06-2.七百年前、愛した人はもういない
帝国民が始祖を望むのであれば、シャーロットは始祖で居続ける覚悟をした。
手放した過去を抱きつつも、人間であった頃を夢見つつも、帝国の為に全てを捧げる覚悟はある。
「誰よりも幸せになれ」
この帝国に誓ったのだ。帝国を守る神に誓ったのだ。
そうしなければいけない、過去があった。
そうしなければいけない、罪を背負っていた。
「未来を生きる子どもは始祖の守るべき宝だ」
多くを語らないシャーロットではあったが、少年の頭を優しく撫ぜた。
その眼は、かつて鬼子と恐れられた面影は無い。
死神と恐れられる面影もない。
そこに居るのは、心優しき女性だ。凛々しく立つその姿は、儚くも美しい。
眼を離せば、消えてしまう儚さは彼女特有の雰囲気だろう。
「お前も私たちが守るべき存在だ」
誰もが惹かれる不思議な魅力を携えたシャーロットだからこそ、立場以上に求められる事柄が多かった。それらを全て叶え、手に入れて来た。
「私たちの手など借りなくとも生きられるようになってほしいと願っている」
他でもない自分自身の欲望を満たす為の行動は、無意識の内に誰かを救う。
救われた人々にとっては、その心を支配する憧れへと変わってしまう。
意図せぬ内に、他人の心の支えにされている。
それだけの存在感があった。それだけ人々から絶大的な支持を集めていた。
「お前には未来がある。その未来を私に奪わせないでくれ」
シャーロットの美しさは毒になる。人々に叶わない夢を抱かせる。
彼女の美しさは、時に正気すら奪う。それを自覚していないのだろうか。シャーロットは、優しく微笑んだ。
「幸せにおなり。お前は、私の愛おしい人によく似ているのだから」
それは、始祖になる前の話だ。
テンガイユリ家が帝国を治める少し前の時代。
シャーロットが、若き女公爵として名を上げ始めた頃に傍にいた幼馴染だった。婚約破棄を告げられたシャーロットの心に寄り添い、誰よりもシャーロットを支えようとしていた人だった。
「お前の命を奪わせないでおくれ」
シャーロットが、恋い焦がれた人だった。
彼の命を奪ったのは、シャーロットだった。自らの意思で殺害した。
「私は災厄を招く。傍にはおけないのだよ」
滅亡の危機に陥った帝国を守る為に、愛おしい人の命を奪った。
三百年近くの年月が過ぎた今でもその日の光景を夢で見る。
何度も何度も、繰り返されるその光景は、罰なのかもしれない。そんな事を考え、悩んだ時もあった。それでも振り返るわけにはいかなかった。
「貴様は、幸せになるべき人間だ。人間を愛し、愛されるべく生まれて来た人間よ。道を誤るべきではない。限りある人生、有効に生きよ」
だから、なのだろうか。
シャーロットは、静かに少年の頭から手を離した。
感情を隠そうとしている彼女の眼は、今にも泣きだしてしまいそうだった。
「シャーロット」
少年は、離れていく手を掴んだ。
両腕で支えていた花束は、地面に落ちた。
「貴女の気持ちはわかりました。泣くこともできないほどの想いだったのでしょう。僕がシャーロットの愛した人に似ているのならば、僕と過ごす日々は苦しいものなのかもしれません」
永遠の愛を誓う赤薔薇の花束は、地面に落ちた衝撃で散る。
二人を祝福するかのように花弁は舞い上がる。風に乗り、シャーロットの肩に落ちた花弁は様々な色に変わっていく。
それに気づいたシャーロットは、困ったように笑みを繕った。
常識を覆したのは、少年の意思の強さだろう。
この時代、魔力の持つ人間の意思により、新たな魔術が生み出されることは、少なくなかった。
誰しもが抱く意思は、時に常識すら覆してしまう。
それは新たな魔術を生み出す。
「シャーロットと一緒に居る未来を望みます。僕の幸せは、貴女を誰よりも幸せにすることなのですから」
少年は、シャーロットを引き寄せる。
「シャーロットが化け物だと言うのなら、僕も化け物になりましょう。貴女の傍にいさせて欲しいのです。僕が貴女の居場所になりたいのです」
甘く囁かれる言葉に頷きそうになる。
親しくしていた友人たちがこの世を去っていくのを眺めることしかできなかった。家族を守ることも出来なかった。仕えてくれた使用人たちの最期を見送る時には枯れたはずの涙が零れ落ちた。
それらはシャーロットの心を凍てつかせた。
「……離れろ」
望めば、何れ、その手で壊してしまう。
かつては、人々を救う為に存在していた力は、人々を呪う力へと変貌した。
その事実は、シャーロットを救うことはないだろう。
誰かを救いたいと願いながらも、自らの手で全てを失ってしまう恐怖感はシャーロットの心を蝕み続ける。
凍てつかせた心が溶けてしまえば、絶望は再びシャーロットを襲うことだろう。それを知っているからこそ、シャーロットは少年の言葉を受け入れることが出来なかった。
「愚かなことを望むな」
少年の身体を押し返す。
これ以上、彼の温もりに浸ってしまえば、取り返しのつかないことになる。
シャーロットは、それを知っていた。
他人から与えられる愛情の心地よさは、昔から良く知っていた。
「二度とそのような戯言を口にしてはいけない」
だからこそ、甘い誘惑は拒絶する。
拒絶しなければいけなかった。
* * *
それは雨が強く降る日だった。
毎日のように愛を捧げに来る少年の想いに負け、シャーロットがその手を取ってしまった日から二十年。ついに恐れていた日が来てしまった。
「……だから、言ったではないか」
フリークス公爵邸にある古びた塔の近くに男性は倒れていた。
強い雨に濡れているのにもかかわらず動くことはない。塔に背を預ける男性の顔は下を向いており、地面に投げ出されている手足には力がない。
「お前の未来を奪わせないでくれと、言ったではないか」
シャーロットの目には涙が浮かんでいた。
手にしていた傘を男性の傍に置く。
雨を避けても、男性の顔が上を向くことはない。シャーロットが涙を流しても手は動かない。気の利いた言葉の一つさえも聞くことは出来ない。
それは分かりきっていた結末だった。
避けることはできないだろうと覚悟をしていたことだった。
「リン」
何度、その名を呼んだだろうか。
フリークス公爵家の復興に繋がった男性の名にあやかろうとする者も少なくはなく、始祖との繋がりを持てるようにと期待をする貴族たちはその名を好むようになった。
「リン」
だからこそ、彼以外は名で呼ぶのを止めた。
化け物と共に生きることを選んだ男性に敬意を示す方法はそれしかなかった。
「私を置いていかないでくれ」
シャーロットは膝をつく。
二度と目を覚ますことのない夫の手を握ることしかできなかった。




