隠者の影
エリックが潜伏先として書いていた狩猟小屋は、森の中心部に近い場所にあった。
途中で打ち捨てられた馬車の車体のみが見つかり、どうやら王女とエリックは馬での移動に切り替えたようだ。というのも、森にあった本来の道はかなり荒れており、馬車では到底進めなかったからだ。
「まだ、馬が通れるだけマシね……」
微かに残る獣道を慎重に進んでいく。この十二年で荒れた道は、ギリギリ馬が一頭通れるほどしか残されていなかった。
殿下の懸念通り、森をよく知らない人間では狩猟小屋までかなり時間が掛かった事だろう。
「それにしてもさすがですねルビー嬢。この森をここまで安全に通行出来るとは思いませんでした」
「ありがとうございますスチュアート様。でも、祖父に比べれば私の遮断空壁はまだまだなんですよ」
「祖父というと、シトリア・カンザナイト殿ですね?武勇伝は今でも騎士団の伝説ですよ」
シトリアが準男爵を賜るに至った経緯のことだ。
冬の山で遭難した騎士団一行を救うべく、たまたま行商で居合わせた祖父が単独で雪山に救出に向かった話は、どうやら未だに騎士団でも語られているらしい。
騎士団が消息不明と聞き、祖父は村でありったけの食料と防寒具を買い込み、遮断空壁を駆使して彼らの救出に向かった。
あの時は若くて無我夢中で村を飛び出したんだ…と祖父は照れ臭そうに話していた。
しかし、祖父のその行動のお蔭で、騎士団全員が命を失わずに済んだのだ。
空間魔法しか出来ない祖父であったが、騎士団全員を近くの洞穴に案内するまでは必死で遮断空壁を駆使して全員を守ったという。その後も持っていた食料や防寒具で彼らを助け、実質三日、雪山に閉じ込められた状態で騎士団を守った話は、ルビーにとっても誇らしいことであった。
「私では祖父のように三日三晩の空壁維持は到底出来ません」
祖父は必要な箇所を頑強に、不要な箇所は薄くするなど、空壁を維持するための魔力の使い方が非常に上手かった。
正直、ルビーがあの域に到達出来るのは当分先の事になるだろう。
「本来であれば男爵位も望めたというほどの功績とお聞きしてますが?」
「爵位の代わりに褒賞として王都での商業権を頂戴したと聞いています」
準男爵も断ったらしいが、騎士団長と王弟殿下の強い推薦により叙爵となったそうだ。
だが、そのお陰で祖父は王都で商会を立ち上げる事が出来た。その上、騎士団への納入品など、今でもかなりの優遇をして貰っている。
「そう言えば、最近騎士団で導入された携帯保存食はカンザナイト商会の物とお聞きしましたが本当ですか?」
「ええ。ナッツやチーズの入った物であれば、当会で開発させて頂いた物です」
「やっぱり!あのナッツの入ったやつが凄く美味しいので感動しました!」
スチュアートの嬉しそうな言葉に、近くにいた他の騎士も大きく頷いた。
「俺はチーズ味が最高だと思います」
「…私ははちみつ味に感動しました」
口々に好みの味を熱く語り、そして以前の携帯保存食がいかに不味かったかを語る騎士達は、どうやらかなり食には苦労していたようだ。
以前の携帯保存食は硬パンと呼ばれる非常にパサパサとしたもので、保存を優先するあまり味は二の次とは言わんばかりの酷さだった。
この携帯保存食の不味さに関しては行商をするカンザナイト家の面々もうんざりしており、ルビーとエルグランドでかなり頑張って開発した経緯がある。自分達が美味しい保存食を食べたい一心で頑張ったのだ。
「俺はもう、以前の物には戻れません…」
「そう言って頂けると頑張って開発した甲斐があります」
最初は商会で消費する分しか作っていなかったのだが、たまたま知り合った傭兵達へお裾分けしたところ、そこから一気に問い合わせが殺到した。今では傭兵ギルドにも定期的に納入している人気商品だ。もちろん旅人や猟師など、携帯保存食を必要としている人にも大変好評だった。
「……正直に言えば、もっと早く納入して欲しかったです」
「そればかりは他の商会様との兼ね合いもありますので……」
カンザナイト商会ばかりが優遇されると大きな軋轢を生みかねない。だからこそ、城や騎士団で使用する備品に関しては、複数の商会がそれぞれの得意分野である商品を納入している。
