生きる
「地面が遠いなあ」
俺は建設中の高層ビルの上で深い溜息を吐いた。重い資材を横に置いて足を止め、額の汗を作業服の袖でぬぐった。
「ここから落ちたら助からないな」
もう慣れたはずなのに、下を見ると足が震える。
「そうなれば、楽になれるかな」
心底疲れていた。友達はみんな就職活動をしているこの時期に、親が死んで大学の学費が払えなくなり、工事現場でアルバイトをしなければならない。卒業論文にもまだ取りかかれていない。思い描いていた夢が全て吹き飛び、未来に希望を失っていた。
「空中の牢獄みたいだな。根無し草の俺にぴったりだ」
今にも泣き出しそうな空に囲まれて孤独だった。五十階分も離れている茶色い土を見つめていると、こちらへ来いと招いている気がした。無意識に足が一歩踏み出そうとする。
「どうした。若いの」
背後から声をかけられて我に返った。慌てて後ろに下がり、振り向いた。
「もう休憩時間だぞ。飲むか」
同じ仕事をしているおじいさんが、緑茶の缶を差し出していた。したたる水滴に、思わずのどが動いた。口の中がからからだった。
「頂きます」
おじいさんはむき出しのコンクリートの壁に背中を預けて座った。俺も並んで腰を下ろし、缶を開け、冷たいお茶をのどに流し込んだ。
「苦しそうだな。何かあったか」
おじいさんは雲に覆われた灰色の空を見上げながら缶コーヒーをすすっていた。
「誰だってそう思いますよ。こんな生活」
俺は吐き出すように言った。
「何もかも虚しく思えてきました。今はただ、目先の金のために必死で働いているだけで、その先が見えません。何のために生きているのか分からなくなります。こんな苦労に意味はあるんでしょうか。死んだ方がましかも知れません」
おじいさんは横目で俺を見た。
「苦労は嫌か」
「当たり前でしょう。苦労なんて、誰だってしたくないに決まっています」
「確かにそう思うかも知れないな」
おじいさんは頷いた。
「だがな、苦労や苦痛こそが、生きている証なんだぞ」
「幸せや喜びではないんですか」
「違うな。つらい時こそ、人は生きていると実感する」
「よく分かりません」
俺は投げやりな口調で返したが、おじいさんは気にしなかった。
「『生きる』という言葉があるだろう。日本語では、あれは動詞だ」
「動詞? そうですね、文法の品詞で言えば。それがどうかしたんですか」
「なぜ形容詞でないか分かるかね」
おじいさんは指で空中に『生きる』と書いた。
「『死ぬ』は動きだ。状態が変化する。動いているものが止まったり、立っているものが倒れたりする。だが、『生きる』は違う。何も状態は変化しない。なのに動詞なのはなぜだと思う?」
「生きているものは動くからではありませんか。死んだら動きませんから」
「では、具体的に『生きる』という動きはどんなものだと思うかね」
俺は考えもせずに首を振った。
「分かりません」
どうせこんな会話は短い休憩時間の暇つぶしに過ぎない。つらい仕事のことをわずかでも忘れられるので付き合っていた。
「『生きる』は動詞がふさわしい。具体的な動きがあるからだ。それを思い知ったのは五年前だった」
俺があまり真剣に聞いていないのは分かっているはずなのに、おじいさんは語るのをやめなかった。
「わしの連れ合いは急に亡くなった。心臓発作だった」
俺は口に含みかけていたお茶を思わずごくりと飲み込んだ。
「わしら夫婦には子がなかったので、一人ぼっちになってしまった。二人で小さな店をやっていたんだが、一人では手が足りず、廃業せざるを得なかった。店舗兼自宅は借家だったので解約すると、もうどこへ行ってよいのか分からなかった。わずかな貯金を手に、わしはしばらく旅をしてみることにした」
俺は何か反応した方がよいのかと迷ったが、おじいさんは求めていないと考えて、黙って耳を傾けた。
「とにかく寂しかった。一年中朝から晩まで一緒だった連れ合いがそばにいないのだ。まるで自分の体の一部が欠けてしまったかのような不安と喪失感が消えなかった。腕をなくした人は、しばらくの間、腕があるような錯覚を覚えることがあるらしい。動かそうとして、ないことに気付くのだそうだ。わしもそうだった。あれがそばにいるような感じがいつもしていて、話しかけようとして、いないことに気が付く。そんなことを繰り返すたびに涙があふれて、とうとう死んでしまいたいと思うようになった」
おじいさんの口調は淡々としていたが、事実であることは伝わってきた。
「気をまぎらわせる何かを求めてわしは旅を続けたが、悲しみはつのるばかりだった。ある小さな寂れた村へ行った時、砂浜で海を眺めながら、このまま水に入って永遠に沈んでしまおうかと考えた。辺りには人気がなかった。今なら大丈夫、見付かって浜へ連れ戻されたりしないと思ったが、いざとなると体が動かなかった。怖かったのだ。当然だな。死ぬのが怖くないはずがない。もう水に入ろう、そろそろ行こうと思いつつ、腰が上がらなかった」
俺は空になった缶を握ったまま、おじいさんの横顔を見つめていた。
「さすがに自分が情けなくなってきて、よし、行くぞ、と立ち上がろうとした時、人の声がした。若い女性と幼い子供が浜辺にやってきたのだ」
