変わっていく関係
ステフィアーノを見送った倉庫街からの帰り、隣を歩くサフィリアの顔を見ながら、ルビーは小さく頭を下げた。
「サフィ兄さん、心配かけてごめんね」
「いや、俺もいきなり怒鳴って悪かった」
言いながら、ルビーの頭を優しく撫でてくれる手はいつも通り優しいというのに、何故か未だに少しだけ彼の顔が険しい。
何かを思い悩んでいるように、小さく不機嫌そうに眉を寄せている。
「怒ってる?」
「怒ってないよ」
「でも…」
だったらどうしてそんな顔をしているのか。
そう言いたいのに、言葉はそれ以上出てこず、ルビーは小さく下を向く。
そうすると、ルビーの異変に直ぐに気付いたサフィリアが、困ったように苦笑を漏らした。
「ごめん、機嫌が悪いのはルビーのせいじゃないから…」
「サフィ兄さん…」
「ちょっと、自分が甘かったなって自覚しただけ。だから、気にしなくていいよ」
「うん…」
「よし、この話はこれでおしまいにしよう。それより、読書サロンについて詳しく聞かせてくれないか?面白そうだ」
気を取り直してやりたい事を話すと、逆にサフィリアからは次々と問題点を指摘された。
「子どもが読める環境を作るのはいいけど、静かに本を読みたい人もいるんじゃないか?」
「そうなのよね。やっぱりスペースを区切るしかないかな?」
でも、同好の士を見つけたいという人もいるだろうし、本について語り合いたい人もいる。
そういう人を繋ぐために開くサロン故に、余り個人個人でスペースを区切りたくない。
「静かに本を読みたい人向けの個室を用意するのはどうだろ?」
「それも考えたんだけど、そうなるとかなり広いスペースがいるわ」
広い談話スペースに加え、更に個室を用意するとなるとどれだけの広さが必要か分からない。
物件探しだけでもかなりの手間になりそうだ。
「そうだっ!あそこはどうだ、ルビー?!」
「あそこ?」
「君とアルビオンの新居予定だった屋敷だよ」
「あっ!それ、いいかも!」
あの場所なら商業通りからも非常に近いし、馬車止めもある。中庭にもテーブルを置けば花を見ながらの読書も出来るし、何より二階には五つほど部屋があった。改装して区切れば、それなりの個室数を確保できる。
「一階は開放的なサロンにして、二階は個室にすればいいわね」
それに何より物件探しという手間をダリヤに掛けさせないで済む。
「父さんにお願いしなきゃ」
読書好きの父も利益が見込めるなら反対はしないだろう。
そうルビーは確信する。
それに、あまり良い思い出のない場所を素敵なサロンに変えられるなら、全て吹っ切れるような気がした。
「王都に帰るのが楽しみになってきたわ」
婚約破棄があってから、出来れば叙爵まで帰りたくないと思っていたが、今はやりたい事がたくさん出来た。
忙しいと嫌なことも直ぐに忘れると聞いたが、本当にそうだと思う。
彼らのことを思い出す暇もないくらい日々を楽しく過ごせばいいのだ。
「だけど当面は目の前のことに集中しなきゃね」
「ケルビット領で何か分かるといいんだけどな…」
「そうだサフィ兄さん!実は読んで欲しい本があるの」
先ほど購入した『真実の愛』を渡せば、途端にサフィリアの顔が曇った。
「………凄い題名だけど?」
「あ~、えっと…、真剣に読むとかなり精神力を削られるからお勧めしないんだけど、最後の話に気になる描写があって…」
「気になる描写?」
「うん。恋した相手の持ち物を盗んで、それにおまじないを掛ける話なの」
内容はちょっと怖いけど、その描写を読んでダリヤの呪いの話を思い出したといえば、サフィリアも察してくれた。
「分かった。取り敢えず読んでみるよ」
「宜しくね。あっ、流し読みで大丈夫よ?ちょっとだけ怖いから…」
「恋愛小説なのに?」
「……この本、かなり侮れないから心してね…」
「わ、分かった…」
言いながら微妙な顔でサフィリアは魔空間庫に本を放り込む。
「さて、クルーガ達も心配しているから急ごう」
傾きかけていた夕日が、かなり沈み込んでいる。
