ギルレイドの失策
侍女に案内されたのは祖父のいる客室で、寝室だけでなく応接間が併設された広い部屋だった。
部屋には祖父のシトリアとサフィリアがおり、突如やってきたルビー達を慌てた様子で迎え入れる。
「ルビー?!」
「どうした二人とも?!」
「あのクソ女がルビーを殴った」
「は?」
怒りに目を吊り上げているダリヤの言葉に、今度はサフィリアの顔から表情が消え失せた。
そして、じっとルビーを見つめた後、サフィリアは無言でルビーに傷薬を渡し無表情のままで部屋を出て行こうとする。
「俺、ちょっと出てくる…」
「待ってサフィ!お願いだから剣を持っていくのは止めて!」
「大丈夫、ちょっと同じ目に合わせるだけだから」
「全然大丈夫じゃないから!って、何で兄さんもおじいちゃんも見送ってるのよ!止めてよ!」
「……止める意味がないじゃろ」
「おじいちゃんまで何言ってるの?!そんな事したら子爵様に迷惑が掛かるわよ!」
ルビーの叫びに、渋々と言った様子で男達三人の動きが止まった。
物凄く不本意そうな顔で何かを考えている。
恐らく、殿下や子爵にかかる迷惑を慮っているのだろう。
「……仕方ない。今日は諦める……」
今日は、という単語が少々気になったが、仏頂面の三人が何とか諦めたのを確認してルビーは小さく息を吐いた。
「ちょっと口を切っただけで見た目ほど大したことじゃないの」
頬が赤く腫れているので大げさに見えるだけだ。
傷薬を塗っておけば、明日には綺麗になっているだろう。
だが、傷薬を塗ろうと鏡を見ていると、何故か慌てた様子の子爵夫人がやってきた。
「ルビーさんが傷を負ったと聞いたのですが?」
どうやら侍女達から連絡を受けた夫人がお見舞いにやって来てくれたらしい。
夫人は心配そうな顔でルビーを見つめ、そして顔を見た瞬間大きく眉を寄せた。
「まぁお顔が!王女がやったというのは本当ですの?!」
「ご迷惑をお掛けしております。傷と言っても大したことはございません」
「大した事あるわ!直ぐに治療しましょう!」
そう言って夫人はルビーをソファーへと座らせた。
そして自身もルビーの横に座り、ルビーの頬を確認してそっと掌をかざす。
すると、子爵夫人の手から淡い光が放たれた。
その暖かい光が柔らかくルビーの頬を包み込む。
「これは……?」
「治癒魔法よ。と言っても、わたくしはそんなに魔力があるわけではありませんから、小さな傷を治す程度ですけれどね。………痛みはどうかしら?」
「全く無くなりました。ありがとうございます」
口の中は傷薬が塗れないため諦めていたのだが、夫人のお蔭ですっかり良くなった。
夫人は魔力が少ないからと謙遜していたが、治癒を主とする光魔法は固有魔法の一つで保持している人が少ない貴重なものだ。
「私の為に貴重な魔法を掛けて頂き、本当にありがとうございます」
「貴女はわたくし達の大切なお客様なのだから当然よ」
「お手数をお掛けします」
「うふふ、気にしないで。それにね、わたくしあの王女様、気に入らないのよ」
そう言った子爵夫人は、近くに居た従僕に殿下への伝言を持たせる。
「殿下とシュバルツ公爵様に、ルビーさんの治療は無事に完了したと報告して頂戴。ちなみにルビーさんの被害は頬の著しい腫れと奥歯。特に奥歯は抜け掛けていたと報告しなさい」
「…ふ、夫人?」
「大丈夫よ、抜けたと嘘を吐いた訳じゃないわ。ほんのちょっと大げさに言っているだけだから」
そう笑顔で締めくくった夫人は、夜更かしはお肌に悪いからと言ってにこやかな顔で部屋を出て行った。
「……大丈夫かしら?」
嘘を吐いたとバレたら夫人が怒られないだろうか?
