07.ぼくはひらく、鍵の乙女……。
『異界の冒険』と銘打たれた本。実にみすぼらしい本だが、本当にこれで世界が救えるのか。
もしナユタという人の言うことが事実なら、おそらくこの本の呪文でサキの能力を覚醒させることができる。サキの言い方だと『ひらく』のか。
正直、女の子をひらくという表現は、ちょっといやらしい何かを想像させもするのだが、この本にはそんな儀式は書いていなかった……と思う。大丈夫。きっと大丈夫。なに、がっかりすることなんか、ない。何もない。
「どうかしました?」
「い、いや、なんでもないよ」
ちょっと慌てて本のページをぱらぱらとめくりながら、ぼくはテーブルを回り込んでサキの隣に座った。サキがこっちに向き直る。なんか恥ずかしい。そんなにまじまじと見ないでくれ。
しかし、これでサキの能力が開眼するのだろうか。だとしたら、すごい。すごいと思う。
それを思えばやっぱりわくわくを押さえ切れない。
目指すページを見つけた。やつぱり、緊張する。さあ、どうなるだろう。
大きく息をついて気を落ち着かせる。
「ええと……。いくよ」
「はい」
ゆっくりと詠唱を始める。
「火の鍵の乙女よ。赤の姫よ。汝を今ここに開き、世の理をここに導かん。汝の身は炎の身、汝の操るは炎の技、しかして汝の業は世界を滅す。願わくば汝に捧ぐる贄によりて、身を修め、心を鎮め、汝が業をもちて世界を救わんことを」
……。
…………。
……………………。
「な、何にも起きませんね」
「そ、そうだね」
「やっぱり、そう上手くはいきませんよね」
「そうだね」
二人してひきつり笑いを交わす。
気まずい。
ものすごく気まずい。
部屋中転げまわりたいほどの気恥ずかしさ。
笑うしかないとはこのことだ。
やはり世界を救うには、ぼくらではまだ力不足らしい。
サキは、ほうっと大きく息を吐いた。だいぶ緊張していたようだ。
何が悪かったのだろう? 手順か? 準備不足か? 何か足りない要素があったか?
それとも……そもそもが誰かの妄想、でっち上げにすぎないのか?
(いや、そうじゃない)
何となく手応えらしきものはあったのだ。呪文を詠唱し終わったとき、サキの瞳の奥に何かが閃いた気がした。あれは気のせいだったのだろうか? 願望が見せた幻に過ぎないのか。
「うーん、残念ですねえ。予定では、わたしはすごい力をゲットして、こんな風に……」
そう言ってサキが右手をさっと横に振る。
その下に、ほんの一瞬だが、光のようなものが現れて消えた。
「えっ?」
「なに? 今の、なんですか?」
サキにも見えたらしい。気のせいじゃない。
ぼくらは顔を見合わせた。やっぱり今回も、何と言っていいのか、どんな表情をしたらいいのか分からない。
けどこの方法は――間違いじゃない。
「まだ完全じゃないのか。何が足りないんだろう?」
ページをめくりながら、ぼくは本の内容を思い出していた。特に足りない所はなかったと思う。
と言うことは、本に書かれていない何かがまだあるのか。
「まさか、『赤の姫』が間違ってるとか、ないよね……?」
サキはどちらかと言うと、『黒の姫』と言った方がふさわしい。髪は綺麗な黒、服も黒。ソックスも靴も、黒がメインだ。赤と言ったら、艶々とした赤い唇くらいだろうか? 赤系のルージュが好きみたいだから。
サキを『姫』と称するに異論はまったくない。ないのだが、そもそもこの本に書かれていることがサキのことだとは限らない。もしそうだとすると、また正解から遠ざかってしまう。
うーむ。これを書いたナユタという人は、この本にどんな意味を隠したのだろう?
「サキはその本、ナユタという人に貰ったって言ったよね?」
「はい」
「その人は他に何か言ってなかった?」
「そうですねえ……。詳しく話を聞く前にはぐれちゃいましたから、もっと何かキーワードがあるのかも知れないです」
「そうか……」
ぼくはいったん、本をテーブルの上に置いた。仕方がない。今の自分では、これ以上の何かを見つけるのは難しそうだ。
ふと外を見て、すっかり夜になっていることに気がついた。
(ものすごい一日だったな……)
公園でのんびりまったりしていたのが、遠い昔のことみたいだ。
そこから全力で逃げ出してカラオケボックスに隠れて、そこから出て来たのが多分三時か四時くらいだろうか。
また全力で逃げて、移動して、預言の書を探して検証。
そりゃあ夜にもなる。
「お腹すいたでしょ? なにか食べよう」
何か用意しようと思ってキッチンに立つ。まあ正直ろくなもんはないんだけど、かと言って今外に出たくはなかった。
はっきり言えば、怖い。ものすごく怖い。
今だって、うまく隠れられているかどうか。
「あ、わたしも手伝います」
サキがついてくる。健気だなあ。
サキが立って歩くだけで、そこに華やかな色がつくような気がする。ぱっと花が咲くようだ。ああ、自分ひとりだけの部屋って、どれだけ味気なかったんだろう。つい今しがたまでそうだったんだけど。
でも結局、と鍋を出しながら思う。サキはここの住人じゃない。いつまでもここにいるわけじゃない。たまたま、通りすがっただけ。
隣で食器を用意するサキを見やってちょっと淋しさを感じながら、でも用意する物はインスタントラーメンくらいしかなく、準備はすぐに終わる。
いや待て、女の子をもてなすに、こんなものしかないのか。
そう、こんなものしかない。今さら見栄を張ってもしょうがない。サキだってお腹減ってるよね。
「「いただきます」」
部屋に戻り、また向かい合ってラーメンを食す。
ぼくはサキが食べるところを、なんとはなしに見ていた。左手で長い髪を押さえて、ちいさな口に箸を運ぶ。しぐさがいちいち、可愛い。
「ん~、おいしいです」
「はは、ただのラーメンだよ」
そんな大げさな、とぼくは笑いながら答える。取り立ててすごいわけでもない、ひとパック三百円程度のラーメンだ。よほど空腹だったのかな。
「でもやっぱり、誰かと食べるのはおいしいです。ナユタ姉さまとはぐれて、あまり食べてなかったから……」
あ、そうか。
サキはここまで一人で逃げてきたのだ。どれほど心細かっただろう。どの位の間逃げているのか分からないが、追っ手を気にしてろくに休めなかったに違いない。
そんな健気な女の子にラーメンしか食べさせてあげられないなんて。ぼくは自分の甲斐性のなさを呪った。だけどそれでも、二人で食べるのはおいしい。インスタントラーメンでも、おいしい。
今はこのささやかな幸せをかみしめよう。