「……怒られるかしら?」
「ちょっとだけ覚悟した方がいいかもね」
「…うっ…」
ちょっと出掛けてくるといって数時間も倉庫に篭っていたのだから、心配されて当然だ。
ここは素直に謝った方がいいだろう。
「これに懲りたら、今度からはちゃんと連絡するんだよ」
「はい…」
素直に頷くと、“俺も一緒に謝ってあげるから…”と優しく言ってくれるサフィリアに小さく頭を下げた。
「いい天気で良かった」
「そうね。これなら夕方にはケルビット領に入れそうだわ」
ベルクルトでクルーガ達と別れ、ルビーとサフィリアは二人でケルビット領最大の街に向かっている。
二人だけなので馬車ではなく馬を借りて行くことにした。
ルビーも馬に乗れるのだが、サフィリアの主張により一頭の大きな馬に二人乗りしている。
サフィリア曰く、この大型馬は軍馬にも採用されるほどの馬力を誇るため、一度乗ってみたかったらしい。
ルビーとの二人乗りは大変じゃないかと思ったが、乗りたかった馬に乗れたとサフィリアは朝からご機嫌だ。
『いいですか、お嬢。坊ちゃんから変なことをされたら直ぐにダリヤ坊ちゃんに連絡するんですぜ?』
馬の扱いが上手いサフィリアを信用しているので落馬の心配はないと告げれば、困ったようにクルーガは黙り込んだ。
そして何かをサフィリアに目配せしただけで、二人を送り出してくれたのだ。
「そう言えば本はもう読んだ?」
「ああ、ちゃんと全部読んだよ」
「全部?」
どうりで朝眠そうに起きてきたはずだ。
「四つ目だけで良かったのに…」
「いや、でも気になるだろ?」
「確かに………。それでどうだった?」
「ルビーが言うように、あのおまじないの描写は気になるね」
「でしょ?」
相手の持ち物に掛けるというのがどうにも狂愛の呪いと似ている気がするのだ。
「……色々考えたんだけど、もしかして兄さんに呪いを掛けた相手も、まさかそれが狂愛の呪いだと知らなかった可能性はないかな?」
「どういうこと?」
「つまり、術者はただのおまじないのつもりだったのに、結果としてそれが狂愛の呪いという恐ろしい結果になってしまったという事はないだろうか?」
「…それは有りえる話だわ……」
アリューシャも、そしてダリヤでさえもユリーナは呪いを掛けるような人物ではないと言った。
もしユリーナが犯人の術者であると仮定して、彼女はそれを“狂愛の呪い”ではなく全く違うものだと思っていたら?
「呪法の詳細が分かっていない以上、呪いとは知らずに実行している可能性があると思わないか?」
「そうね……。この本のように、たまたま見たことのあるおまじないを実行しただけだったら手がかりなんて見つかるはずもないわ」
魔法書の類ではなく、ただの恋愛小説に載っていたおまじないだった場合、調査をした人が気付かなくてもおかしくはない。
「ユリーナ様の持ち物、特に本を調べることが出来れば、原因が特定出来るかもしれないわね」
ユリーナの遺品は全てケルビット伯爵が持ち帰っている。
それをもう一度調査できれば何かが分かるかもしれない。
「兄さんとアリューシャ様に手紙を書きましょう」
「そうだね。特にアリューシャ様なら、ユリーナ様の読んでいた本を覚えている可能性もあるだろう」
善は急げとばかりに、道の脇の大きな木の横で馬を下りる。
ついでに休憩をかねて少し早めの昼食を取ることにした。
布を敷き、そこに今朝用意して貰ったお弁当を広げる。
ルビーが昼食の準備をしている間に、サフィリアは手際良く手紙を書き終えていた。
「昼過ぎには兄さんも一度確認してくれると思うよ」
これで少しでも進展してくれると嬉しい。
「ルビー、この本は返しておくね」
「別に持っててくれてもいいのに」
「いや……、なんかこう、男として最後の話は怖くて持っていたくないというか……」
「あはは、サフィ兄さんでも怖いことってあるのね」
「何を言ってるんだよ。世の中怖いものだらけだよ」
ため息を吐きながら、サフィリアはルビーへと本を渡す。
