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 あれからと言うもの、顔を合わせづらく避けるように生活していたら、隣と接する壁から、時おりノックの音が響くようになった。



 ――コンコンコンコンコンコン。



 はじめこそポルターガイストだと思った。


 しかし残念なことに犯人は人間だった。間違えた。残念な、人間だった。


 ノック六回は、ごめんなさい、の意味らしい。


 なぜわかるのかと言うと、郵便受けにそう記された紙が入れられていたからだ。一応捨てずに読んだ。そして、読んでから捨てた。当たり前だ。そんな解説書、誰がいる。


 高城さんは会社勤めなので、ある程度会わないように行動することは簡単だった。朝は早く出ず、夕方前か、もしくは夜遅くに帰宅すればいい。あとは、用なく外出しないとか。


 ここ二、三日で避けられていることを理解した高城さんだったが、めげずに変わった交流してくるようになったのは誤算だった。


 たまに蹴りたくなるのも、不屈の精神で耐えている。


 ――コンコン。(月さん)


「……」


 ――コンコンコン?(元気?)


 解説書にはなかったことまでわかるようになってしまった自分が痛い。痛すぎる。



 ノックで会話とか……!



 返事は一度も返していないけれど。



「はぁー……」


 

 両手で包んだ頰が火照っていて熱い。


 自覚してからというものずっとこの調子で、そんな自分にさらに引く。


 相手は盗撮魔で、ロリータにも手を出している疑惑のある、まともとは言えない男だ。


 それでも、変態っぽいところもあるけれど根は優しくて、わかってもらえなくても相手のことを考えて行動したり……まあ、いいところもある。かわいいところも。


 単にわたしの目にフィルターがかかっているのかもしれないけれど。


 壁に手のひらを這わせると、また音がした。四回は……好きです。



 それは口で言え。



 面と向かって言え。



 壁に頼るな。



 高城さんの好きが友情程度なだけに、わたしの心に響がない。平気で愛とか口にする男だ。


 下手に期待して裏切られるのも嫌だから……って、期待?


 高城さんに、なにを期待するの、わたし。


 ……結局、話をしなくては、なにもはじまらないし、終わらない。


 わかっている。いつまでも意地をはっているわけにはいかないことぐらい、わかってるいるけれども……。



 ――コンッコンココン!



 ……なんか、はじめての出して来た。やたらと激しいのを繰り出して来た。その謎のスタッカート、解読不能。


 さすがに近所めいわくだと意味でガツンと叩き返したら、ようやく沈黙した。


 というか、この状況、楽しんでませんかね、あの男。


 悩んでいるわたしがバカみたいに、呆れるほど高城さんは高城さんだった。









 いい加減、意地を張るのをやめないと。


 そう思ったのは、アパート内で夜な夜な不気味な怪音がするという怪談話が囁かれはじめたからだった。


 このままではいけないと心を改めた。みんなのために。


 土曜の朝から飽きもせず子供たちの水鉄砲に襲撃されていた高城さんは、無言でその場に立ち止まり、水滴をしたたらせながら鞄からなにか取り出そうとしていた。その隙を狙い、勇気を振り絞って背後から呼びかけた。


「――高城さん!」


 わたしの声に、ぱっと輝く笑み(サングラスマスク有り)をした彼は、なにかを鞄へと押し戻し、わたしの方へと駆け寄って来た。


 う……。頰が熱い、ような……。


 というか、子供たち相手に、なにで対抗しようとしていたのか。危険物だったら即取り上げないと、と、寄せていた眉が、なぜかそれほど厚くないけれども男性らしい胸板にこつんと当たった。


