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短編

この映画がはじまる前に

作者: 宵形りて


 洋子。君と出会ったのは、この映画館の前だったね。


 あの頃の僕はまだ見習いの自動車の修理工で、歳を重ねてもオイルにまみれて機械いじりをして1日を過ごすものだと思っていたよ。



 もともと好きで選んだ仕事だ。誇りをもって働いていたが、いかにも良いところのお嬢さんといったワンピース姿の君とは釣り合わない格好だったな。

 僕ら二人がただの通り過ぎる他人ではなく、こうして寄り添って生きてこれたのも、君の自転車が壊れたおかげだよ。



 ふふっ、そうだね。僕も驚いた。



 自転車に乗って帰ろうとしたときに、いきなりチェーンが外れて転んでしまうなんて。

 同じ映画を見ていた観客どうし、なんとなく君の後ろ姿を目で追っていたから、転んだときにあわてて駆けつけた。



ーーいや、ひとつ気恥ずかしくて嘘をついた。



 君を目で追っていたのは、なんとなくじゃない。さらさらした黒髪で、凛と背筋を伸ばした君があんまり美しくて……つい目が追っていたのさ。



 転んだ膝の傷は大したことがなくて良かったけれど、自転車は少々修理が必要だった。

 この近くにあった勤め先で直してやれて幸いだった。……あぁ、君はいつもこの時のことを褒めてくれるが、あのときの自転車の修理なんて大したことのない作業だったんだよ。大げさだなぁ。



 おかげで僕らは知り合えたというわけだ。



 でも、まさか翌日君がお礼だと言って、また勤め先に来てくれるとは思わなんだ。

 あのときの差し入れは旨かったな。手作りのクッキーなんて食べたのは初めてだったが、こんなに美味い食い物がこの世にあるかと思った。バターがふわっと香って、ざっくりした歯応えがあるのが良い。



 ……え? 僕の方が大げさだって? そんなことはないさ。あれから何度も作ってくれたが、そのたびに思っている。



 ああ、君はこの映画館の一番後ろの席が好きだった。この席だろう? 真ん中の、映写機の下のあたりさ。


 今日は僕が座らせてもらうよ。

 君は隣の特等席に。



 なんでこんなスクリーンから遠い席が好きなのか尋ねたとき、君はこう言った。

 この席からなら、映画だけではなくて座席に座る観客もみんな目に入る。あの名作で涙する仕草や、恋愛映画を見ながら不器用に肩を寄せる恋人たち、画面の向こうの冒険に可愛らしくはしゃぐ子供たち。

 すべてが目に入る。

 それが好きだからこの席に座るの、と。




 あのときの君の横顔は、僕の頭の中に写真のようにくっきりと残っているよ。



 これも恥ずかしくて言っていなかったが、実は一目惚れだったんだ。知っていたかな。

 けれどね。不思議なことに、君がどうしてこの席が好きかを教えてくれたとき、僕はたしかに二度目の恋に落ちていた。

 ああ、この女性はそんな優しい目で世界をとらえて生きているのかと。



 洋子、君のその目のなかに僕の姿も映してほしいと思ったんだ。



 このときだけでなく、僕が考えもしなかった視点で、君は僕の世界をさあっと塗り替えてしまう人だったね。



 さあ、観たがっていた作品が始まるよ。

 お、そうか。最近はまだ他の作品の予告やら何やらがたくさん流れるんだな。

 あんなに何度も二人で観に来ていたのに、いつから足が遠のいたんだろうな。

 結婚して一人目が生まれてからか。



 ちょうどその頃に、僕が独立して店を構えたんだった。思えばあの頃の記憶は朧げだ。忙しすぎたんだろうな。

 自分の腕一つで稼ぐと思って始めたが、やってみると店で機械いじりをするより、スーツを着て銀行やら取引先を回る時間と、書類とにらめっこする仕事ばかりになっていった。

 そのうち君は乳のみ子を背負って経理をしたり、掃除をしたり。かけなくていい苦労をかけた。

 忙しくてならなかったが、なぜだろうな、今思うとあの頃がたまらなく幸せな時間だったように感じるんだ。



 なのにーー。

 本当に後悔しているよ。いいや、独立して店を構えたことじゃない。むしろ大口の取引が決まって、店が軌道に乗ってからのことさ。時代の追い風もあって、仕事も従業員も景気良く増えていった。修理だけじゃなく、他の関連事業も始めた。



