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「お邪魔します……」
わたしに続いて靴を脱ぎかけた彼は、ふと靴箱の上に飾ってある、ユーカリを束ねて作ったドライフラワーのスワッグを目に止めると、しげしげと眺めてしばらく動かなかった。
シルバーグリーンのユーカリは、時間が経過していても、まだほんのりスパイシーな清涼感で玄関を包んでいる。マスクをしていても、その香りを感じるのかもしれない。
さっきも花屋の前にいたし、花に興味でもあるのだろうかと首を傾げつつ、どうぞ、と入室を促した。
アパートの造りとして、西と東のはしの二部屋は単身者向けなので、間取りは左右反転しているけれどほぼ同じ。キッチンのあるリビングと、寝室、トイレとお風呂、猫の額ほどのベランダ。違うのは角部屋ではないから、隣よりも窓が少ないことくらいだ。
リビングに入ってくると、高城さんはよりいっそうおかしな動きで、室内の徘徊をはじめた。
きょろきょろしながら、室内をぐるぐると歩き回る。
変質者っぽいけれど、今のところ、拾ってきたばかりの野良猫にしか見えない。
無害そうだし、目を離しても大丈夫……かな。
お茶でも出すべきかと冷蔵庫を開けたわたしは、静かに閉めて額を押し当てた。なんてこと。
なんにもない。
絶望的に、なにもない。
飲みかけのオレンジジュースならある。けれど、それを出すわけにもいかない。
もう一度、冷蔵庫の中をざっと見回す。飲みものどころか、仕送り(主に野菜)前で食べるものも危うい。
バナナと……りんごはいけそうだった。甚だしく場違いな気もするけれど、ミックスジュースでもこしらえようか。
「すみません、お茶をきらしていて、ミックスジュースしか――……」
振り向きざまに声をかけた。高城さんに。けれどそこにいたのは、見知らぬ長身の男。わたしはぽかんとしてりんごを落とした。
…………誰?
どこかで見た記憶のある、ゆるく目元に落ちた黒い前髪。そこから覗く目はくっきりとした二重で、すっと通った鼻筋や、形のいい唇、無駄のないすっきりとしたアゴののライン。口を開くと、わずかに覗いた白い歯も、整然と並んでいるのが見て取れた。
なのに、不思議と健康的に見えないのは、その表情と肌の蒼白さのせいかもしれない。
わたしが呆けている間に、ころころと転がっていったりんごを、その謎の人物が拾って差し出してきた。
「あの、りんご落としましたよ……?」
わたしはそれをぱっと取って、ついでに距離も取る。
フーッ、と威嚇する猫のように対峙すると、謎の人物がきょとんとしてから、大慌てで白いなにかを装着した。見慣れた不織布の高性能マスクだった。サングラスはなぜか畳んでいたせいで、つけるのに手間取って、目元にあてがっただけの格好だ。
「月さんっ、高城です! 怪しい者ではありません!」
空いている手を挙げて無抵抗を示すのは、間違いなくお隣の高城さんだった。怪しい者ではあるけれど、知っている人だった。
となると……だ。
さっきの男前が、この残念な人の素顔ということに……?
神は変なところで平等か。
「……。状況の把握はできたので、手は下ろしてもらって構いません」
ほっ、と安堵の息をついて手を下げた高城さん。サングラスを持つ手も下ろす。そしてまたマスクを取ろうとしたので、それは押し留めた。
「待って、マスク! マスクはそのまま! そのままでお願いします」
「え、あ、はい」
高城さんは素直にうなずいて、マスクのひもを耳へとかけ直す。
見知らぬ男前と密室でふたりきりになるより、怪しいマスク男とふたりきりの方がまだ、慣れている分ましだった。
同一人物では、あるけれども。
「すみません、知らない人が入って来たかと思って」
「いえ、こちらこそすみません。人の家でマスクなんて脱いだ僕がいけないんです」
高城さんはどこか落胆したように、肩を落とす。
その言い方はどうかと思うけれど、それは悪くはない。そう言おうかと思ったけれど、やめておいた。
もっと他に訊きたいことがある。
「なんでそんなにいい顔をしているのに、マスクなんてして隠しているんですか? 顔を出すと女性がうっとおしいとかですか?」
「そういう理由では……、いえ、すみません。やっぱり女性は……うっとおしいです。はい」
正直なのはいいことだが、世の女性に飢えている男たちに土下座して謝罪した方がいいと思う。
「僕、顔の造作なんて、どうでもいいと思うんですよね」
なにを急に語り出したんだろう、彼は。人の家で。
「野獣だって、最後には心優しい美女に愛された。王子のときにはうわべだけの人間しか寄って来なかったのに。そういう教訓を、自分は生かせなかった。ちょっと背が高くて顔がいいからって、調子に乗っていたんです、僕。……今や怪しいマスク男です」
わたしも、王子様に戻った姿よりも、野獣ラブだけれど、それとこれとはわけが違う。
王子様目線で話していることが若干癇に障るけれど、しょせん他人の戯言だと思って、胡乱な目のまま相づちだけ打っておいた。
「子供には泣かれるし、犬には吠えられる。……野獣はこんな気持ちだったんでしょうか」
知るか。
「たったマスク一枚です。それでも、僕はこれがないと外の世界で生きられない。これがあっても……」
と、うなだれる高城さん。
なんか核心に近づいて来た。これは話の腰を折らなかった、わたしの努力のたまものだ。
彼は自嘲し、そしてわたしをちらりと見やって言った。
「……だめなんです、香水とか洗剤とかの人工的な匂いが」
「あー……。だから、マスク」
いわゆる、香害というやつだ。
香水とかアロマとか香りつき柔軟剤とか、そういう匂いで体調を崩してしまい、ひどくなると家から出られなくなることもあるとか。