「月さん!」


 外で、しかも子供が見ているところで、抱擁はやめて。


 わたしが嫌がっているのを感じ取ったのか、彼はすぐに頭を垂れて距離を取る。


「すみません……」


「……わかればいいです。歩きながら話しましょう」


 そそくさとその場を離れるわたしに対して、高城さんはよゆうの笑顔だ。


「デートですね」


 違います。


 どうしてそうなる。


「大事な、話し合いです」


「……? ええと、挙式は神前式がいいとか、そういうことですか?」


 なにがどうなってそうなった。


「全然違います。的外れもいいところです。だいたい順序が飛びすぎですよ。いつプロポーズしたんですか、いつ」


「え? 昨日の、ノックで」


 ああ、あの激しかったやつ……。目が遠くなる。


「はいって返事くれましたよね?」


 勝手な解釈。


「もう、冗談はいいですから、きちんと話を聞いてください」


「わかりました。でも、その前に。――この間はすみませんでした」


 慇懃に頭を下げられて、勢いが削がれた。


「この間って」


萌衣もえが失礼なことを言って」


 まず、人の部屋に無理やり押し入ろうとした件について謝ろう、そこは。自分の所業は後回しかい。


 そしてあの子の名前、萌衣って言うのか。


 へえ。そう。どうでもいい。


「かわいい子でしたねー」


 自分でも大人げないと思うくらいに、棒読み。それに気づかない鈍感な高城さんは、嬉々として萌衣とやらについて語る。


「そうなんですよ。妖精みたいにかわいいって、学校で評判なんですよ。生意気ですけど、根はいい子で」


「…………根がいい子が人のお礼の品を捨てるんですか」


「え? お礼……?」


 やっぱり知らなかったか。


 でも胸にもやもやを溜め込みすぎたせいか、一度口にしてしまったせいで嫌味となってあふれ返る。


「看病のお礼。あんころ餅でしたが、次の日ゴミで捨ててありましたけれど」


「え」


「それって、わたしの好意なんて、いらないってことですよね」


 意地悪なわたしの言い草に、高城さんはみるみる蒼白となっていく。


「そ、そんな、全然知らなくて……、すみません。――でも、月さんがくれるものなら泥団子だって食べますし……!」


 泥団子食べさせるなんて、どんな性悪女だ。わたしのことなのか。


 この人の中でわたしは、恩人に泥団子を突き出すような女なのか。


 で、あの小娘は妖精。なにそれ。


 彼に八つ当たりしようとしていた悪意の塊が、一気にしぼむ。


 だんまりを決め込んだわたしに、高城さんは困り顔で、ただ隣を歩き、公園でひとり分間を空けて、ベンチへと腰かけた。


「……大事な、話って……?」


 ためらいがちに尋ねられ、わたしは無意識のうちにこう答えていた。


「恋愛相談……みたいな」


「れ、ん……あい?」


 本人相手に恋愛相談というのも変な話だけれど。


 だけど恋愛の話で、彼にいろいろと訊きたいことがあるのだから、要約すると恋愛相談だと思う。


 ちらりと横を見やると、高城さんはどんどん前かがみになっていき、完全に額が膝にくっついた。なんなんだその体勢は。


「それは一体……」


「……いいえ、気にしないでください。今とっても、泣きたい気分なだけなので」


 唐突にどうした。


 隠れている顔をさらに隠すように、膝に突っ伏す高城さんに、わたしはふと、なにか既視感のようなものが脳裏にかすめた気がして、首をひねる。



 あれ?



 こんな状況、なんか、前にあったような……。



「彼ですか?」



 なにか掴めそうだったとき、高城さんの震えた声で引き戻された。


「彼?」


「この間、……キスしてた」


 玲一くんのこと?


 だからキスしてはいないって、と言いかけたとき、高城さんが勢いよくがばりと頭を上げた。



「応援します」



「え?」



「あなたが彼を好きだと言うのなら、僕はそれを、応援します」



 ……は、い?



 どうしよう。うまく頭が働かない。



 応援をする?



 それって、……どういうこと?



「これまでつきまとって、すみませんでした。……もう、やめます」



「え……やめるって、なにを……」



「好きと表現することを。目障りならなるべく顔を合わせないようにします。誤解されないように」



 なんで、そんなことを言うの。



 わたしはもう、いらないってこと?



「あ! 急用ができたので、これで失礼します!」



 うんともすんともいわなかったスマホを見てから、高城さんはわざとらしく立ち上がると、一度頭を下げて、一目散に走り去って行った。



 わたしはそれを、呆然と見送るしかなかった。







 恋を認めた瞬間、失恋した。



 あんなにコンコンしていた壁は、今はすっかり静まり返っている。


 高城さんは、玲一くんのことを誤解していた。


 だけど、本当に好きならば、そんなにすぐに身を引けてしまうものなのだろうか。


 つまるところ、その程度だったのだ。しょせん。


 それなのにすっかりその気になってしまって、バカみたいだ。



 でも……。



 好きって、言っておけばよかった。



 今さらすぎるけれど。





 顔を合わせないようにすると宣言した通り、高城さんは、わたしの前からその姿を消した。

 





 ――最近アパートで変な物音がすると噂になっています。お心当たりがある方は、大家の三角までよろしくお願いします。


「……」


 掲示板に貼られたその紙を一読してから、そっと目をそらした。


 わたしは現実から、目を背けた。



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