act.3-2
「しーっ」突然ボクの鼻先に、前屈みになった彼の顔が迫る。悪戯っぽく笑んだ唇に、人差し指を添えて。
「施療院の中では、静かにしましょう」
「……っ!」
芝居がかったその台詞に、ボクは思わずのけ反り顔を背ける。前髪越しとはいえ、真っ赤に染まった顔を見られたくなかった。
だってこんなの……反則じゃないか。
「せっ……施療院? ここが?」
「ああ。建物は古いけど、腕は保証する」
そうだ、確かにこの部屋には生活感が無い。家具といったらベッドと椅子、それから小さなチェストくらいだし、おまけにわずかだけれど、部屋全体から草というか、薬品っぽい香りもするような。
「……ごめんなさい」
「あー、勝手に連れて来たのは俺だからさ。気にすんな、騒がなきゃいいんだ」
ボクがしおしおと頭を下げると、彼はボクが気を失っていた間の事を教えてくれた。
あの後『冠角』のおじさんは彼の説得により改心し、ここまで一緒にボクを運んでくれたらしい。
「あのおっさん、元締めにケジメ着けて、それから真っ当にやり直すってさ」
「……そうなんだ……ええと、きみは確か仕事中って言ってなかったっけ? ここにいて大丈夫なの?」
「ん? よく覚えてんなー。俺の仕事場、ここ。前から置いてもらってるんだ、こいつも同じ」
言いながら、彼は肩上で眠りこける少年に目を向ける。力持ちの彼ならともかく、この子が働いてる所なんて、ボクにはちょっと想像出来ない。
彼は更に言葉を続けようとして、
「……そういやまだ名乗ってなかったっけな?」
「……あの状況で自己紹介なんて、間抜けにも程があるでしょ……」
彼はボクのツッコミに気分を害する様子もなく、顔をくしゃっとさせて笑う。悪い人では無い……のかな。
「そっか。俺はラシャってんだ。で、こいつがアヤ」
「……ボクはシュス。一応『扉守』……だよ」
ラシャに、アヤ。ラシャはともかく、アヤってちょっと言いづらいな。『内』にはそういう名前の同胞はいなかったから。
試しに頭の中で反復してみる。ア……ヤ。ア、ヤ。
なんてやっていると、横から彼――ラシャに声を掛けられた。「おーい?」
「え? 何か言った?」
「おー、言った言った。お前さえ大丈夫なら、院長が会って話をしたいって言ってるんだ。あー……でも無理すんなよ。お前、丸一日寝てたんだからな」
「丸一日って……ホントに!?」
なんて事だ。
その事実に内心驚きつつも、ボクはベッドから体をずらしスリッパに足を通した。ゆっくり、立ち上がってみる。
「……うん……大丈夫、歩ける」
さすがに絶好調というわけにはいかないけど、ちょっと体が重くて、膝を擦りむいてる位だ。多分、馬車から放り投げられた時の怪我だろう。
「そっか。じゃ、先にスッキリしてから行こうぜ」
「スッキリって?」
「便所。溜まってんだろ? あと顔とか洗ったりさ」
「たまっ……!?」
あのさ、顔は悪くないのにサラっとそういう発言やめようよ。何きょとんとしてるのさ。もっと、その……ぼかそうよ!
とはいえ恥ずかしながら『溜まってる』のは本当だ。ラシャに続いて部屋から出ると、外は真っ直ぐな廊下に続いていた。乳白色で塗られた両の壁には等間隔に扉が並んでいて、すべてに番号が振られている。全部で二十部屋もあるだろうか。洗面所は廊下の中ほど、ボクがいた部屋のすぐ先にあった。
「じゃ、俺はここで待ってるから。タオルは備え付けのがあるから、それを使うといい」
「うん、分かった」
洗面所は有難い事に男女別になっていた。
ボクは借りているシャツの袖を丁寧に捲って用を足した後、洗面台で手を洗う。
蛇口から流れる冷たく澄んだ水で汗ばんだ顔を清め、清潔なタオルで水気を拭き取る。
「…………」
正面の壁に取り付けられた姿見には、長い長い前髪で陰気臭い顔を隠した、幽霊みたいな少女が映っていた。
ボクだ。
分かってる。こんな髪、切るべきだって。
だけど無理だ――少なくとも今は。
「……いつか、許せる日が来るのかな……」
元通り袖を下ろしたボクが廊下に戻ると、ラシャはさっきと同じ場所で待っていて、ボクを見ると軽く手を上げ口元を緩める。
「……お待たせ」
「じゃ、改めて挨拶に行くか。ああ、院長ったって別に取って食われたりしないから、安心しろよな」
彼は一体、院長を何だと思ってるんだろうか。
静まり返った廊下を三人――ただし足音は二人分――で歩く。先頭はアヤを担いだラシャ、ボクはその数歩後ろ。
廊下の幅は二人どころか六人並列でも余裕だけど、男の子の隣を歩くなんて、ボクにそんな度胸無いし。
……それにしてもラシャの尻尾、見れば見るほど立派だなあ。長くてふわっとしてて、褐色の中に少し金色の毛が混じってる。
尻尾が無いボクからしたらちょっと……いや、かなり羨ましい。
おじさんは彼を『混ざり者』呼ばわりしてたけど、本当にそうなんだろうか。
それならボクもいっそ『混ざり者』で生まれたかっ――
――と、突然何もない所でピタリとラシャが立ち止まった。
……あ、まずい。さっきからお尻ばかり見てたのがバレたのかな。これじゃまるっきり変態だよね。
ええと、どうにか弁解しなくちゃ。
でも様子がおかしい。
ラシャを取り巻く空気が、何だか重たい。
ボクは恐る恐る声を掛ける。「……あ、あの……?」
彼は振り返らない。
代わりに、こう言った。
「…………ホッとしたか?」
ずぐん。
ボクの胸を貫く冷たい痛み。まるで肋の隙間から、薄い刃物を刺し込まれたような。
背中から表情を読み取る事は出来ない。けれど、きっと彼はこう問うているのだ。
あの時俺に殺されてなくて、今こうして生きていて、安心したか、と。
「……すこ、し」
今のボクには、これが精一杯だ。
「――そっか」
独り言と紛うほどかすかな、吐息混じりの声。もしかして、今ボクは彼をガッカリさせたんだろうか。
だって、他になんて言えば良かったんだよ。
と、思ったのも束の間。
「……なーんてな!」
彼がぐりんと体を捻って、おどけたようにこちらを振り返る。「どうした、ひどい顔してんぞ?」
「はぁ!? だ、誰のせいだと思って……!」
何だよもう、一時でも真面目に悩んだボクが馬鹿みたいじゃないか!
ラシャはくつくつと笑いながら、突き当たりの丁字路を左に曲がる。奥の扉から、女の人の落ち着いた声が聞こえてきた。どうやら診察中らしい。
ファンタジーと言いつつ、水周りが近代的なのはわざとです(笑)
『神』からしたら、疫病なんかでバタバタ死なれたら困るんですよ~って事でw┐(´∀`)┌
うん、ちょっとネタバレしてみた。