01-3.聖女は二人もいらない
* * *
「おかえり、マリー」
ジャネットに与えられた執務室に転移をしたリカに声をかけたのは、シャーロットだった。面倒そうな表情をしたまま、リカの手を振りほどき、さっさとシャーロットの隣に腰かけるイクシードには目もくれず、優雅に手を振るう。
「一般人の生活は楽しかったか?」
その姿は悪魔のようだった。
すべてはシャーロットたちの掌の中にあったのだとリカは思い知る。
「……楽しかったよ」
「そうか。それは良かった。貴重な体験ができたようだな」
興味もないのだろう。
シャーロットの視線は手元にある書類に戻された。
「シャーロットだって、同じ、じゃないの」
それを責めるかのようにリカは声をあげる。
共に学生を楽しんでいたわけではない。しかし、リカの目には経験のしたことがなかった学生生活に対して興味を抱いているように見えていた。
「私は遊んでいたお前とは違い、仕事として学生の真似事をしているだけだ」
「わたしは――」
「マリー。お前は意見など言えるような立場ではないことを忘れたのか?」
シャーロットに指摘をされ、リカは口を閉じる。
視線を床に向ける。
綺麗好きのアンジュが掃除をしていたのだろう。磨き上げられた床には埃一つも落ちていない。それはリカが聖女として軍部に所属をしていた頃と何も変わっていなかった。
「リカ・ナカガワだったか」
書類の整理が終わったらしいジャネットに名を呼ばれ、リカは顔を上げる。
相変わらず何を考えているのかわからないジャネットに対し、リカは緊張をしたような表情を浮かべる。
心なしか姿勢が良くなり、前髪で隠されている目には涙が溜まっていく。
悲しいわけではない。辛いわけではない。意味もなく、涙が流れてしまう。緊張をすると泣いてしまうのはリカにもどうすることができない現象だった。
「聖女に戻る覚悟はあるか」
ジャネットの問いかけに対し、リカは頷いた。
……覚悟なんて、ないよ。
帝国の聖女に戻ることを選べば、九百年間、過ごしてきた日々に戻ることになる。そこには聖女とは名ばかりの日々が待っている。
……戻りたくないよ。
百年前、耐えきれなくなって手放した日々に戻るのは恐怖でしかない。
……でも、自分で、死ぬなんてできない。
それでも、リカは頷くことしかできなかった。
聖女ではないリカには生きる価値がない。それを突き付けられたばかりの彼女には反論をする気力も勇気もなかったのだろう。
「そうか。――シャーロット、お前はどう思う」
「裏切り者の声に耳を貸す意味がわからない。問いかける価値もないだろう」
「それも一理ある」
「そうだろうな。わかりきっていることを問いかける意味も理解ができないが、あえて言うのならば、聖女の素質を確かめるべきではないか?」
シャーロットは手にしていた書類を宙に放つ。
用済みになった書類は一瞬で燃え尽き、灰は床に落ちる。落ちた灰は陰に吸い込まれて消えてしまった。
「良い提案だ」
ジャネットは手にしていた書類をリカに投げる。
受け止めたリカは不安そうな表情を隠すように視線を書類に向けた。
……なに、これ。
長い年月を共にしてきたのは悪魔たちだったのだろうか。
帝国の始祖、守護神、英雄と褒め称えられることの多い彼らの発案は、常識の枠を超えてしまっている。
「任務を与える」
ジャネットの声が死刑宣告のように聞こえる。
「【幻想の指輪】の使用を許可する」
それは千年前に生み出された始祖の成り損ないの一つだ。
ミカエラ・レイチェルが犯した罪の一つであり、【帝国守護神創造計画】を実行する以前に行われていた人体実験の被験者の魂を元に作られた魔道具。
……嘘。
その名称を耳にしたリカの表情は青褪めていく。
……まだ、苦しめられていたの?
書類を掴んでいる手が震えてしまう。
「予言の聖女を偽物に仕立て上げろ」
顔を上げる。
ジャネットと視線が交わった。
「あの子は、本物だよ?」
思わず声をあげていた。
不安そうな表情を浮かべていることを指摘する者はいない。
リカを軍部に連れてきたイクシードは欠伸をしており、シャーロットは退屈そうに杖を弄っている。いつの間にか執務室に来ていたアンジュは掃除をしている。
「予言されたのは、ガーナちゃんだよ。わたしは、偽物なのに」
問いかけられたジャネットの表情は変わらない。
しかし、リカの考えを否定するかのようにため息を零した。
「イクシードに聞かなかったのか」
「……イクシード?」
「ギルティアが使用している偽名だ。その説明も受けていないのか」
「なにも、聞いていないよ」
リカは視線をイクシードに向ける。
好んで偽名を使っているとは聞いたことがない。以前、ガーナがそのような話をしていたことは記憶にあるが、始祖たちが集う場所では本来の名を使用していると思っていたのだろう。
「兄妹とはいえ、信用関係が成り立っていないようだな」
その言葉を否定することはできなかった。
「信頼を取り戻せ。話はその後だ」
ジャネットの視線がリカから外され、シャーロットに向けられた。
「シャーロット、監査役を任せる」
「使い物にならなければ消し炭にしてしまうかもしれないが、構わないな?」
「判断基準は任せる。好きなようにしろ」
「それならば引き受けよう」
シャーロットは立ち上がる。
「マリー」
「な、なに?」
「リカ・ナカガワとして接触をすることをお勧めしよう」
「ど、どうして?」
「友人として接した方が警戒されにくいはずだ。その方がやりやすいだろう?」
……どうして、そんなに酷いことを思いつくのかな。
リカはガーナと過ごしてきた日々を思い出す。
……ガーナちゃんを傷つけることに、なにも、抵抗がないのかな。
常にリカの常識を飛び越えていくガーナに振り回され、時には彼女の思考回路に対して恐怖を抱いたこともある。それでも、傷つけたいと思ったことはない。
……ガーナちゃんは、きっと、疑ってもくれないよ。
ガーナが友人想いの優しい少女だということも知っている。
友人として接触をすれば拒まないだろう。
それどころか、心を開いてくれたのだと喜んでくれることだろう。
「保管庫に案内しよう」
リカは歩き始めたシャーロットの背中を見つめる。
自身の拳を握りしめる力はか弱いものだ。
「……シャーロット」
それは聖女マリー・ヤヌットとしての言葉ではない。
「手を、出さないで」
リカ・ナカガワとしての言葉だった。
フリアグネット魔法学園に通う学生であり、ガーナの友人としての主張だ。
「わたしが、やるから」
死にたくないという気持ちだけで腹を括れるような覚悟はない。
目的の為ならばどのような手段でも取るような非道にはなれない。
自分自身の為ならば悪にも手を染められる勇気もない。
「わたしが、やらなきゃいけないの」
それでも、逃げ出すことはできないのだとわかっていた。
「ガーナちゃんを巻き込んだ責任は、わたしにあるから」
リカの宣言に応える者はいない。
それに同調するような人もない。
……覚悟なんて、ないけど。
与えられた任務が成功をした時には、リカはマリー・ヤヌットを再び名乗ることになるのだろう。
……百年前、“私”が始めたことだから。
ガーナを偽物の聖女に仕立て上げることにより、革命を引き起こし、その先に何が待っているのかも知らないまま、利用されるだけの存在に戻る。
それに対して絶望を抱く心の余裕などないだろう。
罪悪感を抱きながら苦しみ続けていくことだろう。
一歩ずつ、足を踏み出す。リカの言葉を聞かないまま、執務室の扉に手をかけていたシャーロットを追いかけるように歩き始めた。




