11-8.穏やかな時間は訪れない
「千年前からなにも変わってはいないのだよ」
それはシャーロットが望んだことではなかった。
「変わらないからこそ愛おしい。だが、それは私たちが人ではないからこそ、そのように感じるだけの話だ」
笑いながら語るのは、現実離れした理想論に似た言葉だった。
「私は昔からなにをするのも下手だったのだよ。神に愛されることもなく、神を愛したこともない。ただ帝国のことだけは愛していた」
「なにが言いたいのですか? 意図が理解できません」
「それは悪いことをした」
悪びれることもなく、シャーロットは謝罪の言葉を口にする。
本心では何を考えているのか、わからない。
「お前のしていることを止めるべきだ」
シャーロットの言葉に対し、レインは言い返せなかった。
「夢を見るだけ無駄になる。公爵家を継がなくてもいい。私のことは忘れてしまえばいい。それだけで状況が変わることだろう」
……それは、本当に俺に対しての言葉なのでしょうか。
シャーロットと会話をしていると違和感を覚える。
彼女が過去と現在を混ぜてしまったかのような話し方をするのもその理由の一つだろうが、それよりも、シャーロットの言葉に心当たりがないものも含まれているのだ。
「お前はお前の好きなように生きろ。可愛い坊や。無理をしてはいけない」
そういった時に限ってシャーロットは悲しそうな顔をしている。
それがレインの心を傷つける。
「坊やが幸せにいることが、私にとっての幸せだ」
……それは本当に言っているのでしょうか。シャーロット、そうだとするのならば、お前の幸せはなんて悲しいことなんでしょう。
レインには理解することができなかった。
レインが目指していることを理解しているかのような言葉を並べながらも、それを否定するシャーロットがなにを企んでいるのかを理解する日は来ないだろう。
悲しいことだと思ってしまうのはなぜだろうか。
「お前は頑張ってきたよ。もう良い。楽になれ。お前の生きたいように生きよ」
それはシャーロットの願いのようだった。
レインのことを大切に思っているかのようだった。
「私にもフリークス公爵家にも縛られてくれるな」
それは理解することのできない言葉だった。
それなのに、前にも聞いたことがあるような気がして仕方がない。
「お前の人生だ。好きに生きろ。生きて幸せになれ」
……どうしてですか。
シャーロットの言葉には嘘はない。
心の底からレインが幸せになることを望んでいる。
根拠がないのにもかかわらず、レインにはそれが痛いほどわかってしまった。
「私はお前の生き方を支持しよう。だからなにも恐れることはない。ただ、幸せになればそれでいい」
ただ、否定されたのが悔しかったのか。
認められなかったことが悔しかったのか。
それとも、シャーロットに言われたこと自体が悔しかったのであろうか。
「お前は自分の身体だけを心配していればいい。私が片をつけよう。お前はなにも不安になる必要もない」
「突然現れて、全てを掻っ攫うとでも?」
……そんな一方的な話があるものですか!
なにもかもわからなかったが、レインは浮かびそうな涙を堪える。
泣く場面ではない。泣くことは許されない。
否定されたばかりの自尊心が働く。
「お遊びのような家族には興味がないと言っただろう。それは嘘ではない。私は今のところは嘘を吐いてはいないのだから」
笑う。
全てを見下し、全てを理解しているとでも言うかのように笑う。
それはなんと悲しいことなのだろうか。
「幸せを追求せよ。それがお前の為になる」
その言葉だけが教室に響き渡っていた。
「大丈夫だ。心配をするな。私はお前の幸せを願っているのだから」
突き放されるようにシャーロットに言われて、レインは何も言い返せなかった。
言い返す資格すら失ってしまった気さえしていた。
* * *
レインは逃げたようなものだった。
シャーロットとの話は終わりだというかのように担任教師であるリーリアが戻ってきたのだ。
それはガーナが口にしていた言葉通りのようなタイミングだった。
……まるで逃げ道を用意されていたみたいですね。
席に戻ったレインは頬杖を突きながらリーリアを見る。
……シャーロットが仕組んだことでしょうか。
態度が多少悪いなどと気にしていられない。
それ以上に頭の中は様々なことで埋め尽くされていた。
