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 わたしの部屋のお隣の空室に、挙動不審な怪しい男の人が引っ越してきた。




 三階建てのアパート内におけるそれは、大事件というには小さかったけれど、主に子供を持つ奥様方を中心に、噂は瞬く間に広まった。


 それはそうだろうとしみじみ思う。


 まず彼は、かなりの長身。向こうにその気がなくとも、はるか上から見下ろされれば、否応無しに威圧感を与える。


 それに加えて、花粉の飛散する春先や風邪の季節でもないのに、外出時は常にマスク着用。額と目元を隠すような長めの前髪とだめ押しのサングラス。頭には暗い色の目出し帽をかぶり、黒いポストンバッグを抱えていく。


 近所の子供たちにつけられたあだ名は、銀行強盗。


 言い得て妙だった。


 スーツ越しの体つきや露出している首や手元から推察するに、およそだけれど、二十代から三十代。もちろんそれはわたしの主観であって、なんの根拠もない。


 そして怪しげなのは、その風体だけではない。


 廊下ですれ違っても軽く頭を下げるだけで言葉を交わすことなく、ほとんど逃げるように足早に去っていくのが常。


 生活の方もとことん謎に満ちている。


 普段から窓はほとんど閉め切っていて、洗濯物がベランダに吊るされたところを、わたしは一度として目撃したことはない。


 粗暴であるとか、クレーマーだとか、他人に迷惑をかけるような輩ではないものの、本当に隣に生息しているのか疑問になるほど生活音も少ない。それが逆にこわかったりもする。


 多少怪しくても、隣人としては上々では、と、無理やり自分をごまかして早一月。


 このまま平穏にお互いに無関心でいられたらいいのだけれども……と、思っていた。




 すっかりと日の落ちた帰り道、花屋の前で、不審な動きをする隣人を発見してしまうまでは。





 間近で言葉を交わしたのは、引越しのあいさつのときのみで、もちろんそれはサングラスマスク越しだった。


 いまどきめずらしく、菓子折持参で律儀に引越しの挨拶に来てくれたことに好印象を持ったのもつかの間、ドアを開けて目にした男に、わたしは一瞬フリーズした。


 ドアからやや離れた位置で立った男はそうとは気づかず、なぜかほんのりと耳を染めて口火を切る。


「隣に越して来ました、高城こうじろと申します。あの、これ、つまらないものですが……!」


「……どうも、ご丁寧に」


 慌ただしく頭を下げたマスク男こと、高城さんは、言葉に反して丁寧に菓子折をすっと差し出してきた。包装紙は、わたしの好きな近所の和菓子屋のものだった。このサイズは、季節の上生菓子セットかもしれない。


 平時なら浮かれただろうけれど……しかし。初対面でマスクにサングラスは、あまりに予想外すぎて、心底反応に困った。


 もしかしたら菓子折りの中身は上生菓子などではなく、拳銃とか、怪しい粉とか、ダイナマイトとかが出てくるのでは……と。


 それくらい、怪しさ満点だったのだった。


 まさかね、と動悸する胸をそっと落ち着かせて、菓子折を受け取ろうとした。けれどいかんせん、菓子折の距離が遠い。仕方なくサンダルを履いて玄関先から廊下に出ると、なぜか高城さんはじりっと一歩後退した。


 うん? と疑問符を浮かべ、一歩踏み出すと、彼はまた下がって、それをもう一度繰り返したあたりで、とうとう廊下の壁に後頭部と背中をしたたかにぶつけた。


 それが結構痛かったらしく、うぅ……、といううめき声がマスクの下から聞こえた。なにかの茶番かと思った。


「……なんの嫌がらせですか?」


「す、すみません、お気になさらず……」


 言葉とは裏腹に、普段履きらしき彼のスニーカーのつま先が、うちのお隣の角部屋、つまり彼の部屋を一直線に向いている。


 この人は、この場から逃げ出したくてしょうがないらしい。恥ずかしかったのか、耳もさらに赤くなった。これはもしかして、対人恐怖症とかなのだろうか。


 そう思うと、密かに感じていた恐怖心が、少しだけ凪いだ。


「そうですか」


 わたしは深く突っ込むことはせずに、菓子折を受け取るために俊敏に距離を詰めた。これを受け取らなければこの儀式が永遠に終了しない。お互いのためにならない。


 菓子折をほとんど奪い取るようにして、わたしは部屋へと引っ込んだ。一応顔だけ出して、ありがとうございますとだけ伝えると、ぽかんとする彼をそのままに、では、とドアを閉ざした。


