08-4.真実は夢の中に隠されている
その手の温もりを感じると、さらに涙が零れ落ちた。
「千年経っても泣き虫は泣き虫だな」
呆れたような声だった。
それすらも懐かしく感じてしまうのは、【幻想の指輪】に閉じ込められ続け、穏やかな時間だけが流れ続ける箱庭に居続けた影響だろうか。
「【幻想の指輪】の中にいれば、怖いものなんかなにもねえだろ?」
ロヴィーノの手が離れる。
「ここはお前の為に作らせた箱庭だ」
涙を零し続けるティアラを慰めるように、ロヴィーノの手がティアラの髪に触れた。
「ここにいれば、なにも怖いことはねえよ」
ぎこちなく髪を触る仕草をするロヴィーノに対し、ティアラはゆったりとした動作で払い除けた。
明らかな拒絶だった。
それに対して、ロヴィーノは怒ることもなく手を離した。
「箱庭の中に居続ければ、ティアラが傷つくことはねえよ」
……この人はなにも変わらないのでしょう。
【幻想の指輪】の中にティアラの自我を閉じ込め続けることを提案したのは、ロヴィーノだった。それをティアラは命を失う間際に聞かされた。
閉じ込められた当初は、ロヴィーノに対して怒りと憎しみの感情を抱いた。
父の命を奪い、母の心を壊し、抵抗する使用人の首を撥ね続けた兄に対して恐怖感を抱いた。生まれ育ったレテオ公爵邸を血で染め上げた兄の姿を思い出す度に恐怖に怯え、復讐を誓った。
「なんでも与えてやれるようになってる。【幻想の指輪】の中にいれば、お前は、平和の中に居続けられるんだ。だから泣くなよ。なにも怖いことはねえだろ?」
ティアラに語り掛けるロヴィーノの声は穏やかだった。
……わたくしには、兄の心がわからないのです。
それも、千年近くの年月をかけて薄れていった。
ロヴィーノの目的がわからなかった。
「……ここは、なにもありませんわ」
ティアラはロヴィーノから目を反らすように俯いた。
花畑に座っているティアラに合わせることもせず、隣に立ったままのロヴィーノの表情は変わらない。
観客を楽しませる道化師のように話をするたびに表情を変え、その都度、話し方や声色を変えてイザトを振り回していたのが嘘のように静かだった。
「望めばなんでも出てきただろ?」
「誰も帰ってきてくださりませんでしたもの」
「人なんかいなくても退屈はしねえようになってただろ」
「そういう問題ではありませんのよ」
「そうか。それなら人も出せるように調節してもらおうか」
「いりませんわ」
涙が零れ落ちる。
与えられた箱庭は平穏な時が流れ続けている。争いのない日々だった。欲しいと思ったものを与えられ、要らなくなってしまえば光の粒となって消えていく。
「お前は平和を望んだだろ?」
「帝国の平和を望んでいたのです。箱庭に閉じ込められるだけの人形になることを望んだことは一度もありませんわ」
「帝国には平和なんか来ねえよ。俺様たちが生きている限り、帝国は争いしか生み出さねえからな」
「それならば、その命を奪って差し上げるべきでしたわ」
「ティアラには荒事は向いてねえよ」
ロヴィーノはなにを考えているのだろうか。
ティアラは涙を拭い、ゆっくりと顔をあげる。それから覚悟を決めたかのようにロヴィーノに視線を向ける。
「貴方も、幼い頃は、荒事は好んではいなかったでしょう?」
穏やかな顔をしていた。
それは幼い頃に見ていた兄の顔だった。
「わたくしは覚えておりますのよ。幼い頃、貴方に抱きしめられるのが好きでしたもの」
少なくとも、家族に対しては温厚な態度をとっていた。歳の離れた妹であるティアラが涙を零せば、抱き上げて慰めるような兄だった。両親の自慢の兄だった。
それは遠い昔の幼き日々の思い出だ。
唯一の友人であったシャーロットと出会うよりも前の話だ。
初恋の人と婚約を結ぶよりも前の話だ。
怒りと憎しみに溺れ、復讐の中に埋もれて消えかけていた幼き頃の思い出が心の中を埋め尽くしていく。
「はは、お前はそんなくだらねえことを覚えているのかよ? バカみてえだな」
ロヴィーノは笑った。
元々は貴族だったとは思えないほどに豪快に口を開け、大笑いをする。
「平和な時間を与えすぎて狂ったか? それなら、少しだけ騒がしい日々を過ごせるように調節してもらおうか!」
咲き誇っている花を千切り、放り投げる。
「そうすりゃあ、お前もわかるだろうよ。俺様たちが愛している帝国が残酷な場所だってことが嫌になるほどにわかることだろうな!!」
先ほどまでの穏やかな表情から、楽しくて仕方がないと言いたげな表情に変わった。意図もなく千切られて放り投げられていく花は光の粒となって消えていく。
「泣くなよ。冗談だ。そんなことをして遊ぶような時間はねえよ」
ロヴィーノはまとめて花を抜き、慣れた手つきで花冠を作っていく。
あっという間に作られた花冠を空に向かって放り投げる。どこまでも飛んでいく花冠の行方を見守ることはしなかった。
「ティアラ」
その幻想的な風景に心を揺さぶれることもなく、ロヴィーノはティアラの頬に手を伸ばした。
「言っただろ? 巻き込まれただけだって」
振り払えなかった。
「俺様はお前を救いに来たわけじゃねえんだ」
頬に伝わる温もりは変わらない。
「俺様たちは自らの役目に従事する」
優しい目をしていた。
父を手にかけ、母の心を壊してしまった時とは違う。
「英雄は帝国の為に生きているんだ」
楽しそうだった表情は変わる。
退屈で仕方がないのだと訴えるかのように表情が失せていく。
「英雄、始祖、守護神、化け物、色々な呼び方をされてきた。千年前の革命なんか神話扱いだ。俺様たちは帝国の為に生まれ、帝国の為に命を捧げ続ける。すべては帝国の為に存在している。――なんて、バカみてえなことを本気で信じるような帝国民を守らなきゃいけねえんだ」
頬に添えられた手は震えている。
それをティアラに聞かせたくはないのだと抵抗をしているように見えるのは、ティアラの見間違いではないだろう。
「なぁ、ティアラ」
名を呼ばれた。
それに反応することができない。
「もう一度、陛下の為に死んでくれよ」
触れていた手が離れる。
それを引き留めることは出来なかった。