりとした水滴蓋を開けると、レモンを浮かべた清涼な水の香りが漂った。喉が乾いていたことを改めて自覚する。
礼を言いながら水筒を受け取ると、自然と笑みがこぼれた。
舞も、ほっとしたようににっこりと微笑み返してくる。
ほんの一週間前までは、「純君」「舞さん」と呼び合っていた。けれど、塔の中では一瞬の遅れが命取りになる。そこで誰かが提案したのだ――。
『名前は呼び捨てでいこう。短く、速く』
最初は照れくさかったけれど、幾度も戦いを重ねるうちに、それは自然なものとなった。今では、安全な零階層でも当たり前のように呼び捨てで声を掛け合っている。
……根川は相変わらず僕と清龍を『棒野郎』『むすび野郎』と呼んでくるけれど。
「っ、うまいっ!」
ひと口飲む。
冷たさが口いっぱいに広がり、乾いた喉と火照った体に染み渡った。思わず漏れた声に、舞さんがくすっと笑う。天真爛漫の笑顔は、僕に勇気を与える。
「毎日頑張るご褒美、だよ」
冗談めかして言いながらも、舞の目はどこかまっすぐで、胸の奥に静かな嬉しさが広がっていく。
僕はもう一度、水筒を掲げるようにして礼を言った。
「本当にありがとう、舞。すごく元気が出たよ」
「ふふっ、よかった」
舞は、手に持った予備の手ぬぐいで自分の額を拭いながら、隣に並んで腰を下ろした。
何か話さなきゃ、と焦る僕。汗ばんだ手のひらをこすり合わせ、視線が泳ぐ。舞も同じように黙り込んでしまい、不自然に地面の砂利をいじっている。
「(そうだ、明日の話なら――!)」
「そういえば明日、四階層に挑むけど懸念とかある?」
思わず切り出した言葉に、舞は小さく目を丸くした。だがすぐに、指先で砂利を弾きながら、真剣な顔つきに変わる。
「眠り蜘蛛の睡眠煙に暗闇対策、だね」
彼女の声が低くなる、僕も同意するふうに頷く。
先輩登塔者から聞いた話だが、僅か一週間で四階層まで進む団体は優秀らしい。そんな彼らすら苦戦する第一の関門、それが四階層。
「眠り蜘蛛は、煙だけじゃなく、巣を張るのが速いんだって。視界を奪われると、すぐに囲まれるらしいよ」
舞が手元の砂利を摘み上げ、それを指先で弾く。
小石が空中に跳ね、すぐに砂に吸い込まれる。まるで、敵に取り囲まれる登塔者の末路を暗示しているかのようだった。
「睡眠対策は魔道具で無効化出来るけど…問題は暗闇だよな」
僕は呟く。
第一階層の壁はうっすらと青白い光を帯び、洞窟内にもかすかな明かりが差し込んでいた。だが、階層を上がるごとにその光は弱まり、第三階層では月明かりの夜のような明るさだった。そして、明日挑む第四階層――そこは最早、完全な闇だった。天井も壁も黒く塗りつぶされ、ただ深淵が口を開けているようだ。光を発する魔灯石を持っていても、煙の中ではほとんど役に立たないと聞く。
そんな場所で、眠り蜘蛛筆頭に化け物の群れと戦わなければならない。
「一応、月光苔のゴーグルを確保したけど……結局、清龍の加護頼りだね」
朝日を背に、彼方を眺める舞。朝日が彼女の長い睫毛を金色に縁取り、静かな決意をその瞳に宿している。
「清龍がいなかったら、ほんとに詰んでたね」
僕も苦笑まじりに応じた。清龍の加護『飄の導き』は、移動速度の向上だけでなく、風を探知して敵の位置を把握する力を持っている。
「でも、それに甘えすぎたら駄目だよ」
舞がそっと僕を見た。凛とした瞳は、芯の強さを湛えていた。
「どんな状況でも、自分の目と耳を信じられるようにしなきゃ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
塔では、誰かに頼りきる者から死ぬ――そんな教訓を何度も聞かされてきた。…でも。
「大丈夫だよ」
僕は自信満々に答えた。新調した六尺棒を握り締める。金色の金具が温かく、力をくれる。
「清龍の『飄の導き』と、香澄の『鷹の瞳』。それに...」
視線を合わせる。舞の瞳が、ゆっくりと輝きを取り戻していく。
「僕たちの連携があれば、向かうところ敵なしだよ!」
「…ふふ、そうだね」
舞の頬がふわりと緩み、笑みがこぼれた。
彼女の笑みは、ひまわり畑に降り注ぐ陽光のようだった。
頬の柔らかな曲線から溢れる温もりは、夏の風に揺れる黄金の花弁のようで、見ているだけで胸が明るく満たされていく。
朝もやの中、二人の間に静かな絆が芽吹いていくのを感じた。