 しばらくすると隣のドアの開閉音がかすかに聞こえてきて、きちんと帰ったことを知った。


 初対面の感想は、変な人が越してきた、というその一言に尽きた。



 その第一印象は今のところ継続中で。




 いいや。さらに悪化の一途をたどっている。――今現在。




 回想から帰ってきたわたしは、花屋の自動ドアの前を行ったり来たりする高城さんをなんとも言えない表情で眺めていた。ウィンウィン開閉させられている自動ドアの気持ちを考えてあげてほしい。そして普通に迷惑極まりない。


「……」


 怯えながら受話器を手に、今にも警察を呼びそうな店員さんが自動ドアの隙間越しに見えてしまい、無視しようかとも思ったけれど、隣人のよしみで仕方なく声をかけた。


「もしもし」


 びく、と激しく肩を揺らした高城さんは、ばっと勢いよくわたしの方を振り返る。なんとなくマスクの下で、あ……、と言った気がした。


 それはわたしがどこの誰だか、きちんとわかっているつぶやきで。


 それならばと、わたしは彼のスーツの袖を引っ張り、花屋の前から問答無用で移動する。つまんだ先から抵抗感は伝わってこなかったけれど、妙にびくついてはいた。


 ほどよく離れた場所で立ち止まって、向き合う。


「なにか用があるのにのっぴきならない事情で店内に入れないというのなら、わたしが代わりに行ってきてあげますから、これ以上お店の方にご迷惑はかけない方がいいと思います」


「え、あ……はい」


 わたしよりも頭ふたつ近く上背のある男が、わたしの説教にしゅんとする。素直に反省しているようだった。


「で、なにを買ってきますか」


「いえ、買うものは……」


 ないのかい。


 半眼になったわたしから、彼はひどく気まずげに目線をそらして、言葉を濁す。


 用がないのに、一体なんのために花屋の前をうろついていたのか。虫か。


 気にはなるけれど、突っ込んで話を訊くほど親しいわけじゃないので、


「そうですか。できれば、しばらくはあの店には行かない方がいいかと思います。……じゃあ、また」


 また、っていうのもおかしいけれど。


 そこで別れたはずだったのだが、いかんせん目的地は一緒なので、後ろから高城さんがつかず離れずの距離感を保ってついてくる。はたから見たらストーカーか、変質者だ。


「……あの」


 気まずさに負けたわたしが足を止めて振り向くと、また彼がびくつく。こっちが悪いことをしている気分になるから、毅然としていてほしい。


「同じところへ帰るんだし、縦に並んで歩くのもおかしいので雑談して帰りませんか? ……嫌なら、いいですけれども」


「そんなっ、嫌ではないです! 全然! ……けど、あなたは……嫌ではないですか?」


「?」


「こんな……自分で言うのもあれですけど、怪しい男と一緒に帰ることに、抵抗がありませんか?」


 なんだ、自分で怪しいってわかってるんだ。


 そっちの方がだめな気もするけれど。


 彼は苦笑をしながら続ける。


「アパート内で嫌われているので……」


 決して嫌われているのではない。怪しまれて、おそれられているだけだ。


 しかしそれを言ってもなんのフォローにもならない。むしろダメージを与えるだけになりそうなので胸にしまっておく。


「全然抵抗がないと言えば嘘になりますけれど、お隣さんですし、(見た目怪しくても)悪い人には見えないので」


 楽観視しているわけじゃなく、悪人ならば、すでにわたしはどうにかなっているはずだから。


「……あまり、人を簡単に信用するものではないです」


 高城さんはぽそりと言って、肩をすくめる。それでも、隣人わたしに拒絶されなかったことに、ほっとしているようだった。黒いレンズの奥で、目元が和んでいる……気がする。


「悪い人だったらそんな忠告する前に、話しかけたりしていません。それとも、豹変するタイプですか?」


 マスクを取ったら狼に、とか?