「ところで、他の話はどうだった?私的にはかなり強引過ぎて突っ込みどころが満載だったんだけど」
「確かに作者に物申したい場面ばかりだったね」
苦笑を浮かべながら、それでも少しだけ思い出したように言葉を続ける。
「でも、二番目の話は何となく男の気持ちも分かるなって思いながら読んでた」
「二番目って、あの結婚式場から連れ出すやつ?!」
まさか、あの突発的な花嫁強奪からの逃避行にサフィリアが共感するとは思わなかった。
正直、かなり意外だ。
「残された新郎には申し訳ないと思うんだけど、連れ出した男もかなり切羽詰まってたんだろうな~て思ってさ…」
「切羽詰って……?」
「最初は諦めるつもりだったんだと思うよ。でもさ、多分、ウェディングドレス姿の彼女を見ちゃったら我慢出来なくなったんだろうなって……。どうして隣にいるのは自分じゃないんだってね」
「そんな想い、したことあるの……?」
もしかしたらサフィリアはそんな経験があるのかもしれない。
何故か、それを想うと胸がギュッと苦しくなる。
「そんな顔しないでルビー」
「でも……」
「ただちょっと、ルビーがアルビオンと結婚式を挙げていたら、もしかしたら自分も同じことをしたかもしれないって考えただけだから…」
「え?」
言われた事の意味を考える。
もしかして、サフィリアはアルビオンの事が嫌いだったのだろうか?
「変な顔してる…」
そう言ってルビーの頬を手でゆっくりと包み込んだサフィリアは、蒼玉の瞳を少しだけ揺らめかせながら、小さく息を吐き出した。
「俺、父さんの養子を抜けた」
「養子を抜けたってどういう事?!どこかに行くの?!」
慌てて頬を撫でる腕に縋りつけば、サフィリアはゆっくりと首を振る。
「どこかに行くためじゃなくて、ずっと一緒にいるために養子を抜けた」
「一緒にいるために……」
それは今と同じじゃないのか?
そう思ったけれど、もしルビーがアルビオンと結婚していたら違っていただろう。
それと同じで、サフィリアだって結婚すれば一緒にいられない。
けれどサフィリアはずっと一緒にいるために養子を抜けたと言った。
「ルビー……、俺は君の兄をやめたいんだ」
はっきりとルビーを見つめてそう言ったサフィリアは、今まで見たことのない顔をしていた。
家族ではない女性を見つめる瞳には、微かな情欲が滲んでいる。
「ずっと好きだったんだルビー」
「サ、サフィ兄さん……」
「これからはサフィと呼んで欲しい…」
言いながら、ゆっくりとルビーの背に腕を回したサフィリアは、丁寧な仕草でルビーを抱き寄せた。
「ルビーが幸せならそれでいいと思ってたんだ……。でもダメだった。君がアルビオンに別れを告げられて悲しんでいる時も、俺は嬉しくて仕方なかった」
「サフィ……」
「酷い兄だった……、ゴメン……」
けれど酷いのはルビーも一緒だ。
サフィリアの気持ちを知らなかったとはいえ、いつもアルビオンのことを話していた。
ダリヤやエルグランドは余り話を聞いてくれないものだから、いつもサフィリアを捕まえては惚気話を聞かせていた気がする。
「わ、わたしこそ、何も知らなくて……、ずっとアルビオンの話を……」
「ルビーは知らなかったんだから気にしないで」
「でも…っ」
「だったら、これからは俺のことを男として見て欲しい」
「サフィ兄さん…」
「サフィだよ」
そう言って小さく苦笑を漏らしたサフィリアは、ゆっくりと抱きしめる腕の力を抜いた。
そして名残惜しそうに腕を離すと、その手でそっとルビーの髪を撫でる。
「本当はこんなに早く気持ちを言う予定はなかったんだけど、昨日会った彼を見ていたら焦ってしまったんだ」
「ステフ様のこと?」
「そう……」
小さく呟いたきりサフィリアは黙り込んだ。
そんなサフィリアをルビーはじっと見つめる。
小さな頃から常に傍にあった存在。
彼がルビーの事を想ってくれているなんて気付きもしなかった。
けれど、それが嫌だとか不快だとは決して思わない。
ただ、ルビーの心を占めるのは戸惑いだ。
それに、それとは別に、嬉しいという気持ちも確かにあった。
