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 あの日以来、お隣の不審者と顔を合わせる回数が格段に増えたのは、わたしの勘違いなのだろうか。


 朝のゴミ出しとか、帰り道だとか。偶然にも遭遇した際には、これまでとは打って変わって言葉を交わすようになった。


 これはいわゆる、同情やほだされたうんぬんではなく……お隣のよしみというやつだ。そう自分に言い聞かせる。


 ゴミ捨て場で井戸端会議をする奥様方の不審げな眼差しをほしいままにしている高城さんが、彼女たちのつけている香水やらアロマやらヘアスプレーやらの匂いにふらついているところや、カラスよけネットと格闘中に、追い打ちをかけるように子供たちに水鉄砲で攻撃されているところや、夜道で数人の警察官に職質されて身ぶり手ぶりで弁解するその姿を、見て見ぬふりできずに手を貸してしまった、わたしの良心の問題だった。


 だいたい、職質をかけられすぎて、パトカーを見ると反射的に逃げるというその悪循環からまず見直した方がいい。


「警察は暇なんでしょうか。僕なんかに構っている間に、変質者のひとりでも捕まえてくれたらいいのに」


「……」


 変質者がなにを言っているんだ?


「やっぱりこのボストンバッグがいけないんでしょうかね」


 たぶん、それじゃない。


 ボストンバッグをじっと見下ろす高城さんに、こめかみをもんでから、提案してみた。


「……サングラスと帽子は、外してもいいんじゃないですか? マスクだけなら、風邪とか花粉症とか、時期じゃないけれど誰にでも理解してもらえる言い訳になると思いますけれど」


 高城さんは、しばしの沈黙ののちに、渋々といった様子でサングラスと帽子を外す。


 やっぱりこの鬱陶しい前髪がネックだ。前より伸びているし、さらにうねっている。


 後ろに流してしまえば……と、ちょっと背伸びして前髪に触れると、高城さんがものすごい勢いで後ずさった。


「それ以上はっ……!」


 前髪は触れてはいけなかったらしい。


「そういうことは、まだ……。箍が……」


 なにかごにょごにょ言っているようだけれど、ここからではよく聞こえない。


 装着し直したサングラスと帽子、そしていつものマスク姿の高城さんを眺め……うん。しっくりくる。


「せっかくの提案、すみません……」


 素直に反省して謝罪するところは、彼の美点かもしれない。そこだけは認めた。


 ただ、そう。ちょっと変わった人なのだ。


 まだわたし以外には、理解されてはいないけれども。


 あれ、これでは高城さんの思うつぼなのでは?


 まさか思考から寄生してくるとは思わなかった。


 他愛のない話を弾ませたり弾ませなかったりしながら帰路につき、ポストを開けると、めずらしく入っていた一枚のハガキ。ざっと目を通し終えたわたしは、げんなりとしてうなだれた。


「めんどくさい……」


「なにがですか?」


 ハガキにため息を落としたわたしを、背後から高城さんが覗き込む。


 背が高いだけに、ハガキの内容は丸見えだったらしく、「ああ、同窓会……」と、神妙な面持ちでつぶやいた。


 そうなのだ。中学の同窓会。実家に届いたその案内ハガキを、母なりに気を利かせたのか勝手に出席で出し、事後報告でこちらへと転送して来た。


 日付はまだ先だ。でも、欠席で出しておいてくれればよかったものを……と、苦々しく思う。


「行くんですか?」


「…………考え中です」


 中学時代の友達とはもうすでに交流は途絶えている。そして、楽しかった思い出と同じくらい、苦かった思い出がたくさんある。みんなそうだろうとは思うけれど、つまり、若かったのだ。思い出すと身悶える。


「同窓会なんて、魔窟ですよ。この症状が出てから出席したんですが、会場に入った途端、おぞましい悪臭と奇異な眼差しで、即刻回れ右したくなりました」


 それは、切ない。


 旧友と親交も深められず遠巻きにされる高城さんがやすやすと想像できた。


 元のポテンシャルが高かった分、その対応にはこたえただろう。


 同窓会ならば、みんなそれぞれ気合を入れていくから、匂いも強くなるはずだ。しかも、男女問わず。


「それで、帰ったんですか?」


「……少しは耐えたんですが、元カノたちに絡まれて、結局三十分もしないうちに逃げ帰りました」


 元カノたち(・・)、ですか。


 無意識で他意はないのだろうけれど、いちいちイラっとさせられる。


「わたしのは中学校の同窓会なので、内輪で男女交際している人は少なかったですけれども」


「? それは中学校の同窓会でしたけど」


「……」


 すべての運を学生時代に使い果たしたのか。かわいそうに。そう思うことでわたしは溜飲を下げた。


「ついて行きましょうか?」


「結構です」


 ハガキを一応鞄に突っ込んで、部屋へと帰ろうとすると、高城さんがまた挙動のおかしい動きで前に飛び出してきた。普通に驚く。


「この間お部屋におじゃましてしまったので、今日はうちに、お招きしたい……の、ですが……」


 長身をすくませて、尻すぼみにおどおど問いかけてくるけれど、あなたまだ銀行強盗スタイルですよ。


「嫌、ですか……?」


「いえ、嫌かどうかの問題ではなく、夜にひとり暮らしの男性の部屋に気軽に遊びに行くのはどうなのかと」


「大丈夫です! おもてなしをするだけですから! 決して不埒な真似はしません!」


 がし、と肩を掴まれた。そんなに強い力ではないのに、妙な迫力があるせいで、脅されているような気分になってきた。


「月さんのお好きな、ぶり大根や蓮根のきんぴらなどの和食中心のメニューと、デザートでフォンダンショコラを作ります」


 和食は好きだ。ぶり大根も、きんぴらも。フォンダンショコラにも惹かれる。


 ただ、……ただ、ひとつ言いたい。



 わたしが和食が好きだなんて、一言も言った覚えがない!



