08-5.真実は夢の中に隠されている
「……泣きそうな顔をしないでくださいませ」
抱きしめることはしない。
手を伸ばすこともしない。
「お父様やお母様の元に送ってくださいませ」
ティアラは涙を拭い、微笑んだ。
【幻想の指輪】の中に取り込まれ、与えられた箱庭の中で生きているだけの存在だ。それはティアラが望んだものではなく、終わりの見えない地獄のような日々でもあった。
「わたくしを憐れむのならば、どうか、救ってくださいませ」
ティアラにとって、ロヴィーノの言葉は救いだった。
「救いでもなんでもねえよ。陛下の為に死ぬだけのことだろ」
ロヴィーノは納得がいかないと言わんばかりの顔をしていた。
帝国の為ならば何度でも命を捧げ、終わりの見えない日々を過ごすことを選んだ彼にとって、終わりを望むティアラの本心は得体の知れないものでしかない。
「俺様はな、シャーロットとは違うんだ」
【幻想の指輪】の中にロヴィーノを送り込んだシャーロットのことを思い浮かべたのだろう。
「彼奴とは違う。俺様は抗うことはしねえよ」
それは自分自身に言い聞かせているようにも見えた。
ティアラが俯いていた隙に座り込んでいた姿勢を正すように立ち上がり、ティアラを見下ろすように視線を向ける。
「お前は俺様のことを忘れるんだ」
ロヴィーノの言葉に対し、ティアラは頷くことしかできなかった。
「二度と俺様のことを思い出すな」
ロヴィーノは手を差し出した。
……この手を取れば、すべてが終わるのでしょう。
告げられたわけではない。
……兄はそれを望んではいかなかったのでしょう。
それなにもかかわらず、わかってしまうのは兄妹だからだろうか。
……最期まで嘘ばかりをおっしゃるのですね。
差し出されている手を見つめる。先ほどのような震えはない。
迷いを捨てたかのように差し出された手から視線を外し、ロヴィーノを見つめた。
「お兄様」
その呼び名を口にしたのは、何歳の時以来だろうか。
「お兄様を置いていってしまうことをお許しくださいませ」
差し出された手を取り、立ち上がる。
迷いはなかった。
「……いいんだ、気にしないからな」
ロヴィーノはティアラの手を握りしめ、歩き出す。
……昔も、こうしてお兄様と手を繋いでいたような気がします。
足取りに迷いはない。
やるべきことを思い出したかのように歩き出すロヴィーノの背中を見つめていると、ロヴィーノを兄と慕っていた頃を思い出してしまう。
「俺様には友人がいる。バカな奴だけど。だから、置いていくなんてバカみたいなことは考えるな。お前は自由になれ。俺様に囚われるようなことだけはしてくれるなよ」
終わりの見えない箱庭だった。
【幻想の指輪】という名を与えられた箱庭は、崩壊することのない場所だった。
「この扉から出ればいい」
「まあ、扉がありましたのね。気が付きませんでしたわ」
「当然だ。作らせたんだからな」
「そうでしたの。扉を作ってくださった方にお礼を伝えといてくださいませ」
長い年月を過ごしていた場所から、それほどに離れていない場所に扉は作られていた。
「どちらに続いておりますの?」
ティアラの問いかけに対し、ロヴィーノはなにも言わなかった。
手を繋いでいない左手でドアノブを掴み、扉を開ける。
「お兄様」
「なんだよ」
「わたくし、この先に進めばよろしいのですね?」
「……そうだ。この扉から出ればいい」
ロヴィーノは手を離そうとはしなかった。
名残惜しいと思っているのだろうか。気難しそうな顔をしているロヴィーノに対し、ティアラは優しく微笑んだ。
「お別れですわね」
それから、繋がれていた手を離す。
「そのような顔をしないでくださいませ」
力が込められていなかったのだろう。
簡単に離れてしまった手を惜しむかのように伸ばされたロヴィーノの手は、ティアラに触れることはなかった。
「さようなら、お兄様」
ティアラは一歩、また一歩と前に進む。
扉の先に急ぐかのように歩いていくティアラの姿を見つめるロヴィーノの目は悲しみを帯びていた。それを隠すかのように視線を逸らす。
ティアラは扉の下を通る。
なにをしても【幻想の指輪】が作り出す箱庭の中から出ることができなかったことが嘘であったかのように呆気ないものだった。ティアラが扉を潜り抜けたのと同時に扉は光の粒になって消えていく。
その幻想的な光景を見ることを拒むかのように目を閉じた。
* * *
「……どこ?」
ティアラはいない。
【幻想の指輪】に閉じ込められていたティアラがいた場所のように咲き誇っている花畑の中にガーナは立っていた。
……夢の中なのかなぁ。
咲き誇っている花に触れる。
現実では見たことのないように鮮やかな色を放つ花は幻想的だった。
……現実的じゃないのよね。
目を閉じる。
それを待っていたかのように風が吹きつけ、花々が散っていく。
「ガーナ」
名を呼ばれて、目を開ける。
花畑は消えていた。代わりに広がるのは凍り付いた森の中だった。
氷の中にある木々は時が止まってしまったかのように緑の葉をつけたままだ。地面には霜が降りている。
「兄さん?」
名を呼ばれたはずだった。
周囲を見渡すが、名を呼んでくれたイクシードの姿が見えない。
「どこにいるの?」
問いかける。
いつも通り、望んだ返事はなかった。
「兄さん」
もう一度、呼びかける。
今度はガーナの声に応えるかのように風が吹いた。覆いつくしていた氷の中に閉じ込められた木々は消えていき、道が現れる。