 二人目が生まれたこともあって、君が店で働かずに子どもと家事に時間をとれるようにしたのもその時だ。

 こじんまりしていた店は、いつの間にか支店を出して会社となり、僕が顔を知らない社員も増えた。



 洋子、君は孤独だったことだろう。二人の子を抱えて、映画などめったに観れなくなっていた。あんなに好きだったのに。僕はこの映画館の存在さえ思い出さなくなっていた。僕が帰宅するまで起きて待ってくれたのは、心配し話しをしようとしてくれていたからなのに、疲れを理由に何度となく君を一人にした。


 家のアルバムには、僕がいない三人の写真ばかりが並んでいたね。



 もっと君との時間をもっていたら。

 自分の手に負える程度にとどめていたら。



 急な不況が襲ってきて、増やした支店は半分になった。従業員の人生を潰すわけにはいかないと、何日も寝ないで金策に走ったが、結局、解雇するしかなかった。当初からよく勤めてくれたあいつが、僕に恨み言一つ言わずに「頑張れよ」と言って去っていったことが堪えた。いっそ罵ってくれたなら……。



 そのときに君は「わたしにもできることがないか」と言ってくれたね。僕はなんとひどい夫だっただろう。その言葉を無碍にして、あまつさえ君に苛立ちをぶつけてーー怒鳴りつけてしまってからハッとした。



 誰よりも愛した人を、僕はなぜ傷つけているのだろう、と。



 そして無理が祟った。その夜、君に謝る前に倒れてしまうなんてな。思いもしなかった。

 入院して、ふと意識を取り戻したときにベットの隣で静かに泣く君を見てーー。



 もう少し、ああなる前に話をすればよかったな。……いいや、君は悪くない。全て僕が……。

 ああ、そうだな。

 夫婦は全て半分こ、だ。

 一人で背負い込んでしまうのは悪い癖だ。君に気づかされてばかりだな。



 幸い会社はなんとかなった。僕もただの過労だったし、事業は思い切って縮小して、君や子どもたちと過ごす時間が増えて。



 そうそう、その時は子どもたちがヒーロー映画が好きで、よくテーマソングを聴きたがったな。

 ……不思議なものだよ。自分の家族のために思い切って最新のカーステレオを取り寄せてみたら、いつの間にか話題になって、会社はまた活気を取り戻していった。君と子どもたちのおかげだ。

 あれからもいろいろあったが、なんとか時代の波を超えてこれた。



 そうだ。ヒーロー映画から卒業しても、子どもたちは毎月なにかしら映画を観たがっただろう。どんなに忙しくても、決まって毎年春には四人そろって観に行くのが恒例になった。それが子どもたちが成人するまで続くとはなぁ。

 子どもたちが就職して、手を離れて、あっという間に感じているよ。



 それもこれも、洋子がいてくれたからだよ。

 なぁ、洋子。まだ聞こえているかい?

 君がもう「たくさん喋ると疲れてしまう」と言うから、僕ばかり長く話してしまったね。



 …………。


 いや、泣いてなんかいないさ。

 君との残りの時間を、泣いて過ごしてしまうなんてもったいなくてね。

 でも、だから……だから、どうか今度は君が話してくれ。


 ……。


 これが最期の願いだなんて、そんなことないさ。まだまだこれからたくさん映画を……。


 ーー洋子……洋子?


 ……うん。うん。

 無理して話さなくて大丈夫さ。

 映画の前に……君の人生を沈黙が支配する前に、一番言いたかったのは僕も同じ言葉なんだ。


 君に先に言われてしまったけれどーー




ーー愛しているよ。



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