2、魔王は魔族に旧帝国民の奴隷化をやめるように説得する
ボコボコッと白い気体が膨れ上がる。そのグロテスクな光景から女魔人のサーシャは急いで、距離を取る。
「グラヴィデス様……?」
サーシャの艶やかな唇から独り言が漏れた。最凶の魔王こと・グラディヴィス。かつてサーシャはこの魔王に敵対したことがあった。
『私の奴隷にしてあげるわ。グラヴィデス』
だが、サーシャは敗れた。グラヴィデスとの直接戦闘において、剣技に後れを取ったのだ。
『そなたは強い。殺すには惜しいので余の嫁となり、部下となれ』
それは愛の告白でもあり、サーシャが魔王第一の部下となった瞬間でもあった。もちろん、サーシャは受け入れた。それから数百年が立つ。
サーシャは後退すると、ボコボコと大きくなっていく白い気体を心配そうに見守る。
「これは……何が起こっているというの?」
千年生きた女魔人・サーシャであっても今回の例ははじめてだ。今までも霊力の強い人間の魂をグラヴィデスは食らってきたが、こんなことにはならなかった。
「……」
呆然となる魔族たちを尻目に女帝アンジェルネは笑みをわずかに浮かべる。帝王教育を受けてきたアンジェルネにはわかる。これは秘術・『魔王食い』だ。大賢者ヤ―ゼンハイクトといえば、神界や精霊界に出向いたほどの規格外の賢者。その子孫の一人・青年・ルシアスが秘術・『魔王食い』の継承者であり、三千年前の大賢者の贈り物というわけだ。
ルシアス本人は知らかっただろうが、両親のどちらかは一族の秘伝として知っていたはず。女帝は笑み、内心で魔王と女魔人・サーシャを愚弄する。
(歴史を知らないからこういうことになるのよ。お馬鹿さん)
白いボコボコが弾け飛び、強烈な光が十字架の中央を照らし出した。
そこに現れたのは魔人だった。魔族たちが一瞬、安堵の息を漏らす。だが、それがどよめきに変わるのに時間はかからなかった。
「さ、さっきの人間だ!」
「魔王様は、魔王様はどちらにいらっしゃるの!」
悲鳴にも似たどよめきが魔族たちを覆う。サーシャが黒い翼をはためかせ、謎の魔人に近づく。
「姿かたちは違いますが、魔王様でございますよね?」
「……違う。我が名はルシアス。アプリオット村の羊飼いにして、新たなる魔王である。俺を崇めろ、サーシャ」
黒かった髪は銀髪に、たゆたう瞳は紫色に、その瞳は底冷えするようにサーシャを見る。ルシアスは空中に浮遊しており、邪悪なる黒い翼がバッサバッサとはためいている。周りには銀の粒子が舞っていた。
俺の名はルシアス・イオケイス・ヤ―ゼンハイクト。新しい魔王である。俺は目の前の妖艶な女性を睥睨する。俺の妻の一人にして、サーシャ・ギュラテウス。さらには最側近でもある優秀な女だ。
さらにサーシャに小脇に抱えられているのが、女帝・アンジェルネ。敵対する部族を容赦なく叩き潰し、周辺諸国を併呑していった若き女帝にして、残忍残虐な冷血女だ。
女帝アンジェルネは民には重税を課し、民からは残虐少女帝と畏怖と嫌悪を込めて、呼ばれている。
俺はサーシャを見る。俺はグラヴィデスの記憶を受け継いでいるので、サーシャの弱点は知り尽くしている。直接戦闘に弱く、得意なのは第一等級魔法である。それと、偵察・監視が彼女の主な仕事である。かつての帝国を分割統治している魔王の配下たちも彼女には逆らえない。
それほどの強者であるサーシャと相対しているのに不思議と緊張はない。
「正確に言うならば、俺は魔王グラヴィデスでも村人ルシアスでもない。二人を融合した新しい生命体だ」
俺の言葉に困惑した表情を浮かべるサーシャ。アンジェルネはにやにやしている。どうも俺の言わんとするところが伝わったらしい。さすがに天才少女は違うようだ。
「では……ルシアス様は魔族を統べて、今まで通りの旧帝国領を統治されるのでございますか?」
「そうだ。今までと変わらぬが、一つだけ変えることがある。人間と魔族の共存を俺は模索する。また、神界・精霊界とも協調していきたい」
「わかったわ。あなたは大賢者ヤ―ゼンハイクトの融和路線を引き継ぐということね。古の大魔術師であり、大政治家でもあったあの伝説のお方の」
我慢しきれなくなったアンジェルネは俺に質問してくる。やれやれ、才気走るなよ、サーシャの面子を潰すな。
「つまりは人間の奴隷は解放する。貴族に関しては元の爵位に就けて、彼らに政治を任せよう」
俺はアンジェルネを無視して話を続ける。こいつらを何とかして、俺の配下にしないといけない。幼馴染のヘレナを奴隷から解放しないといけないのだ。彼女は労働奴隷として、旧帝国、魔王領内に捕らわれているはずだ。
「ど、奴隷を解放……!」
「うむ。気にくわないであろうが、こちらとしても状況は見極めねばならん」
「状況、でございますか」
いいぞ、いいペースだ。サーシャの奴め、俺のペースに呑まれている。この調子で味方につけよう。
「よく考えてみよ。旧帝国を併呑した我らはこれから魔界のみならず、人間界も敵に回すということ。それは避けねばならん。我らは敵に包囲されているも同然。皇族の逃げ込んだイールシュタナ王国など、魔王討伐の勇者を育成している」
サーシャはこくこくと頷く。
「当面の敵はイールシュタナ王国の勇者よ。それ故、人間どもを使う」
「使う?」
「国家経営だよ。国力の増強を図る。金で民を富ませる。軍事力の要・それは経済力だ。金さえあれば、勇者など恐るるに足らん」
「我々は食事を必要としません」
「だが、全くというわけでもなかろう。美食を趣味とする魔族もいる。さらに人間どもの食事。莫大な費用となろう。人間どもを飼うのではなく、使うのだ。奴らの食事は奴らに作らせるのだ」
「た、確かにその通りです。今までの我々のやり方は効率が悪く、生産性が悪かったと言えましょう」
そうだな。やっとわかってくれたか。サーシャが話の分かる奴で助かった。
「皆はどう思う?」
「魔王様に従いますーーー!」
「人間を奴隷にすることの愚を知りました。我々が生き残る道をお示しくださいーーーーっ、魔王様―――――っ」
千を超えるであろう魔族の者たちに今の声が聞こえていたようだ。賛同の声が相次ぐ。魔族も話せばわかるじゃないか。
「さて、サーシャよ。これから部下たちの説得に回ろう。まずはヘレナのところに行きたい。村娘であるが、聡明な女だ。内政官として使いたい」
「はっ、ヘレナ様ならば、ズワルダンの指揮する第十五師団の労働奴隷です。ズワルダンの所に早速行きましょう」
「うむ。参ろうか」
俺は黒い翼をはためかせた。
「俺に続け!ズワルダンをまずは説得する!」
俺の号令に魔族たちがオオオーーーーッと雄たけびを上げる。目指すは魔族第十五師団・ズワルダンのいる都市ベルゴツィオである。千を超える魔族が上空に飛翔。空は魔族で埋め尽くされた。