1. 珍しく持って帰った教科書は、大抵家に忘れる
人生は、選択の連続だ、とは言うけれど。
些細な選択が人生を変えるとは誰も思っていなくて。
例えば、今日のおやつにチョコケーキを買うかフルーツタルトを買うかなんて、そうそう人生に影響しないし。
例えば、乗る電車の車両を変えたからって、将来が変わることは滅多にないし。
それでも、あの日の些細な選択は、「ありえない」をかいくぐって起こった大きな分岐点だったんだって、今なら思う。
「……!?」
橘眞子は、高校に向かっている途中、忘れ物に気づいて立ち止まった。
(しまった、教科書、机に置いてきちゃった)
昨日英語の予習をやって、そのまま鞄にしまうのを忘れた。でも今から帰ったら、電車2本は確実に逃す。教科書がなくたって、予習はきっと他クラスの子もやっているだろうし、借りれば授業も受けられる。
(でも、せっかく頑張ったんだから、自分の教科書で受けたい)
だって、いつも忙しくて、予習なんてやろうと思うだけだったから。それに、友だちに借りて授業を受けた後、自分の教科書に写すのだって二度手間だ。今日は部活の朝練も任意参加だし、遅れたって問題ない。幸い、朝練に出ようと早めに家を出ているので、始業時間に遅れることはないだろう。
よし、と眞子は方向転換をしながら、背中のチェロを背負い直した。ケースの重さも加えると10キロを超えるチェロは、小柄な眞子が持ち歩くには少々きつい。それでも、チェロがやりたいと思ったのは、オーケストラ部の見学で低音に惚れたからで、同じチェロ希望の同級生が良い人そうだったからだ。
携帯を出して、母に教科書を玄関に持ってきてくれるよう電話をする。今向かってるから、と言って電話を切ると、交差点に差し掛かり、ちょうど信号が赤になった。
横断歩道のすれすれ、電柱の横で信号が変わるのを待っている、と。
少し遠くから、明らかに法定速度を超えている車が走ってきて。
どうしてかは分からないけど、運転手と、目が、合った気が、した。
運転手の口角が、上がるのを見た。
車が、眞子に向かって走ってくる。
速い。
ーードラマなんかで、大抵仲が上手くいくと恋人事故に遭うじゃん?車が来てからあんなに時間があるんだから、避けろよって感じだよね。
つい先日、親友の由美と話した事が脳裏に浮かぶ。
あのね由美、あれはテレビ局の演出なんだよ。スロー再生とかで編集してるんだ。実際は避ける時間なんてないし、気づいた時にはもう遅いんだよ。
眞子が、そんなことを考えながら、身を硬くした時だった。
何かが、止まった音がした。
ガッシャーーン!!
車が、目の前に突っ込んで来た。
眞子の目の前の電柱にぶつかって止まったらしい。
周りの人々が慌てて動き出す。警察に電話したり、救急車を呼んだり。運転席には人が乗ってるけど、動いてるから、まだ生きている。
何かが、何かがおかしい。
何が?
この、正体の分からない違和感は何?
いや、びっくりして興奮しているだけかも。
いや、それにしても何かがひっかかる。
車は電柱にぶつかって止まった。
眞子の、目の前で。
「目の、前……で」
そんなこと、ありえるだろうか?
だって、私は、電柱の横、に立ったはずなのに。
電柱の横に立って、
電柱にぶつかって止まった車を、
見る、なんて。
そんなのおかしい。
運転手と目が合ったあの角度、電柱にぶつかる前に眞子にぶつかるはずだった。
こんな、他人事みたいに傍観してるなんて、ありえない。
ふと、視界に濡れたような長い黒髪が入ってきた。
騒然としている交差点をじっと見て、その人は立ち去ろうとしていた。
数年経っても、どうしてそんな暴挙に出たのかはわからないけれども、
眞子は、見ず知らずのその人の腕を、咄嗟に掴んだ。