16 高城さんside
自分を理解してくれる人なんて、この世界のどこを探してもいない。そう思っていた。
投げやりになっていたあの日あのときあの場所で、もし彼女に出会わなければ、次来た快速列車の前に、ふらりと飛び込んでいたかもしれない。
ずっと抱えていた苦しみを、意図せず和らげてくれたのは、自分よりも年下の、普通の女の子だった。
もしまた会うことがあれば、そのときは、助けてくれた一生分のお礼を込めて、そばで見守り、愛そう。
それが僕の、生きる希望になった。
*
顔はもう、覚えていない。大学時代、最後にちゃんと付き合ったのは、薔薇の香りをまとった女だった。
その彼女に、カフェで席につくやいなや、冷水を浴びせかけられた。続けざまに頬に痛烈な一打。
はじめこそ、なにが起きたのか理解できなかったが、彼女をここまで怒らせた原因が自分にあるということだけはわかっていた。
お互い就活がうまくいかずに、時間をやりくりしての、久しぶりのデート。彼女は見たことのない真新しいワンピースに、わざわざ髪を巻いてセットしていた。そして、以前彼女がつけていた香水の匂いは好きではないとはっきり言ったことがあったのを覚えていたのか、その日は別の匂いをつけていた。
テーブルの向かい側にかけた彼女に対して、つい率直に、思ったことが口をついていて出ていた。
――気持ち悪い。
女性相手に、最低だと思う。人としても。
言い訳させてもらえるなら、その日は彼女が来る前から、ずっと調子がすぐれず、とどめのように彼女のまとう芳香に吐き気を催したのだった。
ここ最近そんなことが頻発していた。
そういう理由もあって、外出するのが億劫になり、休みがあれば就活で疲れていることを理由に、彼女の誘いを断り続けての、今日だった。
そりゃあ、つもり積もったものが爆発したのもうなずける。
パンッ! という乾いた音が響き、近くにいた人たちがちらちらと好奇の目を向けてくる。
限界を超えた彼女はそんなことも気にならないくらいに、かすかに涙のにじむ瞳でこちらをにらみ上げると、これまでの鬱憤を晴らすかのごとく、怒濤のように叫んだ。
香水の件も含めて、これまでの不満をすべて。あますことなく。
確かにひどい男だった。客観的には聞いたら、間違いなくわがままで傲慢なクズ男だった。自分で引いた。
人の趣味に口出しして、挙げ句、気持ち悪い。
――あんたの方が気持ち悪いわよ! なに様なの、この顔だけのクズ野郎!
その捨て台詞に、反論もない。彼女は鞄を引っ掴むと、足早に出口へと駆けていった。
はっきり言って、彼女に未練などなかった。
数日後、他の男と親しげに大学内を歩いているところを見たが、なんとも思わなかった。
だって自分自身、それどころではなかったから。
身体の不調はますます増す。弱ったところに漬け込むように、なん人かの女の子がすり寄ってきては、彼女のように怒って去っていった。
どこの病院に行っても、異常はないと言われる。さらに頭がおかしくなりそうだった。
最終的には病院へと担ぎ込まれた。唯一残っていた最終面接の直前だった。
そこでも医師に、どこにも異常がないと告げられ、今度は精神科の診療を勧められた。
だからと言って、なにも変わらなかった。人ごみは確かに苦手だ。だけど、閑静な住宅街でもめまいや吐き気が頻発した。
就職どころではなかった。
父親には、軟弱だからそんなあまったれたクズになるのだと罵倒されて、家を追い出された。もともと父親とそりが合わずに絶縁していた兄が拾ってくれなければ、その時点でのたれ死んでいたように思う。
兄たち家族の好意は、ありがたさと同じくらい、心苦しさでいつも押しつぶされそうだった。
このまま兄たちにめいわくをかけ続けるわけにはいかない。なんとかこの症状を克服しようと、荒療治で何度となく満員電車に乗った。大丈夫なときもあった。だめなときは、本当にだめだった。
身動き取れないほどの超満員で、ただでさえ苦しくて、それでもあとひと駅あとひと駅と我慢をして、とうとう耐えきれずに知らない駅のホームへと降りた。
目に入ったベンチによろめきながら座っても、一向に調子は戻らない。涙があふれてきた顔を慌てて両手で覆い、落ち着くまでそうし続けた。
自分はなにか悪いことをしたのだろうか。こんなことなら、ひと思いに死んでしまった方がどれだけ楽か。
生きているのがつらくて、今この場から立ち上がることさえも想像できないくらい、心も身体も疲れきっていた。
