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今日はお弁当がなかった。
忙しくて作れなかったと、謝罪するメモがあったけれど、本当かどうか。
久しぶりの定食をつついていると、玲一くんが妙に口の端を引きつらせながら、そろりと隣に腰かけてきた。
「ル、ルナちゃん……? なんでそんな、やさぐれてるの? こんだけ席埋まってるのに、ルナちゃんの周り人いないんだけど……」
わたしはぐるりと周囲を見渡す。昼どきで混雑する食堂内。わたしのいるテーブルの周りだけ、がらんとしている。
「たまたまじゃない?」
「……絶対たまたまじゃねー……。――ねぇ、なんかあった? 今日お弁当じゃないみたいだし。お兄さんに相談してごらん? ほらほら」
誰がお兄さんだ、一月生まれ。わたしは十月生まれだ。
「別に、大したことない。女の子の日」
「え、それ言っちゃう? 言っちゃうの? 乙女の恥じらいはどこに?」
「そんなもの、ゴミ捨て場に捨ててきた」
そう言ってから、自分で自分の地雷を踏んだことに気づいて、また憤怒が蘇ってきた。
今日の朝のことだ。可燃ゴミをゴミ捨て場に出したとき、先に積まれてあった半透明の袋の中に、わたしはそれを見つけた。昨日渡したはずのあんころ餅が、未開封のまま無残にも捨てられているその姿を!
食べものを粗末にするだなんて、あの小娘……!
「ルナちゃん……。女子大生にあるまじき顔してるけど」
「この、あんこの恨みを晴らすかどうか……」
「……さっぱり意味わかんないんだけど……うーん、とりあえず、あまいものが足らないってことなら、帰りに近所の甘味処寄ってく? 期間限定白玉抹茶パフェ、今ならあんこ増量中!」
そういえばもうそんな季節か。
よし、あんこの仇はあんこ取る。
「行く。あんこ増し増しで」
「おーいいねー。あんこ増し増しで……って。あんこって増し増しって言うっけ?」
知らん。
「あ、でも。玲一くん、彼女はいいの?」
「今彼女はいないから、平気」
他になにがいるのか。これは訊かないのが正しい。
玲一くんは彼女がいるときは、ちゃんと彼女に配慮して、わたしを含めた他の女の子と二人きりで会うことはしない。そんなところは、一応誠実と言えなくもない。
玲一くんにはわたしの比にならないくらいの人間づき合いがあるので、それぞれ用事を済ませてから、現地集合にした。
甘味処でメニュー表を開きながら待つこと五分、遅れてきた玲一くんは、座るなり水を一気に飲み干した。
「そんな走って来なくてもよかったのに」
「いや、逃げて来ただけ」
なるほど。
「他の子には悪いけど、今はルナちゃんとパフェな気分だったから」
玲一くん……。
「ルナちゃんって、全然まったくこれっぽっちも俺のタイプじゃないから、素でいられて楽だし」
……玲一くん。
「わたしも玲一くんはタイプじゃないから」
「そうだよねー。銀行強盗みたいな人が好きなんだもんねー」
そんな人がこの世にいてたまるか。
にやにやしながら抹茶白玉パフェあんこ追加トッピングをふたり分注文する玲一くんに、まず一言言っておかねばと口を開いた。
「わたしに好きな人はいません」
「あ、その頑なな言い方。やっぱりなんかあったわけだ。浮気? NTR? 婚約破棄?」
玲一くんは、うきうきしながら身を乗り出して来た。
人のことを言えないけれど、彼はネット小説(とりわけ女性向け)を読みすぎているきらいがある。だからわたしと仲よしなのだけれど。
「鬱展開は好みじゃないから、ざまぁ希望で。クズヒーローとビッチヒロインを徹底的に潰そう。すかっとするから。俺が」
「……」
なんの話をしていたか、忘れそう。
これ以上変な方向へとかき回されないように、かいつまんで昨日のことを話すと、玲一くんはパフェを食べていたその手を止め、おもむろにスプーンをことりと置いた。
「まんじゅう持ってったら部屋に他の女がいたとか、そんなことは置いといて、まずおかしいのは、まんじゅうだから。なんでまんじゅう? なめてる?」
まさかまんじゅうでキレられると思わなかった。