そんな心配をしたルビーだったが、ダリヤからは全く別の回答が返って来た。
「大丈夫だ、ミハエルなら夫人の意を汲んでガッツリやってくれる」
そういう意味で聞いたのではなかったが、夫人が怒られる心配がないと分かってホッとする。
「じいさん、夫人へのお礼は何がいいだろ?」
「彼女は甘い物がお好きだったから、それを用意すれば喜んでくれるじゃろ」
「分かった。朝一でエルに買いに行かせよう」
王都にある有名な洋菓子店の名前を幾つか書き、ダリヤは直ぐにそれをエルグランドの魔空間庫に突っ込んだ。
朝一番に菓子を買いに走らせられるエルグランドには、ルビーからも謝罪の手紙を書いておこう。
それとお菓子の他に、最近王都で流行っている化粧品を一緒に送って貰おうと声を掛けると、直ぐにダリヤが追加の手紙をエルグランドへと送ってくれた。
そうして一通りエルグランドへ指示の手紙を出し終わったダリヤは、不意にサフィリアへと視線を向けた。
「ところでサフィ。トパーズ叔父さんが見つかったとルビーに聞いたけど…」
「……会ってくれる?」
「もちろんだ」
ダリヤの言葉に小さく頷き、サフィリアはそっと魔空間庫からマントに包まれたトパーズの亡骸を取り出した。
部屋への配慮からか、亡骸は遮断空壁に守られる形でそっと床に置かれた。
「このマントはもしかして殿下が?」
「ニーズヘック討伐の英雄にって………」
「そうか…」
番を討伐したのは恐らくトパーズだと事前に話をしていたので、ダリヤは納得したように頷き、静かに亡骸の前で手を組んだ。
「叔父さん、おかえりなさい」
静かな声が部屋に響く。
ようやく戻った叔父の冥福を、兄は静かに目を瞑りながら祈っている。
私達兄妹の中では、誰よりもトパーズと話した事が多いのはダリヤだった。
かなり可愛がって貰っていたと本人からも聞いている。
「これでやっと叔母さんと一緒のお墓に入れてあげられるな」
「あぁ、やっとだ…」
俯くサフィリアの頭をダリヤは乱暴に撫でた。
「サフィ、お疲れさん。ルビーも良く頑張った」
「本当よ。大変だったのよ」
「しかしあれだな、こりゃ、叙爵はちぃと荒れるかもしれんな……」
祖父のシトリアが言うのには訳があった。
この町に来るまでの道中、少しだけだが、殿下から叙爵が変わることを示唆されたからだ。
殿下曰く、ファーミング侯爵家は廃され、その領地の一部をカンザナイト家に下賜される可能性があるという事だった。
「余り突出するのも敵を作る。その辺りの調整はさせて貰わねばならんだろうな」
「面倒になった…」
ダリヤはそう言って疲れた様子でソファーに腰を下ろす。
部屋の中には家族しかいないせいか、兄はすっかり寛いだ様子だ。
「何度も言うけど、私やサフィの所為じゃないからね。どちらかと言うと兄さんのせいよ」
「分かってる…」
「しかし、今回の王女は久々に強烈だったのぉ…。黒子を入れてからはかなり減っておったのにな」
祖父は不思議そうな顔をしていたが、ルビーには何となく心当りがあった。
というのも、以前お会いした時にクローディア聖下が困惑した顔をしていたからだ。
『どうしましょうルビーちゃん』
『聖下、どうされました?』
『あのね、ダリヤくんのあれね、ちゃんと魅了顔では無くなったんだけどね……、何というのかしら……、色気が無駄に上がったっていうのかしら……、どうしてあんな絶妙な位置に黒子入れちゃったのかしら?』
いわゆる泣き黒子的な位置にあるダリヤの刺青。
お蔭で魅了顔ではなくなったが、無駄に、そう、本当に無駄に色気だけが上がった。
刺青を依頼された職人が泣きながら拒否したのを何とか拝みこんで入れたものだっただけに、職人の意地が見えた気がした。
「しかし何だってギルレイドは王女を会談に連れて来たんだろうな」
「そこよ、サフィ。私達だって来るとは思ってなかったから凄く驚いたわ」
「どうせ王子がクソ王女に押し切られたんだろ……」
「でも、揉めるのが分かっているじゃない」
「一応王女は当事者だし、王子は状況が良く分かってなかったんじゃないか?」
そう言って少し考え込んだダリヤは、不意に眉を寄せた。
「良く考えれば、あんな不慣れそうな第三王子にこんな重要な交渉を任せるのがおかしい。本来なら、カンザナイト商会と既知である第二王子が使者として来た方が話が早いんだ」
「それもそうね……」
しかし現在、第二王子は地方視察の為に不在で、王太子は王太子でセーチェック家とカザン家の対応に追われているという話だった。
そこで第三王子の出番という訳だが、何もわざわざ不慣れな王子を使者に立てる必要は全くなかった。
ミハエルのように交渉に慣れた人間を寄越せば済むのに、ギルレイドはそれをしなかった。
「第三王子に失敗させたい勢力があるってことかしら?」
「そうだな…」
