10
思春期に恋というものに恋をして、こてんぱんに叩きのめされたわたしは、それ以降異性にときめくことなど一度もなかった。そう、ただの一度も。
恋愛に冷めているわたしが恋話に混ざることもなく、講義がはじまるまで文庫本を読んでいると、隣に誰か座った気配がしたのでそちらへと目線を移す。
今日も今日とて万人ウケするイケメンである玲一くんが、その面立ちを損なわないにやにや顔で机に肘をつき、こちらを眺めていた。
対してわたしはと言えば、ときめきのとの字もなく、無言で活字へと目を戻した。
「ちょ、無視!? ねーねー、ルナちゃーん?」
彼は両手でわたしの腕を掴んで揺すり、耳に直接叫んでくる。うるさい。諦めて本を閉じた。
「なにか用?」
「俺は用がないと呼んじゃだめなのかよー……」
べたりと机にうなだれる玲一くんは、夏場のだれた動物のようだった。
「イケメンはイケメン同士、もしくは美女となかよく遊んでおいで」
「うーん……大学内での男友達がそもそも少ないし、それに美女は……こわい。やつら、俺の顔と身体目当てのくせにプライド高いから、頭悪いこと知ったらすぐ、失望したっていう蔑みの目で見下して来るし」
偏見。
イケメンと頭悪いことは認めるのか。よく大学に受かったね、と毎回思う。
おいおいと泣きまねをする玲一くん。
きっとそういうところだよ。
「それで、本当になにも用がなかったの?」
尋ねると、玲一くんは、はた、と用件を思い出したのか、すっぱりと泣きまねをやめた。
「あ、そうそう。昨日、三〇八号室の高城さん家に泊まったって本当? もしかしてふたり、できてる感じ?」
誰が、そんなデマを。
「人の趣味にとやかく言うつもりはないけど……あれは、ないわー」
高城さんではなく、わたしがドン引きされている。ゆゆしき事態だ。
「別に、付き合っていないから」
「付き合ってもいない男の家に泊まった方が、まずくない?」
「……」
玲一くんに言い負かされた。なんか、落ち込む。
「うわっ、やっぱり泊まったんだ。ばーちゃんの妄想かと思ってたのに」
それがおばあちゃんの妄想だった方がどうなのか。
「俺のルナちゃんが、あんな犯罪者みたいな男に汚されるなんて……」
いつ俺のになった。
「というのは冗談だけど、実際、つきまとわれてるとかだったらアパート内の風紀的にまずいから、真相を聞いて来いって。ばーちゃんが」
ああ、なるほど。そういうこと。
アパート内でもめ事を起こさないように、その芽があれば早めに摘んでおこうということらしい。
「それなら大丈夫。熱があるわたしに、つきっきりで看病してくれただけだから」
このあたりで高城さんのよいイメージキャンペーンでもしておかないと。
「本当に? それって、下心なしで?」
真意を探るようにぐっと顔を近づけてくる玲一くんを両手で押しやり、
「だから、そうだって」
それでもまだ懸念は完全に拭えていないようだったけれど、最後にはひとまず保留という形で引いていく。
「それなら、いいけどね」
よし、なんとか追及の手を逃れた。
「でもなんかあったら言いなよ。事故物件とか、マジ勘弁だから」
心配してくれてるかと思いきや、結局利益第一か。
しかもそれ、わたしが殺されている。
無残に殺されたのち、部屋に憑いている。
もし万が一あの部屋で命尽きたとしても、アパートにはめいわくをかけないよう気をつけないとと思った。
さて、体調も万全で迎えた休日。同窓会の日が迫って来ていることもあり、新しい服を買いに来たついでに、わたしは高城さんへの看病のお礼の品を探していた。
こういうとき、なにを渡すのがベストなのだろう。
ちょっとした食べものくらいだろうか。
だとしても、高城さんの好みを知らないので、なにを選んでいいか悩む。
無難に、お菓子か。でも高城さん、保存料がどうの着色料がどうのって、うちの姉みたいなこと気にしそう。
手作り……はないな。料理苦手だから。
ああ、だったら、挨拶のときに持ってきてくれた和菓子屋のまんじゅうにしよう。割高な分、原料が国産大納言小豆と砂糖だけというこだわりのあんこを使っている。
ひとり分って、四個くらいかな。
だけど四は縁起が悪いかもしれない。
悩みに悩んだ末に、
「……すみません。このあんころ餅、八個ください」
そのままお茶に呼んでくれる可能性もあるから、多めに。呼んでくれなくても、小さめだから、たぶん大丈夫だろう。
ショップの紙袋と和菓子屋のビニール袋を下げて、自宅へとの道のりを、いろいろ思案しながら歩く。
高城さんはまだ帰っていないだろうから、隣の玄関の開く音がしたら渡しに行こうか、とか。だけどそれだとずっと帰って来るのを待っていたことが丸わかりで恥ずかしいな、とか。そもそもあの人、あんこ大丈夫だろうか、とか。
アパートに着く頃には外は薄暗くなっていて、なにげなく見上げたわたしの部屋の隣は、予想に反して浩々と明かりが灯っていた。
帰って来ている?
