第十三話 卒業試験 その二
時間内に十周目を走破した瞬間、体中の疲労が一気に押し寄せた僕は膝をつきそうになるのを必死に我慢。皆の邪魔にならない位置までギクシャクした足取りで歩き、鼓膜に轟く心臓の動悸を聴きながら息を整える。一瞬遅れて完走した舞さんが不満げに頬を膨らませて僕の隣に腰を下ろす。
「むぅぅ、もうちょっとだったのに~」
「あはは…余計な体力使っちゃったけど、舞さんに負けたくない一心で走ったよ」
熱気で額から伝った汗が糸を引いて滴り落ち、苦しそうに呼吸する僕に反して彼女は余裕を維持した表情。
「次は負けないから!」
意外と負けず嫌いな舞さんは悔しさが混ざった感じでゆっくり立ち上がり、真珠のようにぶら下がる汗を軽く拭いながら水飲み場へ向かった。
僕も彼女を追いかける形で水飲み場に行き、蛇口を捻る。一条の冷水が火照った顔に沁み、五秒ほど水を出しっぱなしにしてカラカラに乾いた喉に潤いを取り戻す。体が『王の帰還だ!』と大袈裟に騒めく。
「三分の休憩を挟んだら次の項目、腕立て伏せを始めます。全員、私の目の前で横二列に並んでください」
早めに走破したお陰で十分に体力を回復出来た僕。桜木教官の掛け声に近くの舞さんと目配せし、訓練場の地面に退かれた二メートル幅の線に並ぶ。二種目の腕立て伏せは、持久力と筋力の両方が試される。笛を鳴らす教官と合わせて、拍子を崩さずに一定の速度で続けることが重要。
「私が笛を鳴らしたら数字を口に出して、地面スレスレまで胸を近づけてください。では――始め!」
短い休憩が終わり、口に笛を咥えた桜木教官が聞き慣れた四拍を刻んで僕達に準備するよう促す。前もって柔軟運動を済ませて配置に付いた僕らは一斉に前屈の体勢になり、地面に肘をついて手の位置を調整する。
『ピ──ッ!!』
「「「1ッ」」」
鋭い笛の音が訓練場に鳴り響き、僕は胸を地面スレスレまで下げるて上半身を起こす。
笛が吹かれ、総員四十人の声が一つに重なる。
「「「2ッ!」」」
笛の音が規則正しくなり、それに合わせて僕たちは同じ動作を繰り返し、回数を数える。この単純な腕立て伏せを教官が終わらすまで続ける。合格の目安は聞かされていない、明確な終点が見通せない空虚な絶望感も実技試験の一環かもしれない。
「「「29ッ!」」」
疲労が抜け切っていない訓練生の腕が次第に震え始めた。思うように動かず、腕や肩の筋肉が悲鳴を上げる。
「「「55ッ!」」」
やがて僕の体も重く感じ始める。地面に胸を近づけるたびに、にじみ出た汗が胸元をぬらす。手背に浮き出た血管がピクピクと動く。僕は歯を食いしばり、周囲に負けない声を発する。
「「「87ッ!」」」
七十回を超えた辺りで、僕の腕は限界を迎えかけている。だが、ここで諦めてはならない。僕は心の中で自分に言い聞かせながら、限界を超える。
「最後の一回です。『ピ――ッ!』」
「「「――100ッ!!」」」
その言葉に僕も肺に溜まった重苦しい空気と体に溜まった疲労を吐き出すような荒々しい声を出した。
終わった瞬間、僕らは地面に倒れ込み、大きく息をつく。腕は震え、体中が熱くなっている。汗が目に入りかけた僕は目を瞑り、深呼吸しながら汗を手で拭う。
「(お、終わった!)」
見事にやり遂げた達成感が心を巡る。震えるような喜びが全身の隅々に伝わったのだ。
「十五分間の休憩を与えます。それまでに各自、二人一組の仲間を作って武器の用意をお願いします」
「「はい!」」
休憩時間を利用し、再び水飲み場。蛇口を捻って冷水を勢い良く出し、湯気が立たんばかりに汗まみれた顔面に浴びせて熱を冷ます。熱風のような顔の表面が一気に冷えていき、ピリピリする痺れが気持ち良い。汗でべたついた体もスッキリした気分になる。
