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 熱を出したのなんて、いつぶりだろう。


 昨日夜中まで起きていたせいなのか、それとも、知恵熱だったりするのか。


 身体はだるいし、寒かったり熱かったり最悪だけれど、昼間からぐっすりと眠れるのは、悪くない。


 でもひとりは、やっぱり寂しい。


 ひとり暮らしはこういうとき、こたえる。


 夢と現実の間を、行ったり来たりのふわふわした意識の中、額にぬれたタオルが乗せられたことで覚醒して、まぶたを押し開いた。いつ帰宅したのか、高城さんがわたしを心配そうにのぞいている。今こそマスクの必要性を感じるここで、あえての素顔で。


 それでも熱のせいか、わたしの頭がファンタジーなことになっていて、献身的な看病をしてくれる高城さんが王子様に見えた。病気かもしれない。


 ただし、きらきらした正統派のではなく、呪われたタイプの。


「大丈夫ですか? 熱、少しは下がったみたいですけど……」


 高城さんが見せてくれた体温計は、まだ平熱よりも少し高い数値を示していた。それでも微熱くらいには下がっている。けれど眠っている間に喉が乾燥していたせいか、さっきよりも声がかすれてしゃべると痛い。


「……大丈夫です」


 根性で動けそうな気がして起き上がりかけたところで、すぐに肩を押されてベッドに戻された。


「安静に」


 じぃ、と見据えられて、気圧されたわたしは首をすくめてうなずくと、高城さんは詰めていた息を吐き出して、目元を和ませた。


「いい子いい子」


 頭をなでなでされて、どう反応していいものか戸惑う。急激に恥ずかしさが込み上げて来て、顔を隠すように、布団を目の下まで持ち上げた。


 それを眺めていた高城さんは、わたしがまた眠る体勢に入ったと思ったのか、寝る前にと、あれこれ問いかけてきた。


「すぐ戻らないといけないんですが、今のうちになにかしてほしいこととか、必要なものはありますか? ご飯を食べられそうならお粥を作って食べさせてますし、汗をかいて気持ち悪いなら身体をふきます。言ってくれれば、トイレの介助とかも――」


 言わせる前に深緑の枕をその顔にぶつけた。


 百歩譲ってご飯はいいとしても、身体をふかれたり、あまつさえトイレを手伝うだなんて、なにを考えているのか、この男は。家族ならまだしも、ただの隣人兼友人(?)だ。デリカシーのかけらもない。



 ――というか。



「……寝ている間に、なにもしていませんよね?」


 顔面に直撃した枕を、正座して膝に乗せた高城さんは、しれっとサングラスとマスクをかけてから、いいえ、とうそぶいた。


「……正直に白状しないと、パソコン壊しますよ」


 あそこに盗撮のデータが保存されていると見ている。


 脅しが効いたのか、高城さんは早々に白旗をあげた。どうしても消去したくないらしい。


「すみません……悩ましい寝顔を、ちょっとだけ」


 撮ったんかい。


 しかも悩ましいって。


 油断していた。目を離すとすぐこうだ。盗撮マニアをなめていた。


「愛蔵版に、と」


 愛蔵されても。


「寝顔なんて、激レアで」


「……。本当に、そのうち絶対に消させますから。――それで、それだけですか?」


「……はい」


 その微妙な間は?


「嘘ですよね?」


「……月さん。世の中には、聞かない方がいいこともあります」


 なにをしたんだ。


 一瞬総毛立ったけれど、高城さんの性癖……いや、性格的に、わたしの身体には直接触れてはいないだろう。体温計も、耳で測るやつみたいで、服をはだけさせられてもいない。


「……」


 だったらこれは、彼の言う通り、聞かない方がいいことなのかもしれない。なにも、減ってはなさそうだから……。


「そっ、それじゃあ、夜には帰って来ますから!」


 気まずくなったのか、そそくさと立ち上がった高城さんの袖を、わたしの手は無意識につまんでいた。



 ……引き止めてしまった。



 まん丸に見開かれた目が、振り返ってわたしをまじまじと見下ろす。


「……」


「……」


 どうしよう。引っ込みがつかない。ごまかして離すタイミングを完全に逃してしまった。ただでさえ全身熱いのに、頬にさらに血が集う。さまよった視線が、ぱちりと合って、慌ててぱっとそらした。


 沈黙は気まずい……と、思っていたら、つまんだ先から、ぷるぷるとした振動が伝わってきて、気持ち悪いので即刻離した。


 高城さんは、ああ、とか、うう、とかうめきながら、胸が苦しいのか、紅潮した顔を片手で覆い、もう一方でネクタイをゆるめるながら、がくりと片膝をついた。


 そして自分をなだめるように息を整えてから、こちらを見ないまま、手のひらだけをずいっと突き出す。


「ちょ、ちょっとだけ! 一分だけ、待っててください!」


 だっ、と瞬発力を存分に使って部屋を出て行ったかと思うと、閉まったドアの向こうで、よそ行きの声がした。会社へと電話をかけたのだろうか。上司か誰か相手にへこへこすること数分、早退をもぎ取って帰ってきた彼は、布団からはみ出たわたしの手を両手でしっかりと握り言った。


