友達
「係長、ちょっと来てくれ」
会社の朝礼の後、俺は部長に呼ばれた。
「何かご用ですか」
「例の企画の件だけど」
「やっと支社長の許可が下りましたか」
うちの部署が提案した新事業だ。社外の多くの人に助言を求め、部下達と二ヶ月以上かけて作り上げた自信の企画書だった。
「いや、中止になった」
「えっ……」
「本社が聞き付けて、やめてくれと言ってきた」
「なぜですか。うちの支社だけで行い、この地域限定の事業ですよ。本社の邪魔にはならないはずですが」
「そうなんだが、本社はいずれその方面にも進出するつもりがあるらしい。先に我々が始めてしまうと本社の望む形にしにくくなると思ったようだな。大丈夫、君達の企画のよい部分は採用すると言っていたぞ」
つまり、アイデアを横取りして自分達の手柄にするつもりか。激しい怒りを覚えたが抑え込んだ。
「分かりました。仕方ありません」
「部下に説明しておいてくれ。お世話になった関係先にも失礼のないようにな」
「はい」
無理して明るく答え、自分の机へ戻った。企画が通ったのかと期待する様子の部下達にどう話したものか、気が重かった。
不満をもらす彼等をなだめ、事前に話をもちかけていた業者や協力してくれた人達に断りとお礼の電話をし、三ヶ所は足を運んで頭を下げた。誰も口にはしなかったが、腹を立てていることは顔を見れば分かった。
全て終わったことを部長に報告すると、もう終業時間だった。
「あいつ、今日大丈夫かな」
会社を出る前に、携帯で友達にメールを送った。大学のサークルで同期だった男だ。
駅に向かう途中で返信があった。妻に遅くなると連絡し、五つ目の大きな駅で電車を降りた。
いつもの焼き鳥屋に入ってビールを頼み、一杯目を飲み終えた頃、彼がやってきた。
「悪い、遅れた。学校に親が来てな。長引いた」
「おう、お疲れさん。高校教師も大変だな」
カウンター席の隣に彼が座ると、料理と酒を注文し、乾杯した。
「さあ、今日は飲むぞ! 飲みまくる!」
陽気におどけた俺の顔を彼はじっと見たが何も言わず、ビールをぐいっとあおった。
「よし、じゃんじゃん飲もう。俺も酔っぱらいたい気分なんだ!」
それからしばらく、二人とも無言で焼き鳥を食い、酒を飲んだ。
一皿目がなくなり、酒とつまみを追加すると、俺は口を開いた。
「女房と娘がさあ、パンダが見たいって言うんだよ」
「あの生まれたばかりのやつか。クンクンだっけ?」
「そう、そいつだ。こっちは毎日残業で疲れてるってのにさ。まあ、明日からはもうちょっと早く帰れそうだがな」
企画が流れたので、居残って部下達と話し合いや作業をする必要はなくなった。
「少しは楽になりそうなのか」
「楽になったような、寂しいような、微妙なところだな」
「そうか。俺も忙しいが、暇な方がいいって仕事じゃないからな。やろうと思えばすることはいくらでもある」
二人とも黙り込みそうになったので、急いで話題を探した。
「そうそう。俺の部下にさ、すごいやつがいるんだよ。博学で頭がよくてさ、俺なんかただ感心しながら聞いてるだけだ。最近の企画でもいいアイデアを出したんだ。あいつはきっとそのうちどでかい仕事をするな」
「俺の生徒にもすごいのがいるぜ」
彼は楽しそうに応じた。
「絵がとっても上手いんだ。油彩画とかじゃなくて漫画っぽいイラストなんだが、県のコンクールにも入賞した。彼は絶対、有名なイラストレーターになるね。担任として鼻が高いよ。今のうちにサインをもらっておこうかと思うくらいだ」
「おお、もらっとけ。絵も描いてもらったらどうだ」
「練習用の模写なら、一枚くらいくれるかも知れないな」
「将来それを売ったら大もうけだな。その金で何をする?」
「そうだなあ。世界一周クルーズとか、妻が行きたがりそうだ」
「おお、いいね。夢が大きいね。どこへ行きたい?」
「イタリアには行ってみたいな。あとは、オーストリアとか。ウィーンでモーツァルトを聴くんだ」
「オーストリアって海あったか?」
「ドナウ川を黒海からさかのぼってさ」
「おお、その手があったか。でも、大型船が入れるのか」
「小型船に乗ればいい」
「小型船で世界一周か! いくらぐらいかかるんだ?」
馬鹿な話をしながら、焼き鳥を食い、酒を飲んだ。テレビで見たニュース、共通の知人の近況、最近読んだ本など、話題はどんどん移っていった。
一時間ほどで店を出た。
「じゃあ、またな」
俺は駅の改札の前で片手を上げた。彼とは乗る電車が違う。彼は何か言いたそうな顔をしたが、微笑んでやはり片手を上げた。
「ああ、またな」
そのまま互いに背を向け、振り返らずにそれぞれの家路についた。
「ただいま」
玄関を開けると妻が迎えに出てきた。
「お帰りなさい。楽しかった?」
頷いて、駅前で買ったたこ焼きを渡した。
「おみやげだ」
楽な服に着替えてテレビのある部屋へ行くと、妻がわかめラーメンを持ってきた。彼に会うと言うと妻は理由を聞かずに送り出し、帰るとこれを作ってくれる。
「いただきます」
手を合わせて頭を下げ、ずるずると熱い麺をすすった。
「うまい」
深い息を吐いて、どんぶりに目を落としたまま言った。
「ありがとな。お前も仕事、忙しいだろ」
「私は平気。まだ頑張れるわ。たこ焼き、頂くわね」
妻が楊枝で一つを口に運んだ時、部屋のドアが開いた。
「お父さん、お帰り」
幼い娘が近付いてきた。
「遅かったね。お友達と会ってきたの? 疲れた顔してる」
やさしい子だ。泣きそうになったが、笑って答えた。
「大丈夫だ。俺にはお前とお母さんがいるからな。それに、かけがえのない友達も」