おじいさんはかすかに微笑んでいた。
「母親に見守られながら、息子はよろよろと砂浜を歩いていた。寄せてくる波に驚いて飛び下がり、もう一度海へ近付いて逃げ戻る。そんなことが面白くて仕方がないようだった。遠くの海上へ沈んでいく大きな夕日が砂浜に伸びる二人の影を長くしていた」
おじいさんの目にはその時の光景がありありと浮かんでいるようだった。
「広い海、赤い夕日、戯れる親子、沖を通る船の影。黄金と赤に覆いつくされて、全てがあまりにも美しかった。連れ合いに見せてやりたかった。きっと見たがったに違いない。あれが生きている間に一緒に見にくればよかったと心の底から思った。気が付けば、涙が頬を伝っていた」
語るおじいさんの目も潤んでいた。
「その時だ。わしは悟ったのだ。生きるとはこういうことなのだと。美しいものを見て心打たれること。亡き連れ合いを思い出すこと。人知れず涙を流すこと。これこそが生きていることだと。そして、思った。もっとそういう経験をしたいと。もっと美しいものを見て、もっと感動して、もっと涙を流そう。もう連れ合いにはできないそういうことをわしがしよう。そういう体験をわしがたくさんすることを、連れ合いはきっと喜んでくれるだろう。死んであの世に行ったら語って聞かせてやろう。そのために、つらくても生きよう。死ぬのではなく、生きることを選ぼうと、わしは思った」
おじいさんのまなざしは厚い雲を貫いて懐かしい誰かに向けられていた。
「以前連れ合いが尋ねたことがあった。どうして『生きる』は動詞なのかしら、とね。その答えが分かった気がした」
おじいさんは言葉を噛み締めるようにゆっくりと言った。
「人の前には常に『死ぬ』という選択肢がある。この世から去り、人生を終わらせることは、全ての人に認められた権利だ。『生きる』とは、その誘惑に抗い、死なないことを自ら選び、前へ踏み出すことなのだ」
おじいさんは祈るように両手を組み合わせた。
「幸福な人は素晴らしい。だが、生きることの意味についてはあまり考えないだろう。苦しい時、悲しい時、全てを投げ出して人生を終わらせたくなった時に、人はおのれに問いかけるのだ。まだ『生きる』のか、と。死なずに人生を続けることを選択し、それを可能にするために必要な行動をすること。諦めて死を願う弱い自分と戦い、くじけそうになっても立ち上がり、この世にとどまることを選び続けること。それこそが、『生きる』という動詞の意味なのだ」
おじいさんは自分自身に向けて語っているのかも知れなかった。
「だから、苦しい人、つらい思いをした人、深い悲しみに耐えてきた人、大切なものを失った人は、『生きる』ことの価値を知っている。そうした重荷があってなお、生きることを選んだのだから。生き続けることの大変さと苦しさと喜びを知っているのだから」
自分もその一人であることに、おじいさんは誇りを持っているようだった。
「懐が寂しくなったので、今はここで働いて稼いでいる。金が溜まったら、今度は南の方へ行ってみようと思っている。体が動かなくなるまで、連れ合いの写真と一緒に世界中を回るつもりだ。あの砂浜で見た親子のような美しいものを、死ぬまでに一つでも多く見付けて連れ合いへの土産話を増やす。それがわしの生きる目的だ」
おじいさんは胸のポケットを指さして、俺に顔を向けた。
「君が今ここで働いているのも、『生きる』ためではないのか」
おじいさんの口調はやさしかったが、無視できない迫力があった。
「君は『生きる』ことの重みを知っているはずだ。いろいろな苦労があっても、諦めずに未来のためにお金を稼ごうとしているではないか。それこそが『生きる』ということだ」
「そんな立派なものじゃありません」
俺は否定したが、おじいさんは言った。
「生き続けるかどうか、それは君が決めることだ。生きろと強制はできない。耐えられない苦しみもこの世にはあるだろう。だが、生きていればこそ見ることのできる景色、味わうことのできる感動があるはずだ。わしはそう思っている」
俺はしばらく黙り、迷った末に答えた。
「少なくとも、まだ死ぬつもりはありません」
声が少しかすれてしまった。おじいさんは頷いた。
「『生きる』ことを選んでおるのだな。それは勇気のいることだ。胸を張れ、若いの。君にはまだ先がある。わしのように最高の連れ合いを見付けられる可能性もあるのだぞ」
俺は笑った。
「堂々とのろけますね」
「ああ、そうとも。これはのろけだ」
おじいさんも笑った。
「君のような若者に出会えるのも、生きていればこそだ」
おじいさんは立ち上がった。
「そろそろ休憩も終わりだな。年寄りの思い出話に付き合ってくれて、ありがとうよ」
「もう作業再開ですか。しんどいですけど、その日の仕事をやり切るのも『生きる』ってことなんですね」
「そうだな。死んでしまったら愚痴もこぼせないからな」
おじいさんは両腕を上げて伸びをした。雲の隙間から細い光が一筋漏れている。
「さて、もうひと頑張りしようか」
「はい」
俺はおじいさんに頭を下げて別れ、それぞれの仕事に戻った。




