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神崎さんは約八年前からこの高校に存在していた──。
その情報に、僕は驚愕していた。
八年。
もし、彼女が教諭という役職ならば、特例でない限りこの在籍年数は長い。かといって用務員だとしてもこの年数は考えられない。そして、学校に棲み付いている説も、よくよく考えてみると不法侵入などにあたるはずであるから、そんなものを学校側が容認する訳はないはずで……。
…………。
やはり、氷室先生が言うように『お化け』なのだろうか。
……いや。
そうと落ち着くにはまだ考慮の余地がある。
特例であれば教諭として八年の在籍どころかそれ以上の在籍は可能であるし、用務員であれば正規採用の場合は終身雇用も可能だ。そして学校に棲み付いてる説は──学校側が容認しているのであれば可能だと言えなくもない。
どれも全くの不可能というわけではないである。
『一般的に』という許容範囲ライン、それを越えれば──許されてしまえば可能なのだ。
まぁ。
かといってそんなに軽々しくと越えてしまえるような、許されてしまうようなラインでは無いのだけれど。
「あっ、らぶちゃん発見!」
遠くから声がして、そちらを見ると、数メートル先の廊下から、今まさに僕の頭をいっぱいにしている人物がこちらを指差していた。
見つかった。
……いや、別に逃げていたわけでもないんだけど。
彼女はダッシュで僕のところへ来て例によって例のごとく、僕の首へとその白く細い腕を掛けてきた。ノーマルでの身長差があまり無いので、ヒールを履いている彼女の方がその分目線が高い。ってかヒール履いてダッシュする人、初めて見たよ。
「なーにしてんのー?」
テンションがやや高めの抑揚でそう訊いてくる神崎さん。
なにか良いことでもあったのかな。
「控え室に戻る途中ですが」
実はつい先程で午前中の授業を終えたので、僕は社会科教員室に退却しているところだったのだ。
「ん、そか。で、お昼は?」
「これからです」
「なに? 持ち弁?」
「持ちです」
「よし、んじゃ、取りに行こう!」
「何事ですか」
「食事だよ。せっかくだし、一緒に食べようぜっ」
…………男前な誘い方だなぁ。
「分かりました」
僕は神崎さんを伴って社会科教員室へ戻り、教材を置きつつ弁当を取った。そして、「中庭で緑を眺めながら食べたい」という神崎さんの希望で、A棟(職員室や図書館のある校舎)とB棟(生徒の教室がある校舎)の間にある中庭、その藤棚の下で弁当を広げることになった。
日陰が涼しい……。
「てかさー、その敬語、直してくんないのー?」
切り株を模したテーブルに座りながら神崎さんが言う。
この『テーブルに座りながら』というのは言い間違いなどではない。
マジでテーブルに尻を置くんだよ、この人は。
「直しません、と十五年前に宣言したはずですが」
「え? あれって継続してんの?」
「こればかりは譲れませんので」
「頑な……っ、強情か!」
「なんとでも」
「………………」
神崎さんが黙ったので、僕はお弁当に箸をつけることにした。まずは卵焼きを箸先で切って半分ほおばる。続けて、ご飯もひとすくい口にいれる。咀嚼しながら神崎さんを見ると、食事をする様子もなく、何故か──僕を見ていた。
「…………食べないんですか?」
口の中のものを飲み落としてから訊く。
さっきから僕を見るばかりでお弁当らしきものも広げる様子がない。と、言うか何も持ってる様子が無いんだけれど。
「──そんなに大したことしてないんだけどな」
僕の疑問を無視して神崎さんが言う。
「…………」
今度は僕が黙る番だった。
彼女が何を示唆して言っているのか僕には分かるからだ。
「らぶちゃんがアタシに敬語使うようになったのって在校時……三年生の後半からだよな。それまでふつーだったのにさ」
「……………………」
「タイミング的には──《あれ》以降だよな」
「………………………………」
僕は黙殺するように弁当の中身を口に運んだ。
