九 邂逅
「どうしたの? こんなところで」
揺羅は、そこにいる小さな姫君の前に腰を折り、その瞳を覗き込むようにして優しく問うた。
対屋のうちでも、明かりもほとんど届かぬ廂の薄闇にうずくまるその姫は、だけど、揺羅の声を聞いた瞬間びくりと小さな身体を震わせたきり何も言おうとはしなかった。気づまりな沈黙に、幼子と接したことのない揺羅もいかがしたものか、と黙り込んで首を傾げる。
よく見れば白の小袖を纏っただけの姿、裾から覗くむきだしの足が痛々しい。褥から抜け出してきたのであろうか。春とはいえ夜はまだまだ冷える。揺羅は途端に心配になって、その姫にそっと手を差し出した。
「そこは寒いでしょう? こちらにいらっしゃらない?」
それでも、小さな姫は一向に返事もしなければ手を出そうともしなかった。揺羅は途方に暮れてため息をつくと、仕方なく姫の前にぺたりと座り込んだ。床の冷たさが身に染みる。
「東の対にいらした姫君さまね?」
「……」
「お戻りにならなくていいの? 皆、きっと心配しているでしょう?」
「……」
「乳母の君が捜しておられるのではなくて?」
それを聞いた姫の瞳に、みるみる涙が溢れた。
揺羅は慌てて言い募る。
「泣かないで……泣かなくていいのよ。叱ったりしないから」
「……」
「どうしたの? なぜ、泣いているの?」
静かな微笑みを浮かべて、揺羅は涙を零す姫の背をそっと撫でた。小さな身体はすでに冷え切っていた。
「東の対に戻りたくないの? わたくしが連れて行ってさしあげましょうか?」
その言葉に、うつむいた姫の頭がふるふると揺れる。戻りたくない、と全身で主張しているようだ。
揺羅は思案げに視線を落とした。
幼子なりに何か思うところがあるのだろう。でも、だからと言って、かような場所に放っておくわけにもいかぬ。
「……じゃあ、少しお話でもいたしましょう、ね? あちらには炭櫃*もあるから」
そう言いながら半ば強引に姫の手を取れば、指先はもう氷のようだ。小さな姫はぽろぽろと涙を零しながらも、それ以上は嫌がるそぶりを見せずに立ち上がる。
手を引いて暗く冷え切った屏風の陰から出ると、ほのかな暖気がふたりを包み込んだ。つながれた稚い手がぎゅっと握りしめてきたのを感じて、揺羅の心がふわりと緩む。
袿の裾が立てる衣擦れの音と、ぺたぺたという姫の足音だけが対屋に響いていた。
切燈台の灯りのところに来ると、揺羅は先ほどまで座っていた茵を炭櫃の傍に寄せて姫を座らせた。それから、己を追いかけてくる瞳に少し待っていてと微笑みかけ、急いで塗籠にある綿入りの薄紅梅*の衣を取ってくると、それで姫の身体をくるんでやった。
「大丈夫よ」
小さな身体を包み込むようにして、声をかける。
父君と離れ、今まで暮らしてきた邸からも離れたのだ、不安もあろう。十で独りこの邸にやって来た、あの頃の心許なさを思い出す。
小さな小さな肩が小刻みに震えていた。それは寒さゆえか、悲しさゆえか。
揺羅は眉を下げ、どこか泣きたくなるような気持ちで吐息を零した。どうすればこの小さな姫君の心が落ち着くのかはよく分からなかったけれど、ただ、どうにかしてその強ばった心をほぐしてあげたくてその背を撫でる。
どれほどそうしていただろうか、やがて落ち着きを取り戻した姫が、おずおずと上目遣いで揺羅の方を見、目が合うとまた、ふいと視線を逸らした。頬に涙の跡がわずかに光っている。かすかに笑ってそれを手で拭えば、やわらかな頬もまた冷たく凍えているのだった。
「せっかくいらしてくださったのだもの、何をしましょうか?」
頬を両の掌であたためてやりながらあたりを見回すものの、揺羅の対屋には幼い子が楽しめるようなものなどない。文机に広げた書にせめて物語絵でもあったらよかったが、揺羅は物語を好まぬのでそれすらなかった。
そうだ、とふと思いついて、揺羅は二階厨子*に重ね置いてあった古今和歌集を取り出した。
「ほら……これにはね、とても綺麗な絵が描かれているの」