玲一くんだってまんじゅう好きなくせに。それに、正確にはあんころ餅だ。
「しかもひとり暮らしの男相手に八個とか。冷蔵庫の奥でカビ生えて終わりだから」
「あんこ増し増しのパフェ食べてる人に言われても説得力ないよ」
増し増しというか、盛り盛りだ。
「そういうことじゃない。ルナちゃんはなにもわかっていない。あんこ愛してるからこその、この俺の怒り。わかる? あんこを愛していると明言していない相手になぜまんじゅうを持っていったのか。捨てられていたことの原因。それすなわち、ルナちゃんのせい!」
どんな理屈だ。
「ルナちゃんが冒涜したあんこに、いや、すべての小倉に謝れ!」
「……ごめん」
勢いに負けて謝ってしまった。
「よろしい。だいたいお礼なんて、ありがとっ、チュ! とかでいいんだよ。タダだし」
タダですけれど……。
「そんな簡単に……キス、とか」
「ぬるい! キスは挨拶!」
ずいっと顔を寄せて来た玲一くんに、すかさず机の下で足が動いて、脛を蹴飛ばした。まごうことなき正当防衛だった。
「いっ……たっ! …………ほ、ほっぺにだったのに……」
うめきながらうずくまる玲一くんに、慈悲は与えない。自業自得だ。
「ほっぺにでもだめ。それに、今は彼女はいないみたいだけれど、他の人に悪いでしょう」
なにがいるのかは未だ不明だけれども。
「そこは、全然大丈夫なんだけど」
「わたしが嫌なの。それに、誰かに見られて誤解でもされたら最悪――」
そこでわたしは言葉を切った。
なにげなく見やった木製の格子窓。そこに、ガーンという効果音を背負って立っている高城さんがいた。窓の向こうで、わなわなしながら立ち尽くしていた。
家のご近所だから、こんなこともある。
しかしまた、間の悪い。
静かに顔を玲一くんに戻し、スプーンの先で外を指す。
「ほら」
見なさい。玲一くんのせいで、変な誤解が起きた。猛省してほしい。
「……えーと? 強盗が目星の店を物色しているようにしか見えないんだけど……?」
「本物の強盗があんな仔犬みたいに震えているわけないでしょう」
どんな気弱な強盗だ。
「えぇっ!? あれって、武者震いじゃないんだ……? てかなんか俺、めちゃくちゃ凝視さてるんだけど。あの二、三人人殺してそうな強盗相手に、仔犬って言えちゃうルナちゃんがすげぇ気がしてきた」
尊敬の拍手を受けながら、もう一度顔をあちらへと戻す。高城さんが格子を握ってこちらを見つめていた。それがまた、牢の中の凶悪犯に、見えなくもない。
なにか訴えているようだったけれど、無視しておいた。パフェが溶ける。
人の心を弄ぶ男なんて、嫌いだ。ふん。
甘味処で玲一くんと別れて家に帰ると、予想通り玄関前にいじけた体育座りの脱獄囚がいた。
「じゃまです」
足蹴にしてやろうかと思ったところで、下から沈んだ声がした。
「さっきの、誰ですか」
それはむしろこっちの台詞だ。昨日家にいた子は誰だ。
だけどなぜかそれを訊くことができないわたしは、自分にイライラしながら、八つ当たりで高城さんにすげなくする。
「誰でもいいでしょう。どいてください」
高城さんは上目遣いぎみにすがる目つきでこちらを見上げて来て、わたしはそんな彼をにらみつけた。
「わたしの交友関係、いちいち報告しないといけない義務でもあるんですか。…………だいたい自分はっ、」
胸に溜まっていたものが口から飛び出しかけて、ぐっとこらえた。これではこの男と同じことを繰り返しているだけだ。これでは平行線のままだ。
すーはー深呼吸をして、心を保って、いつも通りの口調を心がける。
「ただの友達です。だから、どいてください」
「……友達」
「そうです。友達」
「男友達ばかりですか……。へえー……そうですかー」
なんなんだ。わたしが男好きみたいな、その言い方は。高城さんに非難されるいわれはない。
「たまたまさっき一緒にいたのが彼だっただけで、女友達もいます。さっさとどいてください」
ちょっとつま先で蹴ってみるも、高城さんは頑として動かず。
「さっきの彼、イケメンでしたね。付き合う可能性のある、友達ですか? なんか……キスしてたし」
してはいない。ぎり。防いだ。