ただ泣いて、泣いて、涙が底をついたあたりで、次の快速電車が来るのを、心待ちにしている自分に気づいた。ベンチから立ち上がって数歩なら、歩いていける。そうすれば、解放される……。
そうして快速電車を待ちぼんやりとしていたときだった。隣から、ためらいがちな声がかけられた。読んでいた文庫本をパタンと閉じ、まるで苦渋の決断をしたかのような、そんな呼びかけ。大丈夫ですかと、ただ、それだけ。
隣に誰かが座っていることにも気づいていなかった。億劫で、最初は無視をした。だけど駅員を呼ばれそうになって、さすがに返事をした。それでも頑として顔だけは上げなかった。自分の顔が女性受けすることを知っていたから、また媚を売られても困ると本気で思った。とんでもないうぬぼれ野郎だったのだ。
「……大丈夫。だから、放っておいて」
「……わかりました」
あっさりと引き下がった彼女は、そう言ったっきり、また本を開くと読書に没頭しはじめた。隣りに座る僕の存在なんかないかのように、ただ黙々と。
それはどれほどおもしろい本なのか。指の隙間からちらりと見えたのはお手製らしいカバーで、本のタイトルはわからなかった。
そんなつまらないことをしていたせいで、あれほど心待ちにしていた快速列車が、あっけなく目の前を通過して行ってしまった。
そのことに、落胆していないと言ったら嘘になる。
風が凪いだとき、隣の女性が本に目を落としたままひとり言のようにつぶやいた。
「ここで死なないでくださいよ。めいわくなんで」
死ぬつもりなんてなかった。ただ待っていただけ。そう言い返してやろうと思った。でも、本当に? 本当に死ぬ気はなかったかと言えるのか?
わからない、けど、今この瞬間だけは、不思議と死にたくない気がした。
「死なないよ。少なくても、今は」
「そうですか。……病気、とか?」
病を苦に自殺しようとしたのだと彼女は思ったらしい。訊いていいのか相当迷ったのだろう、語調が少しだけ震えていた。
あながち間違っていなかったから、そんなところ、と簡単に答えた。
不治の病ではない。なぜなら医者は正常と言う。それでも、生きていくのに、苦しくないはずがなかった。それを誰でもいいから、わかってほしかった。この苦しみを、自分よりも年下だろう少女に、ほんのささやかでも背負わせようとした。最低なことに。
さすがに恥ずかしくなって、ごまかすように早口で言った。
「別に死ぬようなことじゃない。人ごみとかでめまいや吐き気がするくらいで。倒れたときは、さすがに死んだかと思ったけど、窓を締め切って外に出なければ、わりと平気だから」
おかしな人だと思われるかもしれないと思ったが、それはそれでいいと思った。どうせもう、会うこともない。
家にいれば安全なら家にいればいいのに、という結論に彼女がたどり着いたら、やっぱりここへは死にに来たのだと思われるのだろうか。また、めいわくだからここで死ぬなと、釘を刺されるかもしれないと思うと、気づかないうちに苦笑していた。
けれども、彼女が口にしたのは、全然別のことだった。思いもよらない……同意だった。
「ああ、さっきの車内、香水と柔軟剤と煙草の悪臭が混ざって最悪でしたからね」
言っていることの意味が頭に入って来なかった。
この子はなにを言っているのだろう。……匂い?
彼女はある病名を口にした。
はじめて聞くものだった。
どこの病院に行っても、どんな医師も、そんな病名は一度だって口にしたことがなかった。わからないまま彼女はひとり納得して続けた。
「というか、あの中でよく耐えられましたね。つらかったでしょう」
その他愛もない同情の言葉が、不意打ちで胸にしみて目頭が熱くなって、あっと言う間に枯れたと思った涙があふれ出した。
そうだ。誰かに、つらかったねと、言ってほしかった。うわべだけの台詞ではなく。
心配してくれたり、甲斐甲斐しく世話を焼こうとしてくれた人もいた。けれど、誰ひとり、僕の訴えに真剣に耳を貸し考えて向き合おうとはしてくれなかった。当たり前だ。精神的に参っているところに漬け込もうとしていただけなのだから。
それか、弱っている人間相手に優しくしている自分に酔っていただけ。きっと本当に病気と診断された途端、裸足で逃げていくような女ばかりだったのだ。
そこで、彼女の言葉が少しおかしいことに気づいた。ここは乗り換えの駅でもなんでもない。彼女はさっきの電車に乗っていたのなら、なぜここで、ベンチに座って次の電車を待っているのだろうか。
まさか、様子のおかしかった自分を追って、降りてくれた、とか?
