05.聖女の涙は不幸を呼び寄せる
* * *
「ローズマリー教授」
リカは部室に向かおうとするユーリ・ローズマリーの腕を掴んだ。
弱弱しい力で引き留められたユーリはリカを振りほどくこともせず、温厚な笑みを浮かべ、リカの呼び止めに応じようと顔を動かした。
「あの、ね」
リカの声は震えている。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
「魔力をちょうだい」
それに対し、ユーリが返事をすることはなかった。
「ごめんね」
リカと目があった途端、ユーリの意識は消えた。棒立ち状態のユーリの腕を離し、リカは慣れた手つきでユーリの頬に触れる。
ユーリの頬には複雑な魔方陣が浮かび上がる。
それは不気味な光を放ち、リカの身体に纏わりつく。
……気持ち悪い。
百年ぶりの魔力を奪う感覚に嫌悪感を抱く。
始祖の一人とはいえ、リカは名ばかりの聖女だった。
莫大な魔力を抱えるわけでもなく、多くの魔術を使いこなせるわけでもない。
現代では一般的になっている魔法を使えるだけでは聖女の役目は果たせない。
他人と違う力を所持しているわけでも、予言に名が記されているわけでもない。予言を崇拝することもできず、他人の命を踏み荒らすことでしか生きてこられなかった。
……また、わたしのせいで、犠牲が増えてしまった。
救国の聖女として崇められる日々は気が狂いそうだった。
他人を踏み台にしなければ大規模な魔術を行使することができない。戦場では死地に向かう帝国民の傍に立ち、祈りを捧げ続けてきたのは死と共に空中に散った魔力を回収する為だった。
「ごめんね」
聖女マリー・ヤヌットは無力だった。
他の始祖たちのように長生きでもない。
「魔力が欲しいの」
百年程度で寿命が尽きるように仕組まれており、帝国の地盤を揺るがすような出来事が勃発する度に【物語の台本】を維持する為の生贄として命を奪われ続けてきた。
「大事に使うから」
聖女の転生者として引き継いだのは記憶だけだ。
その記憶すらも夢という形を通してガーナに分け与えている。
「許してね」
リカに残された方法は、他人の魔力を奪うしかなかった。
強引に持ち主から引き離された魔力は魂を削る。魂と寿命は相互関係にあり、どちらかが削り取られてしまえば、死に直結する。
リカはそのことを理解していた。
それでも、他の方法を持っていなかった。
「ローズマリー教授」
ユーリの顔色は青褪め、焦点が合っていない眼はどこを見ているのかわからない。リカの呼びかけに応えることないユーリに対し、リカは涙を堪えながら頬から手を離した。
「お願いを聞いてほしいの」
そして力なくぶら下がっているユーリの手を握る。
「これを、ガーナちゃんに渡して」
【幻想の指輪】が仕舞われている箱を握らせた。
千年前、始祖を生み出す為の実験台として命を散らした人々の魔力を凝縮して作られた魔道具は呪われている。適切な処置を行うことができる者ではなければ、身に着けているだけで命を奪うこともある。
リカは知っていた。
理解をしているからこそ、ユーリに渡したのだ。
ユーリは【幻想の指輪】を握りしめ、部室がある方向へと足を向けた。そして無言のまま、足を進めていく。その姿は操り人形のようだった。
「……ごめんね」
涙が頬を伝う。
操り人形のような状態のまま、部室に向かっていくユーリの背中を見つめながら杖を向ける。
「“聖女の加護を与えよ”」
搾取した魔力を使い、魔術を行使する。
それは他人の状態異常を隠すだけの魔術だ。
……これしかできないけど。
ユーリの身体から淡い光が漏れ始める。青ざめた顔色は元通りになっていることだろう。他人から異常を指摘されないような状況に戻ったとしても、リカの願い事を忠実に叶えようとする操り人形のままだ。
……来世では、幸せになりますように。
削り取られた魂を補うことはできない。
その代わり、始祖として加護を与えることはできる。
「加護を与える必要性はないだろう?」
隣から声がした。
気づいていなかったのだろう。リカは身体を大きく揺らし、目を見開いた。
恐る恐る隣に視線を向ければ、シャーロットが立っている。
「で、でも、教授は、無関係な人だから」
「そうだな。運が悪かっただけだ」
リカは首を横に振るう。
……運が悪かったなんて片付けたくない。
感情のままに言葉にすればシャーロットは嫌悪感を示すだろう。
……犠牲者を増やしたくない。
帝国民は帝国の為に生きている。始祖は帝国の為に生きている。
その二つは似て異なるものだ。
……わたしは、それを終わらせる為に、呪ったのだから。
いつだって始祖は正義を掲げ、民に犠牲を強いる。
将来的には帝国を反映させていく為に不可欠な犠牲だったとしても、犠牲に選ばれた民はそうは思わないだろう。
「奪ってしまったから。だから、来世は、幸せになってほしいの」
リカは杖を握りしめる。
縋りつくような姿は情けのないものだった。
「不足した魔力を補う方法は?」
「……考えてあるよ」
「そうか。すぐにでも可能か?」
「うん、大丈夫だよ」
リカはゆっくりと目を閉じた。
涙は止まらない。それは後悔をしているようにも、懺悔をしているようにも見えた。
指摘する人も慰めてくれる人もいない。
孤独の中を歩いているような気分だった。
「一度、接触をしたから」
昨夜、見た夢を思い出す。
……ガーナちゃんは優しいから。
現実とは異なる姿をしていた黒髪の女性の正体に気付いていた。
涙を流す女性を助け出そうと手を伸ばしてくれた。
……だから、利用されるの。
夢の中の出来事だとわかっていた。
それでも、名を呼んでくれた時には涙を流してしまった。
「夢を見せるの。悲しくて、仕方がないような夢を見てもらうの」
杖に魔力を込める。
「ガーナちゃんは、リン君が、好きでしょ?」
いつも傍にいたからこそ気づいてしまった。
それは叶うはずのない恋心だ。
「だからね、恋心を利用するの」
他人を思う感情は強い。
特にガーナのように他人を大切にする傾向が強い女性の恋心には、膨大な力が秘められている。
「絶望に、突き落とすの」
声が震えてしまう。
それでも、魔力を流す行為を止めない。
「シャーロット」
「なんだ」
「貴女の大切な記憶を、少しだけ、貸してほしいの」
リカの言葉に対し、シャーロットは少しだけ悩むふりをした。
「恋心を打ち壊すような記憶はないが」
リカが欲している記憶に心当たりがないのだろう。
それは膨大な記憶の中に埋もれてしまっているだけだということをリカは知っていた。
「好きに使え。私にはなにも影響がないのだろう?」
シャーロットはリカの頭に触れる。
「リカのしたいように振る舞えばいい」
「……いいの?」
「構わないだろう。私を監視役に選んだのはジャネットだ。なにが起きたとしても、文句は言わせないさ」
手入れの行き届いていない黒髪を撫ぜる手は優しい。
そこには長い年月を共に過ごした日々が培ってきたものがあった。
「うん、ありがと」
リカは杖に溜まった魔力を放つ。
それは巨大な蛇のような形を作りながら、窓の外へと飛び出していった。
……ごめんね、ガーナちゃん。
魔力の塊である巨大な蛇はガーナを標的としている。それに触れられてしまえば、ガーナの意識は一瞬で刈り取られ、夢の中に引きずり込まれることになる。
……時間を稼がせてね。
ガーナの心をこじ開ける為には膨大な魔力が必要だ。
それは、【幻想の指輪】を正しく使う為の下準備だった。