「サフィ兄さん…、ううん、サフィ…」
彼の望むように名を呼べば、サフィリアは嬉しそうに顔を綻ばせる。
「えっとね…、今はまだ、そういうことを深く考えられない……」
「うん」
「でも、いつかはちゃんと答えは出すし、サフィにぃ、えっとサフィとのことも前向きに考える…」
前向きという言葉に、サフィリアの目が嬉しそうに輝いた。
「ありがとうルビー。……つい言ってしまったけど、答えを急かすつもりはないんだ。俺も今まで通りルビーとは過ごしたいと思っている。……ただ、もし、俺のことを男として見られないなら、その時はちゃんと言って欲しい。……時間は掛かると思うけど、兄に戻るから」
「サフィ…」
「俺はルビーが幸せならそれでいい。もし違う人を選んでも、結婚式で攫ったりしないよう頑張るから…」
いざとなったら兄達に止めて貰うと言い切ったサフィリアは、笑いながらゆっくりと立ち上がった。
「さて、お腹も膨れたし、そろそろケルビットに向かおう」
「そうね……」
手際よく広げていた敷布や昼食を片付けると、サフィリアが馬を引いてきた。
「お手をどうぞお嬢様」
「……ありがとう」
サフィリアの手を借りて馬に跨ると、直ぐに彼も後ろへと乗ってきた。
そして手綱を引き、ケルビットへ出発する。
穏やかな街道を進んで行くのは先ほどと同じなのに、妙に背中のサフィリアを意識して落ち着かない。
彼は今どんな顔で後ろにいるのだろうか?
先ほどまでは何とも思わなかったのに、サフィリアの体温を背中に感じてしまう。
「もしかして緊張してる?もっと力を抜かないと疲れるよ」
「……だって…」
意識してしまって、気軽に寄り掛かれなくなってしまった。
「変なことするつもりなら一昨日の晩にしてるから安心して」
「別にそれを疑ったわけじゃ……」
言いながらルビーは一昨日の夜のことを思い出した。
あの時は酔った勢いで同じベッドで寝たのかと思ったが、このサフィリアの口調を聞く限り確信犯に思える。
「ねぇ、サフィ」
「なに?」
「……一昨日の晩、酔ってたわけじゃなかったのね?」
「え、あっ、いやその……、あれはちょっとした出来心というか、アリューシャ様との仲を疑われない為というか……」
しどろもどろに言い訳をするサフィリアの言葉によると、アリューシャとの仲を画策しようとした使用人に見せ付ける為だったそうだ。
「………分かった…」
サフィリアとアリューシャの仲を疑う訳じゃないが、妙に胸がムカムカする。
知らずにのんびり寝ていた自分に嫌気がさした。
「次からはちゃんと言ってね」
「分かったよ」
「それと、勝手にベッドに潜り込むの禁止だから」
兄と思っていたから許していたが、これからはそういう訳にはいかない。
「……ごめん、今度からは確認してから潜り込むね」
「そういう問題じゃないからね!」
少し拗ねながらそう反論しつつ、ふと、ルビーは違和感に気づいた。
ルビーの気持ちを優先して急かさないと言っていた割に、どうにもサフィリアの口調が今までと違うような気がするのだ。
何というか、サフィリアのことを男として意識させるような事を言っている気がする。
そしてルビーは思いだす。
サフィリアは面倒な交渉を纏めるのが得意だったことを。
アルビオンに婚約破棄の書面を用意させる時もそうだった。
わざわざ真実の愛を強調することで、アルビオンに自らの不貞が原因だと書面に残させた。
サフィリアは昔から言葉巧みに相手を誘導するのが本当に上手かった。
もしかして、いや、もしかしなくてもルビーはその話術に嵌っていたりしないだろうか?
そう思って恐る恐る後ろを振り返ると、にっこりと機嫌の良さそうなサフィリアと目があった。
深い海を思わせる蒼眼が、じっと獲物を捕らえるようにルビーを見ていた。
「無理強いはもちろんしないけど、本気で口説かせて貰うから覚悟してね、ルビー」
これ、もう逃げられないんじゃないかと、ルビーは本能的にそう思った。
いつも感想や誤字脱字報告をありがとうございます!