 ここに来て、引っ越しの挨拶で持ってきた季節の上生菓子も、わたしが好きだとリサーチして持ってきた可能性が出てきた。……こわい。


 わたしが引いていることを敏感に感じ取ったのか、高城さんがしゅんとして肩を落とす。


「すみません、月さんの気持ちも考えず、強引に迫ってしまって……。お礼のつもりだったんですが、迷惑でしたね……」


 がっくりとして、とぼとぼと家のドアに手をかける高城さんが、憐れに見えたけれど、その手には引っかからない。……引っかかってはならない。


 ならないんだけれど……。


 ドアを開けて、負のオーラを背負ったまま消えていくその背中に、ため息をついて、ごく小さく答えた。


「わかりました」


 一度閉まったドアが、勢いよく開け放たれる。


「どうぞ!」


 喜色満面で(といってもサングラスマスクの完全防備だけれど)迎え入れられた。


 女は度胸とばかりにおじゃましますと入室すると、どこまでも殺風景な部屋がわたしを出迎えてくれた。


 必要最低限の家具と家電。シンプルだけど重たげなカーテンは閉ざされていて、自動掃除機の働きのおかげか、ゴミひとつない広々とした室内。開放的とは言い難かったけれど、わたしの部屋よりは家具による圧迫感はなかった。


 そしてやはり、目につくのは複数の、ごぅごぅと稼働中の空気清浄機。ハウスダストに花粉だけでなく、PM2.5対応。帰宅した途端、フル稼働だった。


 高城さんはさすがに自宅では帽子とサングラスを外したけれど、わたしに気を使ったのかそれともそれが通常なのか、伊達っぽい眼鏡をかけた。料理するにはじゃまな重たい前髪を無造作に後ろへと流す。


 外では嫌がるくせに、家では額を出すのか。自然なオールバックに眼鏡がまた、似合うのが腹立たしい。


 だけどすぐにはらりと落ちて来てしまうのは、見ていて切なかった。


「適当に座っていてください」


 そう促されたので、無難に、リビングに置かれた黒い革のソファに、腰を下ろす。見た目に反して以外と沈んで驚いた。もう二度と立てなくなりそうな、怠惰な人間を製造するべく作られたようなソファの座り心地。寝てしまう。


「テレビ、つけてもいいですか?」


 これはだめだと、気分を変えるべくリモコンを手にして、返事を待たずつける。映し出されたのは、一見ホームビデオのようなほのぼのした一コマだった。なにかのDVDだろうか。一時停止を解き、再生する。


 やたらと手ブレが多い。どうやら本当にホームビデオらしい。


 その映像のはじめは、公園をかける愛らしい少女たちを、なんとなくではあるけれど、こっそりと隠し撮りしている風だった。ロリコンかと、絶句した。


 だけど恐怖だったのはその先で、少女らが少しずつフェードアウトしていき、映し出されたのはひとりの女性。というか、何度瞬きしてもわたしだった。二度目の絶句。


 画面の中のわたしは、ベンチに腰かけスマホを食い入るように見つめている。その真剣な眼差し。たぶん、小説かマンガを読んでいるんだと思われる。そういえば買い物帰りにネット小説の更新チェックすると、奇跡的に好きな話の続きがアップされたところで、そのまま公園で一休みがてら読みふけった覚えが、ある。



 と、そんなことはどうでもいい。



 問題は、そこじゃない。




 ――盗撮は、犯罪です。




 硬直するわたしの見ているものにようやく気付いたのか、高城さんが慌てふためき駆けてきて、リモコンを奪う。


 電源オフ、のち、重たい沈黙。


「これは……違います」


 違いません。


「違うんです」


「違わないので、消してください」


 絶望的な表情……といってもマスクはしているので上だけだけれど、眼鏡の向こうからの声なき哀願。


「これをどういうつもりで撮影して鑑賞していたんですか」


「いえ……別に」


「ストーカーですか」


「……すみません」


 そのすみませんは、肯定なのか否定なのか、どっちなのか。


 しかしこの明らかな危険因子と、もうこんな密室にいられない。即刻帰るべく立ち上がると、高城さんが血相を変えてわたしの前に立ちふさがった。その手にはよく見るとリモコンと……包丁。さっきまでとは違う意味の危険がわたしの目の前に迫っていた。


「消します! 全部消すので、帰らないで!」


 全部?


 全部と言った、この人……。


 そして包丁。これは懇願ではなく、脅しだったのか。


「わたしを殺す気ですか……?」


 わたしの視線が己が手に注視していることに気づいた高城さんが、握りしめた包丁にぎょっと目を見開いて、すぐさまキッチンへと置きに走った。


 その間に逃げればよかったのだけれども、それよりもその、全部とやらの消去を見届けることを優先した。



 この盗撮マニア、どうしてくれようか。






「えっと、あの、月さんの趣味は読書ですよね」


 間が持たなかったのか、高城さんはプレーヤーからDVDを抜き取りながらそう言った。


「……そうです。高城さんの趣味は?」


「写真を撮ることです」


「……」


「ち、違っ……」


「違いません」


 盗撮は犯罪です。



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