 ……ないない。これまでの言動を見ていればわかる。この人は銀行強盗の皮をかぶった羊、もとい、人見知りだ。


 そんな風にのんきに構えていたわたしに、高城さんは不穏な響きを落とした。


「それは、どうでしょう」


 ……そのどうでしょうは、どう受け止めればいいのでしょう。


 わたしが返答に窮していると、彼は慌てて否定してきた。


「ち、違う! 違いますっ、ネガティヴな意味で……!」


 彼の言いたいことは、わたしにはまるで伝わらない。はあ、と生返事をすると、またしっぽを垂れたように消沈した。


 ちょっと会話をしてみても、やっぱり彼の挙動は怪しいままだった。


「……ちなみに、さっきの花屋の前で、なにをしていたんですか?」


「……ちょっと、挑みに」


 なにを挑むのか。自動ドアをウィンウィンさせることになんのメリットがあるのか。


 あの花屋になにか恨みでもあるのか。


 話せば話すほど、謎は深まるばかりだった。


「そう、ですか……。大変ですね」


 適当な返しに、高城さんは深々とした嘆息をもらしながら、ええ、とうなずいた。


 そして、気にしていなければ聞こえないほどのかすかな声で、ぼそりと続けた。いわく、わたしが、なんとかかんとか。うまく聞き取れなかったけれど。


 分析するに、わたしがなにがしかに関係しているらしい。謎の行動を邪魔したことへの苦言だろうか。


 するとわざとらしく、はぁー、とマスクの裏にため息をつく彼。


 イラっとしないこともなかったけれど、


「名前」


「え?」


「そういえば自己紹介をしていませんでしたよね? わたしの名前、蜂谷はちや(つき)です」


 あなた、と丁寧に言われると、なんとなく背中がむずむずする。


「お月さまの、月さん、ですよね」


「はい」


 月と言えばその月なのだけれど、それをすんなりと言い当てられたことが意外だった。表札出していないのに。


 ……深く考えないでおこう。


「素敵な名前ですね」


 そうだろうか?


 せめて読みをかわいくルナとか、もしくは古風に月子とかにしてほしかった。母が適当すぎた。


 友達はだいたいルナ呼びだが、今それは関係ない。


 そして月さん月さんと、口に馴染ませるようつぶやく彼に、下の名前を呼ぶのかと、内心ずうずうしいなと思った。


「それで、わたしがなんですか? 高城さんが花屋を冷やかすことと、わたしとの因果関係が不明なんですけれど」


 改めて、むっとして半眼でじぃっと見上げる。


 わたしがそれなりに怒っていると理解したのか、へにょんと耳をへたらせた。もちろんそんな耳は現実にはないけれど。


「すみません……あなた、いえ、月さんの匂いが……、その……」




 匂い!!!?




「わたし……そんなに汗臭いですか? というか、事実だとしても、女性相手によくそんなデリカシーのないことが言えますね……」


「ちちち違う! 違います! 全然まったく汗臭くないです! そうじゃなくて、むしろさわやかで健全な芳香で逆にしてくらくら……じゃなくて! そうじゃなくて、えーと……その……」


 慌てふためく高城さんが、なんかこわいことを口走った気もしたけれど、話が進まないから触れずにおいた。


 彼の言い分が頭でまとまるまで気長に待っていると、アパートに到着してしまった。


 部屋の前で、さよならすべきなのに、彼はなかなかわたしの部屋の前から動こうとしない。こたつで丸くなる猫くらい動かない。


 そして、なにか決心したようにわたしを上の方から見下ろすと、たぶん真剣な眼差しをして、こう切り出した。



「部屋にあがらせてほしいんですが」



 ああ、はいそうですか、どうぞどうぞ。って、なるはずないでしょう。


 なにを考えているんだ、この男は。という、しらーっとした軽蔑をふくんだ目を向ける。あわあわするかと思いきや、彼は必死の様相で懇願してきた。


「お願いします、なにもしません! 私物に指一本触れませんし、タンスやクローゼットの中を物色したり盗んだりもしません。隙をついて盗聴器を仕掛けたり、歯ブラシを舐めたりもしません。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ室内を見せてもらえたら、それで満足なので! お願いします、この通りです」



「……」




 …………こわっ。




 たとえの話がわたしの想像の域をはるかに凌駕していて……はっきり言って、ドン引きだった。


 押し倒される可能性はこれでも一応女なので、多少は考えて警戒したけれど……。


 まさか、まさか歯ブラシを舐めるだなんて……! 


 なんて陰湿で変態的な嫌がらせなんだろう。


 じりり、と後ずさったわたしに、彼ははっとして顔をあげると、絶望的な表情を全身で訴え、すがるような哀願をしてきた。


 すでに後ろ手でドアノブを掴んでいたわたしは、怪しいマスク男の切実なその無言の圧力に根負けして、しぶしぶ折れた。


「……わかりました。でも、なにか変なことをしたら、責任を取ってもらいますからね」


 身銭を切って新しい歯ブラシを買ってもらおう。電動のいいやつを。


「は、はい! 責任を持って大事にさせていただきます」


 わたしの歯ブラシをなにに使う気なのか。気持ち悪さを突き抜けて、もはや恐怖しかない。


 もしなにもなくても、歯ブラシは新しいものに買い替えよう。



 密かに決めて、わたしは彼を部屋へと招き入れた。






「ちなみに、なんで名前が月なんですか? 綺麗な月の日に生まれたとかですか?」


「……月曜日に生まれたからです」


「……。生まれた曜日がすぐにわかって、いいですね」


 ……絶対思っていませんよね、それ。



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