06-2.知っているのに知らない。それは恐れである。
その記憶に流されるわけにはいかない。
十六年間、ガーナ・ヴァーケルとして生きてきた日々を得体の知れないなにかに奪われるわけにはいかない。
……弱点を突いて逃げるしかないわ。
真っ向勝負をして勝てる相手ではない。
それならば、手段を選んでいるわけにはいかない。
……雨を降らせた隙に逃げる!
魔力がある者ならば誰にでも扱えるように改良された創作魔法を使う為の媒体であるナイフは、熱を持つ。
ポケットの中に手を入れ、いつでもナイフを取り出せるようにする。その一連の動作を見逃しているのは相手の余裕からだろう。
ガーナの行為に対する危機感はないのだろう。
それならば僅かにでも攻撃を仕掛ける機会はある。
準備はできた。後はシャーロットの隙を衝くだけだ。
「笑わせてくれるな」
それに気づいているのだろうか。
震えているガーナを宥めるような優しい声をしていた。
「裏切り者の聖女が、現役の化け物と同等なわけがあるまい」
シャーロットは、見下すように笑みを浮かべた。
「だが、良いだろう。勇敢な者は好ましい」
相変わらず口元しか動いていない。
「それが愚かな行為であろうともその勇気は認めよう。殺せるものならば殺してみるといい」
見下しているとも自嘲とも取れる独自の笑み、それに対してすら懐かしみを抱く。
声色と合っていない笑みには見覚えがあった。
「私は逃げも隠れもしない。殺意には殺意を返すだけだ」
知らないはずなのに知っている。
その笑顔に見覚えがあるとすら感じてしまう。
……知っているわ。
「化け物に勝つ自信があるのならばやってみるといい」
身体が震える。恐怖はある。
それでもガーナがガーナであり続ける為にはこの場を乗り切らなくてはならない。
こうなるのならば、最初から声をかけなければよかったのだ。
最初からシャーロットの姿を追いかけなければ良かったのだ。
その矛盾にも気付けない。
急に恐ろしくなったのだろう。
得体の知らないなにかに身体が乗っ取られる恐怖を抱いたのだろう。
……私では敵わないことくらい知っているわよ!!
それでもなにもしないままではいられなかったのだろう。
……追いかけるべきではなかったのに。バカな私!
ライラの呼びかけに従い、止まるべきだった。
振り返って戻るべきだった。
「なぁにを言っているのか、わからないね!」
そうすればガーナには変わらない日常が待っていたことだろう。
魔法学園の生徒として日々精進する日常に戻ることができただろう。
友人たちと楽しい日々をすることだってできただろう。
「自意識過剰なんじゃないの?」
それを手放してしまったのはガーナだ。
導かれるままに突き進んでしまったガーナの浅はかな考えが全てを台無しにしてしまったのだ。
「ふふっ。妄想もいい加減にした方がいいよー?」
そう思わなくては息をすることも苦しかった。
今更、後悔しても仕方がないことを思い、笑みを零した。
頬を引きつらせた笑みが強がりであることなど、シャーロットにも伝わっているだろう。
「私は、私のやりたいように生きてるだけだし?」
「あぁ、そうだな。これは私からの細やかな忠告だ。愚かな真似は止めておけ。貴様も早々に命を終わらせたくはないであろう?」
――いつでも殺すことが出来るのだから。
そう小さく呟いた彼女の表情からは、なにも読み取れなかった。
……怖い。
軽口を叩いてその場を凌ごうとしても無理があるだろう。
……怖いよ。ライラ。
引き留めようとして大声を上げていたライラはガーナが戻ることを待っていてくれるのだろうか。
それとも、諦めて立ち去ってしまっただろうか。
もしかしたら教師や警備員を呼びに行っているかもしれない。
その希望に頼るわけにはいかない。
ライラとシャーロットを引き合わせてはいけない。
今はまだ関わらせるべきではない。隣国の第二王女であるライラを危険に遭わせるわけにはいかない。
それでも頼ってしまうのはいつも傍にいる親友だからだろうか。
……ライラ。ごめんね。私、戻れないかもしれない。
ライラのことを強く思う。
それは、せめて一言だけでも言っておくべきだったという後悔かもしれない。
「【大雨になれ】!!」
ガーナはナイフを握りしめて叫んだ。
それは強い願いと魔力を込めることで実現させる【創作魔法】だ。
「冷たっ! ……え、嘘。雨? 本当に? 本当に降ったわ!!」
先ほどまでは青天であった空から雨が降ってくる。
ガーナの魔力では成功する確率が低い魔法だった。
雨に打たれ、濡れ始めるシャーロットも嫌悪感は隠せないようだ。
……私も濡れるとは思わなかったわ。
成功した喜びを噛みしめる。
……でも、助かったわ。
まるで神様が見守っているかのようにさえも感じてしまう。