カンザナイト商会が納入しているのは外国産の香辛料の他、石鹸や蝋などの生活必需品が主だった。食料に関しては別の商会が納入先として選ばれており、騎士団の携帯保存食もそこが納品していた。
だからこそ、半年前から売り出されていた携帯保存食も、中々騎士団へと納品されなかったのだ。
しかし先日、たまたまカンザナイトの携帯保存食を騎士団の副団長が口にした事で事態は一変する。怖い顔で携帯保存食を食べきった副団長は、そのまま全種類を大量に買い込み、団長や隊長格に配り歩いたそうである。
結果、騎士団の上役全員の嘆願により、携帯保存食の納入先がカンザナイト商会に変更された。
お蔭でそれまで納入していた商会からは睨まれる羽目に陥ったが、ここまで騎士達が喜んでくれたのなら、睨まれた甲斐もあるというものだ。
それに騎士団への納品物は、そのまま彼らの健康、ひいては彼らの命にも係わってくる。
だからこそ常により良い物が求められているとも言えた。
そんな彼らの食べる物を良くしようという努力を怠った以前の商会にも問題があると思う。
「今はお湯を注ぐだけで出来るスープを開発中です」
冬の遠征は辛いとエミーリャが愚痴っていたので、ローズ義姉を中心に、頑張って開発中である。出来れば本格的に寒くなるまでに完成させたい。
「それは凄く楽しみです……、おや…?」
嬉しそうに話していた騎士達の顔が一斉に変わった。
前方から合図が上がったのだ。
「どうやら、そろそろ狩猟小屋が近いようです」
先ほどまでの軽い様子が嘘のように、真剣な顔で周りの警戒に当たる。
その切替の速さは、流石は精鋭とされる近衛騎士である。
「どうやらあれがそうみたいですね」
道の先、少し開けた場所に立った丸太小屋。
周りを見る限り特に魔獣の気配もなく、騎士達は静かに馬を降りて小屋へと近づいていく。
「ルビー殿はこのまま空壁を維持して下さい」
小さく頷き、ルビーは馬に乗ったまま、遮断空壁の範囲が騎士達から外れないように注意した。
静まり返る小屋からは何の音も聞こえない。
遠くの方から、森を闊歩する魔獣の咆哮だけが時折木霊する。
その不快な咆哮が聞こえるたびに、微かに震える指をギュっと握り閉めた。
一番安全な場所にいるルビーがここで怖がってはいけない。
「突入!」
中の様子を窺っていた騎士から手が上がると同時、殿下の声が辺りに木霊した。
大きな盾を持った前衛の騎士が扉を壊すように中に入る。
特に中から誰かが応戦してくる様子はなく、騎士達は次々と小屋の中へと雪崩れ込んで行った。
そうして暫くすると、微かに何かを話す声が小屋から聞こえてきた。
だがルビーのいる場所からは中の様子は窺えない。
「ルビー…」
必死に小屋を見つめていると、サフィリアとクルーガがルビーの下へとやってきた。
「大丈夫だった?」
「ええ、サフィやクルーガも大丈夫そうで安心したわ」
特に変わった様子のない二人に安堵していると、不意に小屋から騎士達が出て来た。
そしてその騎士達に守られるように、覚束ない足取りの女性が一人小屋から出てくる。
「あの方が王女殿下かしら……?」
夜会帰りのような豪奢なシャンパンゴールドのドレスを着た女性は、酷く衰弱しているように見えた。元は綺麗にセットされていたであろう髪は酷く乱れており、傍目から見ても非常に痛々しい様子だ。
とても今回の騒動を引き起こした我が侭な王女殿下には見えない。
それに何より、彼女はミレーユとは似ても似つかない顔立ちだった。
ミレーユはどちらかと言えば可愛らしい顔立ちだが、保護された女性はすっきりとした面立ちの美人である。
「ルビー嬢!」
出て来た女性と小さく言葉を交わした殿下が、慌てた様子でルビーを呼んだ。
恐らく女性の面倒を見て欲しいのだろう。
殿下の言葉でルビーの存在に気付いた女性が、目に見えて安堵しているのが分かる。
「お呼びですか?」
馬から降り、急いで殿下の下へと走る。
そして、走りながら魔空間庫から毛布を取り出した。
「取り敢えずこちらを…」
そっと女性の方に毛布を掛けると、女性がホッとしたように頷いた。