すぐ隣では舞さんが汗で濡れた前髪を指先で整えていた。口元を伝う水滴を拭い、彼女は僕を見るなり小さく微笑んだ。彼女の美しい笑顔は僕の虜だ。
「純君、次が最難関の模擬戦だね。良かったら私と――」
「朝比奈、俺と組まないか」
舞さんを遮って声を掛けてきた根川哲司が間に割って入り、気楽に彼女の肩に手を乗せる。前々から僕に敵意を向ける彼は何かと機会があれば舞さんに近づく。
彼女は置かれた根川の手を軽く払いのけ、冷静ながらも冷たい視線を向ける。
「ごめんなさい根川さん。私は彼と組むつもりです」
直接的に否定な言葉を言われた根川の眉がピクリと動く、しかし彼は諦めない。
「評価に繋がらない試験なら俺も清く諦めて別に、五月蠅く言わないさ。だが、一度限りの卒業試験の場で猿真似に棒切れを振り回す阿呆と組んだら最後、それこそ受かる物も受からない。ここは才能を持つ者同士で組んだ方が互いに利点あるんじゃないか?」
根川の言う事は一理ある。だが、彼は舞さんに本音を隠している。試験など二の次、彼の目的は僕への嫌がらせと、自分が優秀である事を周囲に見せつける為。食堂で耳にした噂、何でも御曹司である根川は資格証を得られなくとも親の金でどうにでもなる話。
舞さんは根川に向き直り、真剣な眼差しを向ける。その瞳は怒りで染まっている。
根川の話は終わらない。
「それに朝比奈が扱う槍、阿呆の棒切れ。どっちも長物でバランスが全く取れてないんだよ。間合いを詰めやすい刀使いの俺と組めば、教官相手に勝率はグンと上がる。ほら、いい条件だろう?」
舞さんは根川の言葉を聞きながら、徐々に表情を硬くしていく。彼女の目には、怒りと同時に失望の色が浮かんでいた。彼女は深呼吸をし、冷静ながらも強い口調で返す。
「根川さん、あなたの意見は理解できます。でも、私は貴方を拒ぜ――」
「僕は大丈夫だよ舞さん」
今度は僕の言葉が二人を遮る。普段から他人に優しい舞さんの様子が変わったことを気付いた。彼女が人に対して露骨な嫌みをぶつける事はない。約三カ月、隣で見てきて他人との争いを好まず、なるべく穏便に済ませたい性分だと知っている。そんな珍しく語気を荒らげて話す彼女の怒りと悲しみに満ちた顔をこれ以上見たくない。
「じゅ、純君…」
困惑する舞さんは何か言いたげだが、僕は彼女に優しく微笑みかけ、静かに言葉を続ける。
「本番の一環だと思えば楽さ。塔に挑んだら前兆も無く見知らぬ登塔者と組むかもしれない。今回はその先行調査だと考えらば良いんじゃないかな?それより、舞さんのお陰で成長した僕の雄姿を目に焼き付けてよ」
僕の言葉に一瞬目を丸くした舞さんだったが、すぐに表情は柔らかくなり、やがて小さく頷いた。
「分かったわ。…根川さん、今回は貴方と組んであげる」
根川は彼女の返事に満足し、両手を広げた。彼の口元は笑っているが、目は笑っていない。
「それでこそ俺が認めた実力者だ!心配してくて良い、俺がお前を守ってやるからな…舞?」
舞さんの肩を掴み、強引に引き寄せた根川は「これから作戦会議だ」と怨念のこもった眼を向けると僕の前から離れた。
「さて…誰と組もうかな?」
二人が去っていく背中をぼんやり眺めながら、少し複雑な気持ちになった。でも今は一刻も早く誰かと組まなければならない。模擬戦はもうすぐ始まる。
周りを見渡すと、既にペアを組んだ他の訓練生たちも作戦や戦術を話し合っている。僕も誰かを探そうと辺りを見渡していると、少し離れた木陰で佇む一人の男性が目に付いた。見覚えがある彼は同じ寮室に住む、彼の名前は…。
「一緒に僕と組まないかい、雷門清龍君?」
僕はその男性の下へ歩み寄り声を掛けるのであった。