01-1.聖女は二人もいらない
* * *
リカは周囲を警戒しながら寮の廊下を歩いていた。
心なしか早歩きになる。走り出さないのは周囲に違和感を残さない為なのだろう。僅かに震えている手で部屋の鍵を開け、素早く部屋の中へと入りこむ。すぐに閉められた扉の鍵を閉め、玄関付近に置いてある下駄箱を引きずり、外から扉がこじ開けられないように塞いだ。
……怖かった。
そこまでして、ようやく、息を吐きだした。
体の芯から冷え切ってしまったような気がする。重く感じる身体を引きずるかのように居室に入る。寄付金の少ないリカの部屋は最低限のものしかない。シャーロットたちのように何部屋も備え付けられているわけではなく、風呂、トイレ、簡易的な台所とは別に一室あるだけである。
それでも、ここはリカの安心できる場所だった。
ベッドに腰を掛ける。このまま横になって眠りについてしまいたい欲求を堪え、呼吸を整える。
……どうしよう。
冷や汗が止まらない。
恐怖からだろうか、心臓の音が大きく聞こえている。
……どうしよう。
自身の拳を握りしめ、目を閉じる。
……逃げないと。
現実逃避をするのには時間がないことを理解していた。
……まだ、戻りたくない。
扉を塞いでも逃げられるような相手ではないことはリカだって知っていることだった。
「逃げることはねえだろォ?」
部屋の中にはリカしかいないはずだった。
耳元で聞こえた声に対し、肩を大きく揺らし、目を見開く。リカの視界に入り込んだイクシードは愉快そうに笑っていた。
「はは、久しぶりに会ったんだ。少しは嬉しそうな顔をしろよォ」
身体を震わせているリカに対し、イクシードは少しだけ距離を保つ。
真正面に立ち、リカを見下ろすイクシードの目は笑っていない。口元だけは緩み切っているイクシードの表情に見覚えがあるのだろうか。
「こんな狭いところに逃げ込みやがって」
その言葉を聞き、リカの表情は暗いものになっていく。
怯え切ってしまっているリカに対し、イクシードは気を遣うことはない。
「手間をかけさせるんじゃねえよォ」
イクシードはリカの腕を掴む。
強引に立たせた。怯えた表情を見せるリカのことが気に入らなかったのだろうか。イクシードは露骨に舌打ちをしてリカの腕を離し、床に座らせた。
「ち、ちが……」
リカは座り込んだまま、この場を離れようとする。
その際、言い訳のような言葉を口にしようとしたのだが、上手く言葉にならない。
「マリー」
イクシードの呼んだ名に肩を揺らす。
「お遊びはそこまでだ。帰ってこい」
その言葉に対し、リカは首を振るう。
……ど、どうしよう。
言い訳を考える。他人の真似をするのは簡単だが、それが通じるような相手ではないことはリカも知っていた。
リカが言葉を選んでいることに気付いているのだろう。
イクシードの表情には苛立ちが見えつつある。
……逃げなきゃ。
言い逃れは許されない。嘘も許されない。
それでも逃げ道を探してしまうのはリカが弱いからだろうか。手に入れてしまった平和な日々に縋りついてしまうのは悪い癖だと非難するかのような視線で見下されているだけで身体が震えてしまう。
「マリー」
もう一度、名を呼ばれた。
それは百年前のあの日、リカが捨てた名だった。
「わ、わたしは、リカよ。リカ・ナカガワ。マリーじゃない、わ」
声が震えてしまう。
所々、裏返った声では説得力はない。
「でっ、出て、いって」
堪えきれない涙が零れ落ちる。
入学した以降、泣けば助けの手を差し出してくれる友人たちはいない。目の前の男にはそのような手は通用しないとわかっていながらも、涙を止められなかった。
「チッ」
イクシードは舌打ちをした。
それから面倒そうな視線をリカに向ける。
「めんどくせえなァ、おい。桜華人の真似事かァ? 見た目も名前も話し方も変えちまえば気が付かねえと思ったかァ? だから、テメェは頭が足りねえって言われんだよ」
イクシードはリカの前髪を掴む。
普段は隠されている黒色の目は揺らいでいる。そこに映し出される自分自身の姿が気に入らなかったのか、イクシードは強引に髪を引っ張り、勢いよくリカの身体を床に叩きつけた。
「ひっ、や、ぁっ」
リカは震えてしまっている。
必死に逃げようとする姿を見たイクシードは忌々しいと言いたげな表情を浮かべていた。
「演技は要らねえんだよ」
イクシードには穏便な話し合いはできない。
「リカ・ナカガワだったかァ? 今の名前、気に入ってるみてえだなァ」
「ひっ」
「名前なんてどうでもいいんだよ。それを名乗りてえなら名乗れ。通称として使えばいい。それだけの話だろ?」
子どもに言い聞かせるような声だった。
それはリカの恐怖を煽るだけだと知っているからこそ、わざと猫なで声を出しているのだろう。
「なァ、マリー?」
イクシードは呼び名を変えない。
それはリカが平民の少女として生きることを許さないと告げるようだった。
「俺は兄としてマリーを救いに来てやったんだァ。感謝しろよ」
前髪から手を離す。
「新しい予言を教えてやる」
それは恐怖を煽るような言葉だった。
リカは震えてしまっている身体を強引に起こす。それから逃げられないと悟ったような眼をイクシードに向けた。
乱された前髪から見える目からは大粒の涙が零れ落ちた。
「“偽物は革命を呼び込む。生き残るのは正義のみ。帝国は再び危機に陥る”」
それはシャーロットが懺悔の塔で得た新たな予言の一部だ。
「そんな顔をするんじゃねえよォ。予言が覆らねえことは知ってんだろォ?」
イクシードの言葉に対し、リカは俯いた。
涙が自身の服を濡らす。それに同情するような人はどこにもいない。




