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新人の仕事ぶりには注意しないと

作者: 浅賀ソルト

 職場の同僚の土方(ひじかた)さんが入居者の食事の介護をしていた。

「はい、あーん」

 この仕事をしていると『あーん』の意味が頭から抜けてくる。

 最初のうちはあーんにも愛情があるのだが、だんだんそういう感情は抜けてくる。それは別に問題ない。プロというのは愛情がなくても愛情を感じさせ、食べようという気持ちにさせてくれるからだ。

 土方さんのあーんは苛々していた。素人がやってしまう——とはいえ誰でも一度は通る——私は苛々してますよアピールが含まれたあーんだ。言葉はあーんだがとっとと食えと言っているように聞こえる。

 このあたりは何度も指導や注意があって成長していくものなので、一度や二度のミスで処罰とはならない。

 私は留意だけしておいて片付けと清掃のために部屋を出た。

 土方さんはまだ新人だがペアで仕事を教えてもらえるのは一週間から長くても一ヶ月だ。そこからは一人でこなさなくてはならない。

 片付けも清掃も重労働だ。食事をすると、もちろんちゃんと食事ができる人もいるのだけど、大抵は汚れてしまう。

 世の中にまともに一人で食事できない人がこんなにいるなんてと思ったかというと、実はそんなことはなく、それができなくなったから入居するので私は最初からそれを承知していた。

 だが承知してない人もいて、そういう人は耐えきれずにやめていくか、時間をかけてなんとか順応していく。なんでこんな簡単なこともできないんだというのは禁句である。いつまでもそんなことを言っている奴はプロではない。

 片付けが大変なので汁物は避けて欲しいが、固いものが駄目で柔らかいものになりがちでもある。どちらにせよ片付けや拭き掃除はするので見た目がどうであれ関係ないんだけど。

 頭をできるだけ空っぽにしながら私は片付けと清掃を続けた。

 ゴミ袋をまとめてからまた市毛さん——土方さんが食事の介護をしていた入居者——の部屋に行くと、土方さんがまだ食事を続けていた。

 無理に食べさせるものではないが、時間内に済ませないと次の作業に支障が出る。

「土方さん、大丈夫?」しまったと思った。自分の声にも苛立ちが出てしまっていた。

「あ、すいません」土方さんはちらりとこちらを見て謝った。

「市毛さん、食べたくないですか?」耳が遠いので大声で。

「あー」歯の無い口で市毛さんはうめいた。

 言葉にはならなくても、食べたくないという意思は伝わってくるのだから人間のコミュニケーションというのは不思議なものだ。

「新島さん、どうすればいいですか?」

 新島というのが私の名前。「うーん、あと5分で無理だったら一旦は下げちゃいましょう。食べたくなったときにまた出します」

「分かりました」土方さんは言った。「はい、あーん」

「あー」市毛さんは相変わらずだ。

 市毛さんに限らず、入居者のベッドのまわりは常に監視カメラの枠の中だ。映りたくなければ部屋の四隅に移動する必要がある。寝たきりの老人をそこまで移動させるのは難しい。

 私は言った。「あと5分したら戻ってきますね」

「はい。ありがとうございます」

 私はスタッフルームに戻り、記録と予定をパソコンに入力していった。

 同僚と雑談をしながらマウスを動かす。

「土方さんも相当ストレスがたまってきてるね」

「そうだね。今くらいの時期がピークだね」

「三ヶ月?」

「そうそう」

 最初の希望や期待が消えていくのがこのあたりだ。

 ただ、私はプロなので、そういう青いことは最初から無い。仕事というのは夢や希望を持つようなものではないし、そういうのを持っている方がむしろ失敗する。

 部屋に戻ると土方さんが、微妙な、注意するほどではない微妙な圧で、「くそっ」と舌打ちしていた。

 舌打ちは悪くない。監視カメラにも映らない。

「おつかれさま。大丈夫だよ」

「すいません。ちょっとトイレに行ってきます」

「はーい」

 私は土方さんから仕事を引き継いだ。

 最後にちょっと自分でも試してみるか。

「はい、市毛さん、あーん」

「うー」

 今度は食べたくないという意思ではなかった。

 私は自分の体でカメラの死角を作り、市毛さんの腕をつねり上げた。

 こっちは世話をしているのに、お前は嫌いだってアピールをしてくるとか、何を考えているんだ。

 なんでこんな簡単な力関係が理解できないんだ。


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