三階まで階段を登って、一番奥。高城さんの部屋の呼び鈴を鳴らした。ほどなくしてドアが開いた。けれど、顔を出したのは怪しい銀行強盗などではなく、女の子。顔を見て、あっ、と思う。この間すれ違った、あの美少女だった。
髪をひとつにポニーテールにした彼女は明らかな部屋着で、シャーベットカラーのモコモコした上着と、短パンを履いている。長い靴下もモコモコだった。
つまり彼女は、新しい入居者などではなく、高城さんの知り合いで、遊びに来ているとかだろうか。
「……?」
こて、と首を傾げる仕草で、どちら様ですか、と問いかけている彼女に、わたしの方が首を傾げたい気持ちだった。高城さんと、どういった関係の子なのだろう。
「……高城さんは?」
「うん? 惇稀くん? まだ帰ってないよ」
惇稀くん、というのが、高城さんの下の名前だと気づくまでに時間を要した。
それからやっと、不在の二文字が頭に浮かんだ。
「……そう」
「うん、そう。お姉さん、なにか用?」
怪訝そうに下から上目遣いをされる。こっちが誰か訊きたかったけれど、この部屋に住人不在でも入れる人相手にそれは変だと思い、寸前で思いとどまった。
「隣の者です。先日ごめいわくをおかけしたお詫びに、と思って。これ、もしよろしければ……」
彼女は逡巡してから、わたしが不審者ではないと感じるものがあったのか、ためらいつつも一応袋を受け取った。
「ありがとう、ございます?」
「いえ。よろしくお伝えください」
軽く会釈をして、わたしは部屋へと戻る。平然さを装って。
靴を脱いで、手を洗ってうがいをして、鞄やらなにやら持っていたものをその辺に放り、ベッドにダイブして…………枕を殴った。
「あのっ、ロリコン変態盗撮魔っ……!」
あんな若い子に手をつけるなんて。信じられない。犯罪だ。だいたいあの男、年いくつだ。知らない。
しかも合鍵渡しているとか、名前を呼ばせているだとか!
なにそれ。彼女ですか。
本命ですか。
なんかもう、なんかもう……!
ムカつく!!
腹が立つやら悔しいやらで、枕を隣との壁に、思い切り叩きつけてやった。
「ルナちゃんさあ、男が部屋に女の子を上げて、本当に下心がなかったと思ってるの?」
「……事実、なにもされていないから」
「それ、本当かな。看病って言ったよね? 水を口移しで飲まされたり、意識ないときに着替えさせられて下着を見られちゃったり、いっそ移してしまえば治るとか言われて最後まで押し切られ――」
「てないから! 玲一くん、小説の読みすぎ」
「え? 俺、全部やったことあるけど?」
「……」
「やられたこともあるよ?」
わたしと玲一くんは住む世界が違うらしいと、改めて実感した瞬間だった。