出来れば蘇りかけている記憶の方も黙殺したかったが、脳ミソの方はそうはいかなかった。
十五年前。
僕は──
──自殺志願者だった。
「──パンツ見えそうだよ神崎さん」
急に聞こえたそんな声に、僕の脳ミソは十五年前へのタイムスリップを止めた。
……あぶない……。
そのまま思い出していたらあの時の感情に、取りつかれて巻きつかれるところだった。
「見えそうってことは見えてねぇってことだろ。はん、アタシの計算じゃー、この体勢でその位置からパンツが見えるわけねーのよ」
「そんな計算してたんですか」
罪作りな計算である。
「らぶちゃん先生、ツッコミ早いっ」
「てゆーかクール!」
三人の女子生徒はきゃらきゃらと笑う。
「先生、あたしたちも一緒にココでお弁当食べてもいい?」
その中の一人がお弁当を手に提げて見せる。
「……あー、神崎さんが構わないなら……」
僕はチラリと神崎さんを見た。
神崎さんに誘われて僕はここに居るわけだし、この場の主導権は神崎さんにあると思う。
「ん? おぉ、構わんぜー、アタシが座ってる位置は譲らないけどなー」
僕の視線を受けて、神崎さんはそう応じた。
「やたっ! じゃ、あたしはらぶちゃん先生のとなりっ!」
最初に声をかけてきた子が僕の隣を陣取る。
「あっ、ちょっ! ぬけがけインチキっ!」
「早い者勝ちだもーんねー♪」
「えぇー?」
三人はわいのわいのとしながらもそれぞれ座って落ち着き、お弁当の包みを開いていった。
…………若いもんはええのう。
「おい、顔がじじいになってんぞ」
「それ、他に言い方ありますよね」
本当に口が悪いなぁ……。
「……孫を見守るじじい?」
「訂正して悪化しますか」
なんて大惨事だろう。
この人……僕をツッコミ疲れさせるつもりじゃなかろうか。
「…………らぶちゃん先生と神崎さんて仲良いよね。付き合ってるの?」
僕から一番遠くに座ったメガネの子──小野寺寧子が何気なくそんなことを訊いてきた。
「ちょっ、寧子ってば直球!」
僕の隣に座った雲野真白が慌てる。
「寧子ちゃん、気になること直ぐに聞いちゃうよね……」
二人に挟まれた真ん中で晴宮文が呆れたように言う。
「え……二人とも気にならない?」
小野寺は雲野と晴宮の二人を見た。
「や、まぁ……」
「気にはなるけどさ……」
三人は一拍置いてから、そろって僕を見た。
好奇心に満ちた目だ。
「付き合ってないよ」
僕は否定する。
「え、そうなの?」
神崎さんがとぼけた。
「…………………………」
…………そういうこと言うとどうなるか分かっててやってるよねこの人。
あぁ……ほら、もう……女子生徒が色めき立っちゃったよ……視線が眩しい……っていうか刺さって痛い。
「…………神崎さん、なんでもかんでもふざけていたら、いつか痛い目みますよ?」
「痛い目って?」
「貴女が痛いと思うような羽目です」
「え。やだ」
「なら自粛して下さい」
「う~………」
「自粛、して下さい」
「……分かったよ」
しぶしぶ、といった感じだったが、取りあえずは返事を貰えた(言質を取った)のでよしとする。
「神崎さんて、意外と素直なんだね」
晴宮がコロッケを口に入れながら言う。
どうやら興味が逸れたらしい。
「意外とってなんだ、意外とって。アタシは素直だっつの」
腕を組んで「不服だ」と意思表示する神崎さん。
「え、でもさっきらぶちゃん先生に不満そうにしてたじゃん」
タコさんウインナーを箸でつまみ上げながら言ったのは雲野だ。
「あれはらぶちゃんが偉っそう~に言ったからムカついたんだ」
つん、とそっぽ向く神崎さん。
「それを人はひねくれと言う……」
ぽそりと呟くように小野寺がもらす。
「おいそこ聞こえてるぞ」
神崎さんが大人げなく反応する。
そんな彼女たちのやりとりを見て、僕は知れずため息を吐いた。
なんとかそっち(恋愛)方面の話にならなくてよかった。
僕の場合。
一般的に『青春』と呼ぶそれは──
『青』と言うよりは『黒』で。
『春』と言うよりは『冬』で。
──しかないのだから。