2. 天使の輪を作るにはたゆまぬお手入れが必要
腕を掴んだその人は、驚いたように眞子を振り返った。
背負ったチェロの頭から、眞子の顔へと視線を下げて、眞子と目が合う。
あ、と眞子は思った。
(綺麗な、男の人)
胸下まであるストレートの黒髪は痛みを知らない様子だ。
整えられた髪の間には、これまた整った顔がある。
掴んだ時には気がつかなかったが、随分背が高い。
「……何か?」
怪訝そうなその人を見て、ハッとする。
「いや、あの……えっ、と……」
なんて言う。今私違う場所にいませんでしたかって?事故に巻き込まれたはずなんですけどって?いやいやそれこそ頭おかしいでしょ、というかなんで私はこの人の腕を掴んだんだ、明らか関係ないしこの人からしたら私こそ不審者だしそもそも最初から私は安全な場所にいたのでは?
混乱しきった眞子を見て、しかしその人は、にっこり笑った。
「君それ、チェロだよね?学校でやってるの?」
いい声してるな、と混乱しすぎてぼんやりしながら眞子は返事をした。
「あ、部活で……オーケストラ部なんです」
ふうん、とその人は頷いて。
「その制服、風川女子だね。駅に行くなら反対方向だけど、時間は大丈夫?」
時間……時間?
ばっと腕時計を見ると、忘れ物に気づいてから大分経っていた。
やばい。今から家に戻って駅に向かって、電車に乗ったら、学校に着くのは何時だ?
目に見えて慌てだした眞子に、その人はひとつ頷いて、
「もし良かったら、そのチェロ、ここで預かっといてあげようか。重いだろうし、家まで走るのには邪魔でしょ」
えっ、と眞子は思った。
確かに、チェロは持って走るには向いていないけど。
全部でウン十万するチェロとケースを、今会ったばかりの知らない人に預けるなんて、誰がするだろう?
「いえ、あの、自分で持つので、大丈夫です……?」
そこまで言って、眞子は気づいた。
何でこの人、私が今から家に向かうって知ってるの?
ぞわっと鳥肌がたって、思わず一歩後ろに下がる。
自分から声を掛けておいて、勝手なことかもしれないけど、この綺麗な人が、怖い。
そんな眞子を完璧な笑顔で見下ろしながら、その人は言った。
「そう、じゃあ頑張ってね」
そのまま踵を返して、雑踏に消えていこうとするその人を、慌てて眞子は呼び止める。
「あの!ありがとうございました!」
何に対するお礼なのか、自分でも分からなかったけれど。話しかけたり怖がったり、自分でも意味が分からないけれど。
その人は、一瞬目を見開いて、それから、ふわっと微笑んだ。
「どういたしまして」
この人、こんな笑い方するんだな、と眞子は思った。
気づいた時にはその人は雑踏に消えていて、眞子は到着した警察に目撃者として状況を聞かれ、結局学校は遅刻することになった。
「そうだね、頭の回転が速い子だったね」
黒髪をなびかせ、男は電話の相手に先程出会った少女について語った。
「気が動転してる割に、よく気がつく。おかしなことへの対処の仕方を知らないのは、まだ若いせいかな」
電話の相手が何か注意をしたのか、男は軽い口調で謝りながら、ククッと笑った。
「そういえばあの子、風川女子の制服を着ていたよ。君は知っているかもしれないね」
驚いて、コーヒーをこぼしたのだろう。熱っ、と大声を出した電話の相手、もとい旧友に、笑みが深くなる。
じゃあな、と一方的に電話を切って、男は人混みに紛れた。