言われたことを思い出せば、腸が煮え返りそうなくらいに苛立つ。
……家を出た人間に言われる筋合いなんかありません。言いたいことだけは、本音で話して、大半はその場で作った嘘だってことはわかっているんです。
だけども、そう言い返すこともできなかった。
シャーロットの言うことは正論だ。
フリークスという家系は千年もの月日を得て存在しているのだが、過去、なにが起きていたのか全て残されていなかった。
始祖に関すること以外は、残すことを禁じられていた。
過去を誇りながらも罪という意識はあったのかもしれない。
唯一、過去の産物として残されているのは、敷地内に作られている懺悔の塔と呼ばれる薄暗い塔くらいである。
重く閉ざされた扉には、不気味なまでにこじ開けようとしたかのように曲がっている部分があり、一族の中でも当主しか入ることが許されない呪われた場所。
塔の中になにが隠されているのか、誰も知らされてはいない。
それなのにもかかわらず、厳重に守り抜かれている場所だ。
そこを思い出し、眉を潜める。
……嫌になる。
苛つきながらも前を見る。
前の席に座っているのは、貴族ではない。
元は貧困街出身の少年。そして、今は、始祖の一人であるアンジュ・ホムラの養子ということになっている。
彼はシャーロットとも親しい間柄なのだろう。
……貧困街の人間に負けたと言うことも、あの人たちに知られてしまえば、ただではすまないでしょうね。
今はまともな生活をしていても、貧困街で何をしてきたのかわからない。
そんな少年に総合成績で負けたなど、両親が許すはずもない。
……母上はお怒りになるでしょうか。
フリークスを愛する母を思い、レインはため息を零しそうになる。
母がレインのことを構うようになったのはレインが次期当主に選ばれた日だった。
兄が行方を晦まし、シャーロットが始祖として生きることを選んだ日。レインは両親から必要とされる存在になった。
それは両親や兄、姉の眼が向けられていなかった幼少期に欲したものだった。
それなのにもかかわらず、素直に喜ぶことができなかった。
それは、母はレインのことを愛しているわけではないのだと知ってしまったからだろうか。
一族が繁栄すれば、それで良い。
例え、子供が何を考えていても気にしない。
レインの母である女性は、そういう人だった。
……身体の弱い俺ではフリークスは抱えることはもちろん、支えることすら難しいかもしれない。そのようなことはわかっているんです。シャーロットに指摘をされなくてもわかっていることです。
いっそ、全てを任せてしまおうか。
全てを投げ出してしまえば、楽になるのかもしれない。
甘い誘惑が囁く。
甘い誘惑を追い払うように、自分の頬に爪を立てる。
……自分の身体のことを考えろと言われたのは、いつ以来でしょう。
倒れる程の無理をすれば、皆、心配をする。
それは、身体や体調の心配ではなく、フリークス家の心配だ。
それが当たり前となっていた。
心配されるのは、家が途絶えてしまうことに対することだけだった。
レインの価値はそのようなものだった。
代々引き継がれている始祖の血が途絶えてしまうことだけを恐れている両親に対して、愛を望まなくなったのはいつだっただろうか。
いつの間にかそれすらも忘れてしまった。
……夢も希望も全部捨てて、家の為に生きるのは嫌だったのに不思議ですね。
けれども、それを言葉にすることは難しい。
素直に自分の想いを口にするのは、どうしても周りの目が気になり発言できない。
……せめて、一言だけ。
素直に言いたかった。
……おかえりと、言えば変わったのですかね。
後悔ばかりが残る。
本当は口論をしたいのではなかった。
ただ、素直に出迎えたいと思っていただけだった。
……でも、収穫はあった。
憎しみもなかった。
苛立ちもなかった。
幼い頃に何も言わずに立ち去ってしまったことに関しては、不満はあったがそれでも憎んではいなかった。
……俺はなにかを忘れている。
叶うのならば、願いは一つ。
昔のように傍に居たいだけだった。
……それを思い出すことさえできれば。
失ってしまった片割れを取り戻したかった。
笑い合っていた幼い日々に、戻りたかった。
……きっと、あの頃に戻れるはずなのです。
諦めることができなかった。
手を伸ばせば届きそうなところまで来ている。
レインにはそんな確信があった。