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 見上げると首が痛くなるほどのオフィスビルの前で、わたしは自らを奮い立たせていた。


 わたしの前からいなくなった高城さんだったけれど、さすがに会社には毎日通っているだろうと思い、玲一くん経由で大家さんに高城さんの勤め先を教えてもらった。大家の孫の友人という立場を最大限に利用して、入居者の職場の住所を入手したわたしは、ここに立っている。


 しかし会いに来たはいいものの、どうしていいのか……。


 受付に行っても、アポイントがないから、さらっとあしらわれて終わりそう。


 そもそもこのビルに入っているどの会社に勤めているとか、役職とか部署とか仕事内容とか、そういったものを、わたしはこれまでなにひとつ聞いていなかった。


 わたしは彼のことを知ったつもりで、なんにも知らなかったことに少なからずショックを受けた。


 そしてこんな大きな会社に勤めれていることに、まさか、と驚きもあった。てっきり小さな寂れた会社の窓際でちまちまパソコンを打ちながら加齢臭のする脂ぎった部長とかにへこへこしているのだと想像していただけに、現実とのギャップでめまいがする。


 だって、そんな高城さんは、知らない。


 アパートの廊下で倒れているような、弱い高城さんしか、わたしは知らない。


 明らかに場違いなわたしは、入り口に近づくことすらためらわれ、あたりをうろうろしていると、一台の車が道の脇に停められた。


 運転手の人がまず降りて、後部座席のドアを開ける。降りて来たのは、背が高くやたら男前で意志の強そうな(俺様っぽい)三十代くらいのスーツの男性と、秘書らしい女性。彼はお偉いさんなのか、それに合わせて、会社の方から数人、出迎えに出て来た。


 そしてその中に、マスクに前髪の重たいメガネの男がいた。


 車から降りた男性は不機嫌そうで、周りの人たちはきびきびと用件を話しかけていて、忙しそうで、マスク男ははたから見ても浮いていた。


 荷物を押しつけられて、おろおろしながら、群の最後尾に少し離れてついて行く。


 そんな姿を見て、無性に、ほっとしてしまった。


 高城さんは高城さんだった。


 お偉いさんや女性秘書にあれこれ雑用を押しつけられて、右往左往する姿が安易に浮かんで、ほっこりとする。


 それにしてもみなさん、目が回るほど忙しそうだ。下っ端の高城さんでも、話をする時間はとても取れそうにないだろう。


 諦めて踵を返そうとしたとき、チェーン店のコーヒーを持って帰って来た女性社員たちのひそひそ声が聞こえてきた。


「……――ねぇあれ、あそこの社長の弟でしょう? 全然似てないよねー。なんか暗いし」


「ああ、仕事できなさそうだもんね、あの人。絶対コネ入社だし。秘書課の人たちも他の社員も、容赦なくこき使ってるのに社長なにも言わないし、実は嫌われてたりして?」


「あはは、そうかも。でもあれはもはや、仕事雑用係だよね〜。ウケる」


「部屋もひとり別だって噂だしねー。あ、それにちょっと聞いてよ。この間なんか、廊下歩いててすれ違ったら、慌てて男子トイレ駆け込んでって」


「やだあ、キモい〜」



 あたたかくなっていた気持ちが、真っ黒に塗りつぶされて、胸が締めつけられていく。彼女たちの悪意ある言葉のひとつひとつが、わたしの足をその場に縫い止めた。


 頭ががんがんする。動悸がして、吐きそうで、それで、それで――、



 死ぬほど、腹が立った。



 腹わたが煮えくり返るくらいに。



 いくら美人でスタイルがよくて仕事ができるのだとしても、人をバカにして笑う彼女たちみたいな、あんな人間には、なりたくないと思った。心底。


 こんなの高城さんのことを知らない人の、ただのたわごとだから、無視してしまえばいい。彼のことは、わかってくれる人がわかっていれば、それでいいのだから――……、




「気持ち悪かったのは、お姉さんの方だったんじゃないですか」




 気づいたときにはそう、口から飛び出していた。


 しまった。言ってしまった。


 わたしの言葉に、彼女たちは怪訝そうにこちらを見た。けれど、もうだめだ。一度話しはじめたら、止まらない。


「お姉さんの香水の匂いがきつすぎて、気持ち悪くて、トイレに吐きに行ったんだと思います」


「……はぁ? 気持ち悪いとか、なに? なにこの子、知り合い?」


 彼女たちは顔を見合わせて、お互いに知らないと首を振る。


「雑用係でもなんでも、がんばっている人を悪く言うのは、大人として情けなくないですか?」


「なんなの? なにこの子、気持ち悪いんだけど」


「あ、わかった。あの男の彼女とかじゃない?」


「うっそ、彼女いたの。というか、お似合い〜」


 けらけらと嘲笑されて、やっぱりこの人たちにはなにを言ってもだめなんだなと思ったら、すっと頭が冷めた。言葉の通じない相手とこれ以上の会話は無駄だと、永遠に諦めた。


 ごく小さくため息をついて通りすぎ、ふとビルの方を見ると――目が合った。


 透明なガラス越しに、マスクの彼と。


 あ、と高城さんの目が見開かれる。なんでここに、というように、その場でたじろいでいる。


 分厚いガラスが隔てられていてよかった。あんなひどい陰口が彼の耳に入らなくて。たとえ聞き慣れているのだとしても、傷つかないわけじゃないから。


 仕事、がんばってね。


 そう言いかけて、わたしの乾いた唇は、無意識のうちに別の言葉を紡いでいた。





『――好き』





 大丈夫。どうせ聞こえない。ごくごくかすかな口パクだ。


 だけど高城さんは、陰鬱な前髪と眼鏡の奥で、こぼれんばかりに瞠目していた。



 え、嘘、まさか……、読み取った?