「安心してください! これで一日中看病できます! どこにも行かずに治るまでそばで見守りますから!」


 めいわく。


「ではさっそく。おかゆ食べますか? 食べさせますか?」


「食べますけれど、食べさせはしなくていいです」


「なんの気兼ねもいりません。僕がついていますからね」


 それが一番の問題だ。


 鼻歌を歌いながらおかゆを作りに行った高城さんを黙って見送るわたしは、諦めの境地にいた。


 とりあえず彼がいない隙に、いつの間にか用意されていたサイズぴったりのスウェットに着替えておいた。


 着替えを手伝うなどと、おそろしいことを言わせないために。









 ふうふうして、はい、あーん。


 恥ずかしげもなくスプーンですくったほかほかのおかゆを口元に運んで来る高城さんを、わたしは白けた目で眺めている。


「大人しく食べてくれないと、口移しで食べさせますよ」


「それをやったら、今後一切口を聞きませんから」


 調子が悪いときの他人の冗談ほど、わずらわしいものはない。


 だけど高城さんは差し出したスプーンを引っ込めることはなく、わたしは逡巡してから、意を決して薄く唇を開く。


 そぉっと口の中に運ばれたおかゆは、熱のせいか、味はぼんやりとしてほとんどわからなかったけれど、あたたかさは胃にしみ渡った。


「……おいしいです」


 わたしのために作ってくれたものが、おいしくないはずがない。作った相手がたとえ、盗撮魔でも。


 高城さんは、よかったと、ほわっと笑う。調理中邪魔だったのか、前髪は後ろに梳かれていて、マスクもしていない。その優しい顔に、胸が掴まれそうだった。


「まだあるんで、食べれるだけ食べてください」


 それほど食欲はなかったけれど、あまりにもご機嫌で給仕する高城さんに乗せられ、一人前の土鍋の半分も食べ切ってしまった。もうお腹いっぱいだ。


「はい、薬飲んで。はい、おやすみなさい」


 てきぱきと薬を飲まされ、横にならされ、布団をかけられた。なんとなく、ままごと遊びの人形になった気分だった。


 窓の外は明るく、まだ日は沈んでいる様子ではない。おやすみなさいをさせられても、さっきまで寝ていたこともあって、そう簡単には眠れない。


 ひとまず高城さんに安心して部屋を出て行ってもらおうと、まぶたを下ろした。


 しかしそこは人の予想の斜め上を行く男。なかなか出て行かないどころか、枕元でタブレットを使い、静かに仕事をはじめた。


 パソコンはキーボードの音がうるさいからタブレットを使うという、微妙な配慮は感じる。


 ただ音を気にするくらいなら、リビングでやってほしいというのが率直な願いだった。


 しかも高城さんはベッドを背もたれに、こちらに背を向けているから、タブレットの画面が丸見えだ。遠慮して視線をずらし、高城さんの後頭部を見つめる。正面からだと重たげな髪も、後ろからだとナチュラルな無造作ヘア。


 というか、無造作。整髪料は、水。


 もともと清潔感はあるし、後ろ姿はかっこいいと言えなくもない。


 ああ、どうしよう。熱のせいで頭がおかしくなってきた。なにも考えてはならない。無の境地、無の境地……。


 なにも考えることがなくなると案外人は眠くなるものなのか、まぶたがとんと重くなって、このまま寝入るかどうか――……というとき、高城さんの気配がそわそわし出した。


 こちらをうかがうそぶりをしながらも、それでも、仕事に集中しなければと己を律しているような、そんな葛藤を肌からひしひしと感じる。


 これは、ろくなことを考えていない。


 見ていなくても察した。また盗撮しようとしているに違いない。


 いい加減この癖を正さないと。


 だけどそれは果たして、わたしの仕事なのかどうなのか……。


 悩んでいるうちに、高城さんが身を乗り出してきてベットが沈み、さすがに非難すべくぱっちりと開眼した。


「……」


「……」


 失敗だった。至近距離で、目が合った。人の上に覆い被さろうとしていた、不届き者と。


「な、なんで、人の上に……」


「違っ、違い……ます」


 だから、違わない。現実から目をそらすな。


「これは、その……カ、カーテンを閉めようかと、思って」


 確かにベッドの向こうに窓があって、カーテンがかかっている。だからといって眠っている人をまたいでカーテンを閉めに行く必要がどこにある。


 冷や汗をかく高城さんを見据え、頭の下にあった白い枕をぶつけた。


「このままだと熱が下がらないから、今すぐ出てってくれませんかね?」


 わたしはわたしの独断で、この部屋の住人を、正当な理由を持ってして追い出した。







「高城さんも、病気のときはやっぱりおかゆに梅干しですか?」


「はい。それか、あっさりしたうどんとかですね。ネギが入っていたら嬉しいです」


「ネギはおいしいですよね。わたしはうどんなら、味噌煮込みうどんが好きです」


「いいですね、味噌煮込み。僕も好きです。濃いめの味噌を吸ったお揚げとか、半熟になった卵とか」


 想像でよだれが出てきた。おかゆを食べている最中なのに。


「じゃあ夕食は味噌煮込みうどんにしますか?」


「……! ありがとうございます」


 そう言ってから気づいた。


 夜もここにいることを、自分で認めたことに。


 そしてすっかり、胃袋が掴まれていることに。



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