乱れたドレスのままで男性に囲まれるのはやはり辛かったのだろう。
「彼女はベルベット・セーチェック嬢だ。我らが追っているエリックの姉にあたる」
「では、行方不明だったという?」
ルビーがその言葉を言った瞬間、ベルベット嬢が慌てた様子でエメラルド殿下に縋りついた。
「弟は何も悪くないのです!エリックはわたくしを人質に取られ、仕方なくこのような事を!」
「ベルベット嬢、それでエリックは今どこに?」
「分かりません……。ただ、わたくしをここで解放することを条件に、姫様達をこの森を抜ける場所まで案内すると……」
こんな場所で女性を放置するなど正気の沙汰とは思えないが、セーチェック姉弟はその条件を飲むより他に術がなかったのだろう。
エメラルド殿下が追ってくるのを知っていたとしても、それまでに姉が無事であるかどうかは賭けだったに違いない。そして恐らくそんな賭けに出る必要がある程に、事態は切迫しているという事だ。
「貴女は今姫様達と仰いましたが、エリックとステラ王女の他に誰が?」
「わたくしを攫った男達が三人ほどおります。本名かどうかは分かりませんが、その中の一人、主犯格の男は仲間内からヒューミットと呼ばれていました……」
その男達がベルベット嬢を誘拐した者達であり、今回の件の首謀者、もしくはその手駒だと思われる。
「ヒューミット……」
どこかで聞いたことのある名前だった。
だが、このような状況でその男が本名を名乗ったとは思えない。
「ルビー」
「サフィ?」
考え込むルビーの下へとサフィリアが歩いてくる。
どうやら近くで話を聞いていたのか、彼は酷く苦い顔をしていた。
「殿下、ヒューミットというのは、商人の間で使われる隠語です」
「隠語?」
その言葉にルビーは慌てて顔を上げる。
「ハーミット?!」
「そうだよ、ルビー」
それは隠者を表す古い言葉で、相手の商会に潜り込み、特許や新商品などの秘密を持ち出す間諜を表す業界用語だ。
「商売の場では、密偵や間諜がいるという意味で使われます。そして恐らく、その言葉を使ったということは、主犯は商人である可能性が高いかと」
商人であり、この森に詳しい者。
これだけ聞けば益々兄のダリヤが怪しく感じる。
もしルビー達がこの場に居合わせていなければ、ダリヤが疑われてもおかしくない状況が揃っていた。
非常に嫌な展開だ。
全ての状況がダリヤを犯人に仕立てあげようとしているように思えてならない。
幸いなのは、ダリヤと知己であるエメラルド殿下が捜索に当たっており、彼がダリヤの関与を全く疑っていないことだ。
「どちらにせよ、王女の単独犯ではない事が判明したな……」
面倒な事になった………と、殿下が小さく眉をよせる。
王女殿下の暴走による駆け落ちであれば、まだ話は単純だった。
しかしこの状況では、王女殿下も誰かに騙されている可能性が非常に高い。その上、その件に我が国の人間が係わっている可能性が出て来たのだ。
殿下が頭を抱えたくなるのも仕方ない。
本来であれば可愛い王女と婚約の為の初顔合わせをする予定だった殿下を思うと、若干、いやかなり可哀想な気がしてくる。
それでも落ち着いて状況を整理した殿下は、直ぐに王女殿下を追う事を決定した。
「ベルベット嬢、貴女をこれから本隊へと送らせて頂きます。弟君のことは私達に任せなさい」
「………どうぞ、どうぞ弟を宜しくお願い致しますっ……」
自分だってボロボロなのに、弟の無事を祈るベルベット嬢は気丈だった。
貴族令嬢が数週間に渡り誘拐されていたのだ。彼女は今後、良縁には恵まれないだろう。それどころか、修道院に入る可能性すらあるのだ。
それなのに、必死で弟を心配する様子は非常に健気で、殿下も彼女の目を見ながら励ますように頷く。
「必ずやエリック殿は無事に保護しましょう」
殿下の命で、数人の騎士が彼女の護衛として本隊へと戻ることになった。
ルビーもベルベットの安全の為に同行した方がいいかと思ったが、馬車一台分ほどの範囲なら、騎士の一人が遮断空壁を使えるらしい。
相談の結果、このままルビーも殿下達と共にエリック達の後を追うことになった。