都合のいい考えに戸惑っていると、ふいに、頭になにかがためらいがちに触れた。隣の彼女の手だった。こわごわと、なでられる。慰めているらしかった。
そのぎこちない手の動きに、不思議と気持ちがほころんだ。きっと彼女がこうして男の頭をなでるのははじめてなのだ。それが妙に嬉しくもあった。
顔は上げれないのが残念でならない。だけどこんな顔、恥ずかしすぎて見せられない。せめて、涙が止まるまでは。
だって顔だけのクズ野郎だ。顔しか取り柄がない。それがだめなら、僕の存在価値はなんなんだろう。
あと少し、もう少しという思い虚しく、普通列車到着のアナウンスとともに、彼女の気配が離れて行くのを感じた。
はっとして、プライドを投げ捨ててなりふり構わず前を向くと、彼女の乗った電車の扉が閉まる寸前だった。
ベンチに手をつき立ち上がろうとしたとき、指先にペットボトルが当たって横に倒れた。未開封の、ミネラルウォーター。
やっぱり、そうだ。
体調が悪いことを察して、そばについていてくれたんだ。
追いかけようにもしばらく同じ姿勢でいすぎたせいで、足が痺れてうまく動かない。そんな滑稽な姿が見えたのか、窓越しに彼女はほのかに笑った。微苦笑だった。
待って!
まだ行かないで!
どうしてだか声が出ない。だから必死に心で叫ぶ。
名前も知らない。自分も名乗っていない。どこの誰なのか、なにひとつ知らない。
もう一度、待ってと叫んだ。もどかしい。なぜ、声が出ないのか。
おかしなことに、もうずっと昔からそばにいたかのように、彼女から離れがたかった。
置いていかれたら、今度こそ寄る辺をなくしてしまいそうで、必死に手を伸ばす。
ああ……行ってしまう。
何度も感じたことのあるその切なさに胸が締めつけられたところで――……目を開いた。
そこは日の光の差し込む、自宅のベッド。そこにもたれかかるように腕をついた格好で、うとうとしていたことを思い出した。
ああ、夢か。
夢だった。
いつもの落胆をし、ぼんやりとする視界で前を見た。次第に焦点を結ぶ。不思議なことにさっき行ってしまったはずの彼女が、ベッドの上で横になって、まん丸い目でこちらを覗き込んでいた。
ああ、なんだ。
いなくなっていなかった。
ここに、いた。
「……ああ、よかった、いた」
そうだった。
見つけたんだった。あの駅で。
見つけて、それから彼女の方から声をかけてくれたあの日まで、ずっとそばで見守り続けていたんだった。
そして今、この手の触れる場所にいる。
彼女の看病をしていて、ついうとうとしてして、あのときの夢を見ただけだった。
宙に浮いていた小さな手のひらを、今度こそ離さないように重ねて握る。
あったかい。間違いなく、ここにいる。
それで安心して、また重たいまぶたを下ろした。
大丈夫。もういなくならない。探さなくてもいい。ここにいるから。
だからもう、二度と離さない。離したくない。
早く彼女の隣が、自分だけの指定席になればいいのに。
この苦しい世界で、彼女だけが僕の生きる希望。
「なんですか、その堂々としたストーカー宣言は」
「本当にはじめは、遠くから見守るだけだったんですよ? だけどレンズ越しに見守り続けていたら、月さんの隣の部屋が空室になったので、チャンスだと思って入居しました。思い切って距離を詰めてよかった。こうして好きな人が腕の中にいるという幸せを今、噛み締めています。――生きててよかった」
「全然腕の中にいませんけれど。嘘をつかないでください。普通にソファに並んでますから。……でも、生きててよかったのは、その通りですけれども」
「月さん……!」
感極まって抱きついてくる高城さんに呆れながら、好きなようにさせた。
盗撮はもう、ホームビデオだと思って諦めよう。
感動的に話す高城さんには悪いけれど、おぼろげにしかその記憶がないことを、わたしは一生胸に秘めておくことになりそうだった。