 真っ赤になって口を押さえたわたしは、その場から逃げ出した。


 くすくす笑いが追いかけてきて、けれどそんなものまるで耳に入ることなく走る。


 どうやって帰って来たのかも記憶にないけれど、アパートに戻ると、大急ぎで荷物をまとめた。


 この際、しばらく実家に帰ろう。奇しくも、行くのにためらっていた同窓会がちょうどいい口実になった。


 高城さんの返事を聞くのが、こわい。



 なにも言わないで、なかったことにしてほしい。



 気まずさだけしか残らない失恋なんて、人生に一度きりで、十分だった。










 実家に帰ると、雑種犬のゴローがしっぽが吹っ飛びそうなほどふりふりし、飛びついてきた。癒しだ。


 元気そうでよかった。もう、年だから。


 ひとしきりなでて舐められて再会を喜び合い、中の様子をうかがいながらそろりと玄関に足を踏み入れたところで、


「おい」


「わ!」


 反射的に背筋をぴんとさせて振り返った先で、訝しげな顔をした兄がゴローを抱っこして立っていた。


 そして侵入者が妹だとわかるやいなや、肩をすくめて息をついた。


「なんだ、月か。変な入り方してたから、ドロボーかと思った」


 抱っこを嫌がるゴローの頭に頰をすりすりさせながらそう言うお兄は相変わらずで、苦笑いになってしまった。


「いくら田舎だからって、鍵開けっぱなしで外出するのはどうかと思う」


「番犬がいるだろう、番犬が。なぁ、ゴロたん」


 下ろしてもらえずふてくされた顔のゴローは、律儀に、うーと低く唸った。


 周りは一面田畑で、横には広いけれど平屋の家屋は築年数が半世紀を超えている。もとは祖父母の家で、いわゆる金目のものが眠っていそうなお屋敷ではなく、ただ古いだけの家。警戒すべきはむしろ野菜ドロボー。


「ゴローはともかく、お父さんとお母さんは? 出かけてる?」


 いつも帰って来ると畑にいる父と母が今日は見当たらず、家の中からも物音がしないから、気になっていたのだ。


 お兄はゴローをようやく離してやり、難解そうにどこか遠くに目を向けた。


「なんか……、お姉が結婚するとかしたとかなんとか言って、慌てて出ていったとか。……ちなみに、お隣さん談」


「お隣さんってまさか、九十間近のおじいちゃんじゃ……?」


「だから信憑性がいまいち、な」


 うーんと悩んで、二秒でやめた。理由はどうあれ事件や事故ではないのだからよかったと思っておこう。それに両親がいないならいないで、心置きなくだらけれる。


 久しぶりの畳に寝そべると、肉球を濡れタオルで拭かれたゴローも隣に伸びた。頰をつけたこのい草の匂いと冷たさで、実家に帰って来たという実感がわく。


「お兄、今日学校休み?」


 ひとつ年上のこの兄は、実家から通える大学にさくっと進んだけれど、わたしは微妙に実家からは遠い大学しか受からなかったせいで、仕方なくひとり暮らしをしている。


「ん、休み。そっちは?」


 お兄は冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを飲み、ゴロー用に水とおやつを与えながらも、なにかあったのかとその目が訊いている。


「ああ、うん。同窓会があるから」


 ここでも同窓会を言い訳にさせてもらう。男兄弟に相談できる案件ではないから。


「同窓会? また中途半端な時期に……」


「ちゃんとしたのじゃないから。どうせ、幹事の子が彼氏だか旦那だかの自慢したくて開いたんじゃない?」


 お兄は、自分なら絶対行きたくない、というしかめっ面をしている。


 わたしだって本音では行きたくない。


 だけど出席すると言ってあり、そしてアパートには今、戻りづらい。


「それ、同窓会っていうより、合コンみたいなものになるんじゃ……。――おい。もし、変な男に言い寄られそうになったら、」


「言い寄られないって」


 しかも、変な男、って。同級生しかいないのになにを言っているんだ。年子なんだから、お兄も知っている人ばかりだろうに。


 だけど、と不満げなお兄は、せめてゴローを連れて行けないのかという、あまりにも突飛で非現実的な提案をする。いくらなんでも、それは無理だろう。小型犬でも無理だと思う。


 それにわたしは言い寄られはしない。確実に。


 わたしの表情が沈んだのをめざとく察知したゴローが、指先をためらいがちにペロリと舐めた。なんてできた子なんだろう。


「……というか、それ以前に。おまえ、変なやつとつき合っては、いないよな?」


 なんだろう。お兄の空気が、とんと重くなった。


 お姉の結婚話が原因だろうか。妹まで嫁いでしまったら、さすがに寂しいとか?


「いないよ」


 安心させるように言ったのに、追及の手は止まなかった。


「変な男につきまとわれてたり、していないか?」


「……まさか」


「なんだその間」


「……。――あ。そうだ。わたしもうそろそろ、同窓会の支度しないと」


 わたしによく似た半眼から逃げるように、自室へと駆け込んだ。


 妹が失恋したことは、なんとなく、言わない方がよさそうだ。






「あ、そうだ。お兄ぃ、今月の売上金」


 両手を出すと、一万円札が三枚乗せられた。売上金からもろもろ差し引かれた今月のわたしのお小遣い。


「不思議な世の中だよな。あんな枯れた花が売れるんだから」


 せめてドライフラワーと言って。


「うちの花しかだめな人だっているんだから、売れ行き好調なのは喜ばしいことでしょう」


「…………それ、男か?」


「同窓会の準備しないと、っと」


「月」


「遅刻遅刻ー」


「月!」


 うちの兄は少し、小うるさい。




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