角度的に見えなかったのかもしれないにしても、浮気を咎められているみたいで気分はよくない。
自分の方こそ、ロリータを部屋に連れ込んでいたくせに。あんなかわいくて、それに、親しげに名前なんか呼ばせて、それで――……。
「――惇稀」
「……え?」
あの子のことを考えていたら、つい無意識に高城さんの名前を口にしてしまった。
どうしよう。恥ずかしすぎる。
「や、違っ、今のはなしで!」
赤くなった顔を必死に腕で隠しながら鍵を開け、高城さんを突き飛ばして逃げ込んだのだが、
「ちょ、ま、待って! ――なしにされてたまるかっ!!」
高城さんはまるで押し入り強盗のように、ドアが閉まる直前に足を滑り込ませて、無理やり侵入しようとする。それを防ぐべく、わたしはドアノブを必死に引っ張る。
ぐぐぐ……。
言うまでもなく力の差は歴然。
……そうだ。押してダメなら引いてみろ。
その逆も、あってしかるべきだろう。
引っ張る力を、一気に押す力へと変換する。するとふたり分の力を吸収したドアは、長身の高城さんを、いともたやすく吹っ飛ばした。
壁にぶつかって、くずおれる憐れな男。
そんなにうまくいくと思っていなかっただけに、ほんの少しだけ同情心が生まれた。手を差し伸べようと踏み出したとき、わたしたちの攻防が騒々しかったのか、どこかの部屋のドアノブがガチャリと回された音が聞こえて、反射的に身を引いてしまった。
動いたドアは隣、つまり、高城さんの部屋のドアだった。様子をうかがうように、ゆっくりと開かれていく。
そして現れたのは、あの美少女だった。
「なに、してるの……?」
警戒心を携え出て来た例の美少女は、廊下に転がる屍じみた男を目にすると、血相を変えてスリッパのまま駆け寄った。
「ななななにがあったの!?」
高城さんは、がくがくと震える指先で、まっすぐわたしを示した。
それはまるで、あいつが犯人だ、と言わんばかりで。
案の定、美少女に思い切りにらまれた。涙目で。
「ひどい……ひどいよ! ちょっと格好がそれっぽいからって、押し入り強盗扱いするなんて!」
そんなこと、言われなくてもわたしが一番よく知って――……いや、一番じゃなかったのか。
どうやらわたしは、恥ずかしいことに、わたしが彼の一番の理解者なんだって、うぬぼれていたらしい。
反論したくても、そんな羞恥が邪魔をする。彼に顔向けできずに、ドアを握る力だけがどんどんこもって痛いくらいだった。
もうこれ以上、ふたりが一緒にいるところを見たくはない。
さっき高城さんは、わたしと玲一くんとの甘味タイムを見て、固まって、それから拗ねた。言ってみれば、それだけだった。
それって、友達を取られた、くらいの軽い嫉妬だったのではないか。
つまり、好きって、その程度のことだったのだ。
……それはそうか。わたしが彼の目にとまったのは、彼にとって無害な人間だったから。それだけだった。同じ条件で比べたら、男なら普通はかわいい方を選ぶに決まっている。
それなのに、わたしはこんなにも、悔しくて苦しい思いをしている。それって……不平等だ。
そっちがはじめにわたしの周りでちょろちょろし出したのに、なんで今は、わたしの方が……。
というか、やっぱり――。
色恋沙汰とか、めんどくさい。
だけどそれを思ってしまった時点で、わたしの負けで。
認めたくはないけれど、わたしはそこで情けなく倒れている銀行強盗みたいな男のことが、腹立たしいくらい、嫉妬するくらいに、どうしようもなく好きになっていたのだった。
「じゃあ、ルナちゃんの好みのタイプって?」
「改めて聞かれると難しいけれど……まず包容力のありそうな年上で、声を荒らげたりしないような穏やかで優しい人で、わたしの趣味を尊重して笑って優先してくれるような人で、でも、あんまり完璧じゃない人」
「……それってつまり、ルナちゃんが読書に没頭している間、口出しせずにそばでにこにこ見守っていることこそが趣味な、年上の残念な男ってこと?」
まとめ方に悪意を感じる。
「そんな変な人いる?」
「……さあ」
ぱっと思い浮かんだ人がいたことは胸に秘めて、黙っておいた。