ステラ王女と第三王子アルタイルは第二側室を母に持つ同腹の姉弟だ。
対して我がカンザナイト商会が懇意にしている第二王子は正妃の子どもで、王太子とは同腹に当たる。
腹違いとはいえ兄妹仲は悪くないと聞いていたが、この度第一側室が隠居することになり、ステラ王女の母である第二側室がかなり王宮内でも幅を利かせ始めたらしい。
王宮の勢力図が変わるという事は、それだけ色々と揉めるものだ。
「この件を利用して、第二側室ごと排除したい勢力がいるのかもしれない」
他国の王族であるエメラルド殿下を巻き込んでいる時点で、ステラ王女は後がない状態だ。
だからこそ今回の件を理由に第二側室にも連帯責任を負わせ、血縁者であるアルタイル王子もついでに排除する予定なのかもしれない。
そう考えれば、不慣れなアルタイル王子を送り込んできたギルレイド側の意図も何となく察せられた。
「ステラ王女はやり過ぎたってこと……?」
「俺もそう思う。ただ単に、エメラルド殿下との結婚が嫌で出奔しただけならば、第二側室やアルタイル王子が排除される事はなかっただろう」
だが、彼女はセーチェック姉弟を巻き添えにした。
これがかなりの悪手だとダリヤは言った。
「男爵家程度の家なら何とかなったかもしれないが、相手は古い家柄の伯爵家だ。ミハエルに聞いた話だが、正妃と伯爵夫人は友人らしい」
「……それ、完全に詰んでない?」
「ベルベット・セーチェック嬢が攫われた時点で向こう側は王女の計画に気づいていた可能性があるな……」
「だったらどうして王女の駆け落ち計画を止めなかったのかしら?あっ、もしかして、ベルベットさんの行方を探るために泳がされていたとか…?」
「それもあるだろうが、ギルレイドとしてはニーズヘックに王女を始末させたかったのかもな……」
「ギルレイドにとって一番いい結果は、関係者全員の死というところかの」
祖父の予測は残酷だったが、確かにそれが一番ギルレイドにとって都合が良かった。
「だからってベルベットさんを攫われたままにするなんて……」
「むしろ、せざるを得んかったんじゃろう」
攫われた場所が自国ではなくヴァルテンベルクだった事もあり、あちらは容易に手出しが出来なかった。
それに、既に巻き込まれたセーチェック姉弟を助けたところで面倒が増えるだけ。
それならばステラ王女と一緒に亡くなってもらった方が早いと考えてもおかしくなかった。
そうすれば、全てのことをファーミングの陰謀に仕立て上げ、ギルレイド王家も被害者面が出来る。
死人に口なしとはよく言ったもので、彼らが全員亡くなっていれば、ヴァルテンベルクに全てを押し付ける事が出来たのだ。
婚約破棄の賠償金を出さず、セーチェック家も黙らせる実に良い方法だ。
「エメラルド殿下はいい迷惑ですね」
「だがエメラルド殿下を巻き込んだことで、その計画は全てが裏目に出た……」
更にカンザナイト商会が現場に行き合ったことで事態は予測不能な状態に陥った。
そして全員が死ぬどころか、最悪な形で生き残ってしまったのだ。
しかも証人全員をヴァルテンベルク側が押さえているという最悪な状況である。
だからこそ全ての責任をステラとアルタイルに被せ、第二側室ごと切るつもりではないかと推測された。
「王族怖い………」
「………本当にな…」
全員でため息を吐き、ぐったりとソファーに沈み込む。
すると、それを見計らったように小さく扉が叩かれた。
入室を促すと、満面の笑みを浮かべたミハエルが書類を片手に入ってくる。
どうやらギルレイドとの会談は無事に終わったらしい。
「遅い時間に悪いね」
「いえいえ、ミハエル様こそお疲れ様です」
慌てて迎え入れれば、彼は少しだけ憂いを貼り付けた顔でルビーを見た。
その視線はルビーの頬に向けられている。
「どうやらもう大丈夫のようだね」
「はい。夫人に治癒魔法を掛けて頂いたので…」
「良かった。……では、早速で悪いのだけれど、決まったことを話そう」
そう言って人払いしたミハエルは、少しだけ疲れた顔でソファーヘと腰を落とした。
「まず、これが今回のカンザナイト家に対する賠償だ」
広げられた紙には、かなりの額の賠償金が書かれていた。
地方であれば庭付きの一戸建てが買える金額だ。
だが、これはルビーに対する傷害賠償で、ダリヤへはまた別だと違う紙が出された。
そこにもかなりの金額が書かれている。
一応ダリヤの名目は馬車代。
ここまで来て貰ったその費用という事だ。高い足代である。
「ちなみに治療費として子爵夫人にもお支払いする予定だから、君たちが特に彼女へ支払う必要はないよ」
夫人への治療費は、お高いドレスが買える金額だった。通常の治癒魔法行使の相場の倍ほどである。
「それで、エメラルド殿下の賠償の方は?」
「港町に加えてその近くにある鉱山の採掘権を捥ぎ取った。向こう十年の契約だ」
