06-2.始祖の仕掛ける罠には餌が多すぎる
「始祖は帝国民を攻撃できないはずだよ」
イザトは再び口を開いた。
それはイザトの意思ではなかった。
……知らない。
心の中で否定をする。
自らの口から飛び出した言葉の意味は理解できる。しかし、そのような事実が存在していることをイザトは知らない。
知らないはずの知識が頭の中に広がっていく。
それはイザトという存在をかき消そうとしているかのようだった。
……僕はなにも知らないのに。
自分自身の中になにかが住んでいるという事実を受け入れるしかなかった。
「知っている」
ジャネットはイザトの言葉を肯定した。
帝国民同士の争いになりつつあることも、敵として認識したアーロンが率いている帝国軍は、本来ならば始祖たちが守るべき存在であることも、ジャネットたちは理解をしていた。
始祖は帝国を守る為に存在している。
その為、始祖は帝国民を攻撃することができない。たとえ、敵国に亡命した相手であったとしても、帝国民の血が流れているのならば、始祖は攻撃ができない。
その仕組みにより、何度も始祖は命を奪われた。
始祖が守るべき帝国民の手により、始祖は血を流してきた。
それでも、始祖は帝国民を傷つけることはできない。
――そのように作られているはずだった。
「ミカエラ兄上は天才だった」
ジャネットは憐れむような視線をイザトに向けた。
「だが、気の遠くないよう年月には敵わない」
ジャネットは思慮深い性格だ。
長い年月をかけて考えてきた。帝国の為になにが正しい行為なのか、考え、千年の月日をかけて重い腰をあげた。
……信じられない。
イザトは手のひらを握りしめる。
自身の爪が食い込んでしまっても気にしない。
それは後悔からくるものなのか。それとも、自分自身の奥深くに住み着いていたなにかを自覚してしまったことによるものなのか。
イザトの感情が揺さぶられる。
……よくもヴァーケルさんの時には他人事のように言えたものだよ。
他人事だと思っていた。
だからこそ、ガーナがガーナではなくなっても、友人として傍にいると軽々しい言葉を口にしてしまったことを後悔する。
油断をすれば体を乗っ取られる。
人格をかき消されてしまうかもしれない。
その恐怖は味わったことがある人以外にはわからないだろう。
恐ろしいものだった。
それをジャネットに知られるわけにはいかなかった。
「へえ。そうなんだ」
だからこそ、イザトは軽口を叩く。
相手は千年もの年月を帝国を支えてきた正真正銘の化け物だ。たかが、十数年生きてきたイザトが欺けるような相手ではない。
「それで? それが僕を呼んだ理由なの?」
イザトは知らないふりをする。
知らないふりをするのは慣れていた。なにも気づかないふりをして生きてきた。そうすることでしか生き抜く方法を知らなかった。
「坊やは愚かだな」
「そうだよ。知らなかったの? 僕は今日を生き抜くことだけしか考えないような頭の悪い子どもだよ」
「なるほど。そうすれば騙されると考えたのか」
ジャネットには通じない。
それを理解しながらも、イザトは道化師を演じる。
「なんのことか、僕にはわからないね」
物わかりの悪い子どもを演じる。
……僕を操ろうとしないのはどうして?
視線をジャネットの手元に置かれているチェス盤に向けた。
ジャネットは始祖の中でも特殊な立場にいる。
戦場に立つことはほとんどない。彼は城内にある始祖だけの作戦会議室を拠点としながらも、戦場の全てを把握し、必要に応じて帝国民を駒のように操り、状況を好転させる。
多くの戦場で帝国が勝利を収めたのは、ジャネットの采配によるものだ。
帝国の絶対的な勝利ではない場合、帝国に有利に働くように停戦協定を結ぶのもジャネットの役割である。相手をチェス盤の駒のように扱い、帝国に不利となる条件を思いつかないように操る。
それは恐ろしい能力だった。
ジャネットはその能力を使いこなしている。
すべてがジャネットの思惑通りに動くようにできている。その能力の対象外となるのは、同じような立場にいる始祖たちだけである。
……違う。
ジャネットはチェス駒を動かしている。
一人でチェスを楽しんでいるように見えている姿は異常だ。しかし、この場にいる誰もが異常には思わない。
それはジャネットの特殊能力によるものだった。
……僕には効果がないんだ。
イザトは自身の特性を理解した。
時が止まった空間の中、当然のように取り残されてしまうのも偶然ではなかった。意図的にイザトを外して空間が止められているわけでもなかった。
……これが、ミカエラ・レイチェルの特殊能力なのかな。
かつての帝国には英雄がいた。
英雄たちには特殊能力と呼ばれる特別な力が与えられた。それは英雄ではないミカエラも同様だったのだろう。
「僕を操ろうとするのはやめておいた方が良いよ」
イザトには確信がなかった。
しかし、その言葉は当たりだったようだ。
チェス駒を弄っていたジャネットの手が止まった。
「特殊能力を無効化するのかな。もしかしたら、特殊能力の対象外なのかもね。僕には君たちの力は通用しないよ」
イザトは断言する。
ミカエラ・レイチェルの特殊能力は無効化だ。それは、帝国の始祖たちの暴走を止める為でもあり、ジャネットの操り人形にならない為に与えられた力なのだろう。
……僕の中にいる誰かさんのおかげとか、笑えないけどね。
イザトの中にはもう一人の人格がいる。
それは眠っているだけだった。ジャネットたちがよけない真似をしなければ、それはイザトの命が尽きるその日まで眠り続けたままだっただろう。
「ミカエラの自我はないのか?」
「知らないよ。僕は僕だからね。知ってる? 僕の名前はイザト・ホムラって言うんだよ。ミカエラなんて人には会ったこともないから知らないね」
「未だにホムラ姓に執着する意味はあるのか?」
ジャネットの質問に対し、イザトは視線をチェス駒ではなく、無言を貫いているアンジュに向けた。