花屋の花はそもそも害虫がつかないようかなりの農薬が使われているから、きついだろう。
この人、対人恐怖症ではなく、それだったのか。
「……これがあっても、頭痛や吐き気がしますし、喉が締めつけられたり、めまいで歩けなくなることも。煙草や排気ガスはもちろん、今では花の匂いが人からするだけで、反射的に身体がこわばってしまって。…………でも」
彼の視線がそれて、部屋中を巡る。
壁にはくすんだピンクのバラのスワッグ、棚の上には籠に入った紫陽花の花束、スターチスや千日紅、ひまわりにかすみ草までにぎやかなガーランドの揺れるドア……。いたるところに飾られたそのドライフラワーを、彼はひとつひとつを不可解そうに眺めた。
「この前のときも、今日も、月さんからはほんのりと花やハーブの香りがするのに、不思議なんですが、めまいも吐き気もしないんです。この部屋もそうです。同じ、花なのに」
「それが部屋に入りたかった理由、ですか」
はじめから言ってくれれば、部屋に入れるまでもなく、口頭で説明できたのに。
「それはうちの花が、全部無農薬栽培のものだからだと思いますよ。定年した父が無農薬栽培で畑をやっているので。と言っても野菜のですけれど。ここにあるのは、母が畑の一角で育てている花を乾燥させて、わたしが作ったものなんです」
「……」
高城さんがなにも言ってくれないから、自慢するみたいな口調だったかなと反省していると、彼は神妙な面持ちで噛みしめるように言った。
「そうだったんですか……。納得しました。部屋に押し入ったかいがあった」
その言い方はいかがなものだろう。
すると彼はおもむろに居住まいを正して頭を下げた。
「それと、すみません。部屋に入りたかった理由のうち、七割ほどは下心です」
ほとんどじゃないか。
そしてなんでここにきて正直になるのか。どうせなら墓場まで持って行ってほしかった。
「女性の部屋はドラッグストア並みに危険度が高いので、正直入れるとは思えませんでしたが……」
そういえば、ドラッグストアって、色んな匂いが混ざって混沌としているから、わたしも苦手。
それは確かに地獄だね。
「あ、洗濯とかは、どうしているんですか? 洗剤とか、きついですよね」
個々の症状によると思うけれども。
「恥ずかしながら、近くに兄夫婦が住んでいるので、そちらでお願いしてもらっています。お金は受け取ってもらえないので、甥っ子と姪っ子にお菓子やおもちゃを買い与えています」
だから、言い方。
それでも、ボストンバッグの意味もやっとわかって謎がひとつ解けた気分だ。
「じゃあ目出し帽とサングラスは?」
「ああ、これは、たまに涙が出てしまうときがあるので、人に見られないようにするためと、本音としてはあまり人と接したくないので、自衛策として」
それは成功している。ただ逆に、職質される回数は増えて、とんとんな気もするけれど。
「このややこしい症状が出てから、彼女はいません」
聞いてません。
「見ている分にはわかりませんでしたが、この部屋はとても居心地がいいですね。……あ、すみません。ここに寄生したいということではなく」
「えっと、大丈夫です。わかってま――」
「だけどこんな絶好の機会は二度と訪れないだろうと思うので、ここからいかにして同棲、結婚まで持ち込むか思案中です」
「……」
なに、冗談?
……わかりにくい。
「理由も判明したことですし、今すぐ自分のねぐらに帰っていただけませんか?」
あの花屋の店員さんのような目のまま、マスク男を家から追い出すために両腕を伸ばすと、するっと避けられた。背があるのに、俊敏だ。おかげでわたしはこけかけた。
「あ、わっ……と!」
元凶である彼に身体を支えられ、なんとか体勢を立て直したのはいいが、変質者がマスク越しに頭頂へと鼻を埋めてくる。
「……」
この変態、どうしてくれよう。
「やっぱり。月さんのシャンプーも平気みたいです」
これは安全確認のための抱擁か。って、納得できないけれども、仕方なく説明を入れる。
「赤ちゃんでも使える超敏感肌用のオーガニックのシャンプーを使っているので」
敏感肌でややアレルギー体質な姉を持ったせいで、わたしも兄も小さい頃からそれにつき合わされてきて、それを普通だと思って生きてきた。
やっぱり昔から慣れている自然由来のものを使ってしまう。洗濯洗剤も、食器洗い洗剤も。
姉からただで送られて来るからではない、と言えないところがあるにしても。
そしていい加減離せ、この変態。
ぎゅっとするな。
「もうご存知だと思いますが……、好きです」
全然存じていない。初耳だ。こんな告白があってたまるか。
「それはいわゆる……錯覚ではないかと」
わたしが彼のパーソナルスペースに入れる数少ない無害な女だったから、好きになってしまったと誤解しているのだと思う。単純に。
だから、むぎゅっとするな。
「いいえ、錯覚ではないです。――でも、安心してください! 今は、そのことだけ知っていてもらえたら、それで満足ですから!」
だったらまず、この手を離せ。
うかうか寄生されてたまるか。
わたしの白けた目にようやく気づいたのか、うっすら青ざめた彼は、飛びのいた。
「すみません! つい、出来心で! 責任は取りますから!」
彼は勢いよく頭を下げると、意味不明なことをのたまいながら、お隣のねぐらへと帰っていった。
ひとりになり、ほっと息をつく。
とりあえず……歯ブラシは、新調しよう。
いつもよりも早く脈打つ胸をなだめて、なんとなくそう決めた。
成人女性の平均身長が158cmらしい。
わたしの身長、157.5cm。
ちなみに高城さんの身長、190cm。
「あと0.5cmあれば……」
「あと0.5cmなければ……」
「……」
神様はやっぱり不平等だ。