飛び地である鉱山の領地を貰ったところで管理が大変だ。
だからこそ採掘権にしたのだろうが、十年もあればかなりの収益が見込まれる。
「よく鉱山まで出したな」
「かなりエメラルド殿下がお怒りになったからな」
「そうなのか?」
「ああ、ニーズヘック討伐の英雄を殴るとは何事だと、それはもう…」
温厚な殿下を怒らせたアルタイル王子は、自身の持つ領地の一部を差し出すより他はないほど責められたという。
「向こう側は誰も止めなかったのですか?」
「いや、さすがに想定外だったのか、文官達が焦って止めてたよ」
「ですよね…」
「でも強引に署名させたから」
にっこりと、何でもない事のように言うミハエル。
この人を敵に回してはいけないと心底思った。
「ミハエル、君は今回の件、ギルレイドはどこまで把握してると思う」
「そうだね……、僕の見立てでは七割といったところかな?ギルレイドもファーミングの関与は把握していただろうしね」
「知っていたなら止めて欲しいですよね」
「恐らく知ったのはベルベット嬢を攫ってからじゃないかな。だからこそ、もう王女をニーズヘックに始末させるしか、うちやセーチェック家を黙らせる方法がなかったんだと思う」
エメラルド殿下も言っていたが、王女の護衛にしては人数が異様に少ないのだそうだ。
ギルレイド側が敢えて杜撰な警備をして王女が抜け出すことを促した可能性が大きかった。
「でも、殿下が優秀だった事と、君たちカンザナイト商会が行き合った事で計画は大幅に狂ったわけだ」
だからこそ、王女の持参金だった港町を慰謝料に差し出すしかなかったのだろう。
「なんか、アルタイル王子が可哀想になってきたわ」
「そうだね。彼は完全にとばっちりだしね」
ミハエル曰く、アルタイル王子を今回の使者に立てたのはギルレイド王妃だそうだ。
「王妃様……」
つまり、第二側室を排除したい筆頭である。
予想通りと言えばいいのか、やはり何とも怖い話だった。
「しかし幾ら側室を排除する為とはいえ、今回の賠償はかなり痛手じゃないでしょうか?」
賠償金だけならまだしも、港町と鉱山の採掘権はかなり大きい。
自国を切り売りするようなものだ。
「確かにかなり痛いだろうね。正直、鉱山の採掘権は思ってもみない代償だと思うよ。だけどうちを巻き込んだからにはこれくらい覚悟して貰わないと…」
にっこりと笑ったミハエルの笑みが、内輪揉めは自国でやっていろと語っていた。
ファーミングという弱みさえ無ければ、もっと毟り取っていそうだ。
「でもまぁ、ギルレイドも可哀想だよ。やっとうちと繋がれる婚姻が整ったのに、肝心の王女が出奔。自分だけ消えるならまだしも、高位の貴族家を巻き込んだものだから大変だ。こうなったら全員消えて貰おうと画策したのに、よりにもよってヴァルテンベルクに阻止されてしまったんだ。第二側室に全てなすりつけて王女も王子も排除しようと思っても仕方ない」
こうやって聞くと、ステラ王女はギルレイドにとって疫病神のようなものだ。
思わず同情してしまう。
その上最後の最後でルビーを殴ったことにより賠償が上乗せになったのだから、向こうからすれば踏んだり蹴ったりだろう。
「…向こうの国内も揉めるかもしれないね」
セーチェック家が貴族院を通して王家を批判しているらしい。
暫くギルレイド国内は荒れるだろうとミハエルは推測した。
それを聞いたダリヤは少しだけ考え込むように目を伏せる。
「じいさん、ギルレイドから商会を引く。いいか?」
「わしは引退した身じゃ。お前さんの好きにしろ」
「ダリヤ兄さん、取り敢えず港町の店舗はそのままにしててもいいんじゃない?」
「そうだな…」
ミハエルにも少しだけ意見を聞き、兄は賠償としてエメラルド殿下に譲渡される港町以外にあるカンザナイト商会の撤退を決めた。
念のため父にも手紙を書いて魔空間庫に送ったところ、ダリヤの好きにしていいと返事が直ぐに返ってきた。
それから直ぐにダリヤは机に向かい、ギルレイド支店の統括支配人に手紙を書き始めた。
引き上げる時期や、従業員の今後の対応についてである。
残念ながらダリヤの能力は血縁者にしか使えないので、明日の朝一番でギルレイドに向けて出すそうだ。
「こうしている姿を見ると、ダリヤはもう立派な商会長だね」
ミハエルを放置して仕事をし始めた兄だったが、彼は感心したようにダリヤを眺めるだけで怒ったりはしなかった。
「ところで実は今回の件とは別にルビー嬢とサフィリア君には話があったんだ」
「話ですか?」
「ああ、七年前の件に関しての謝罪を……」
そう言って、ミハエルはルビー達に頭を下げた。
いつも誤字脱字報告ありがとうございます。
個別の返信は控えておりますが、感想も大切に読ませて頂いております。ありがとうございます。