姫の前に置いたその古今集もまた、姉女御が遺したものだ。入内の際に持参したさまざまな調度とともに、女御が身罷る時まで宮中に在った。
「見て、これはみ吉野の山」
春霞 立てるやいずこみよしのの 吉野の山に雪は降りつつ───そんな春歌の横の余白に、手遊びというにはもったいないほどの、雪の降り積もる吉野の山が美事に描かれている。この歌集を父から譲り受けた時には、そんな絵が描かれているとは知らなかった。
小さな姫君は口を閉ざしたまま、あまり気の乗らぬ様子でその絵に視線を向ける。
「吉野には、まだ雪が降っているのかしら?」
揺羅は言いながらその墨跡を辿り、そうしてまた紙を繰る。
やがて現れたのは、これまた美しく描かれた桜盛りの都の風景だ。
「見わたせば 柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける───都はもう桜の時季ね」
そう言いながら小さな姫君の横顔を窺うと、やはりどこか気乗りせぬような顔でじっとその絵を見ているのだった。
気づまりな沈黙に揺羅は少しばかり困ってしまったけれど、ほかに良い手段も思いつかず、ただぱらぱらと歌集をめくっていった。そこにやがて現れた別の絵を見て、初めて姫が薄紅梅に包まれた身を乗り出す。
「これは、梅?」
おずおずと問う幼い声を、初めて聞いた。
雪を被った梅の絵に初めて興味を示した姫君に、揺羅はそうかと思い至る。
いつか、右大臣の北の方が持ってきてくれた白梅の花。確か、姫君の父である宰相の邸は白梅が見事なのだと言っていた。
「梅はお好き?」
揺羅が優しく尋ねると、小さな姫はわずかに頷いた。
「姫君さまの住もうておられたお邸には、たくさんの梅の花があるのでしょう?」
「……知ってるの?」
姫はそう言いながら、描かれた梅の花に手を伸ばす。
「あなたのお祖母さまにお聞きしたの。それはそれは美しいのよ、って。……花の色は 雪にまじりて見えずとも 香をだににほへ 人に知れずも」
絵の添えられた古い歌を指で辿りながら詠えば、姫の目にはまた涙が浮かんできた。
ああ、生まれ育ったお邸に戻りたいのだ。誰だって、住み慣れたところを離れれば不安なもの、ましてや母君を喪い、父君とも離れて暮らさねばならぬなど。
つん、と眼の奥が痛くなり、揺羅の瞳にもまた涙が浮かぶ。
なぜ、この姫はここに来なければならなかったのか。わたくしも、また。
入内した姉君さまさえ生きておられれば、こんなことにはならなかった───そんな風に考えて、揺羅は小さく首を振った。ありもせぬことを考えるなど、愚かしいこと。
「これはね……この絵は、主上が描かれたものなの」
姫はそれを聞くと、言葉の意味を分かっているのかいないのか、揺羅の顔をじっと見つめた。
「わたくしの姉君さまが女御として内裏にいらした時分に、お描き遊ばされたそうよ」
言ってから揺羅ははたと気づいた。
この小さな姫の母君は萩の宮、今上の妹宮ではないか。
「主上は、姫君さまの伯父上さまでもあられるわね」
姫はゆるく首を傾げた。
「伯父上?」
「そう。お目にかかったことは?」
黙って首を傾げた姫は、あくびを噛み殺してとろりと落ちた瞼を伏せる。揺羅は微笑み、そっとその肩を抱き寄せて、とんとん、と背を叩いた。
「どうぞお寝みなさいな。疲れたでしょう?」
もう、抵抗する力すら残っていないらしい姫は、そのまま揺羅に身体を凭せかけた。
「あなたのこと、なんてお呼びすればいいのかしら? お父さまや乳母の君はなんと呼んでおられるの?」
「……ちい姫」
「ちい姫さま?」
呟いて揺羅はふと視線を外し、口を閉ざす。
揺羅を見上げたちい姫が、不思議そうに眠そうな目を向けてきた。それに気づいた揺羅の瞳が揺れ、ちい姫の上に笑みが零れ落ちる。
揺羅は、ちい姫の髪を撫でながら夢見るような声で言った。
「わたくしも、ちい姫と呼ばれていたの」
「ちい姫?」
呟き返す幼い声に揺羅はまた、ふふと笑った。
「今は、揺羅と呼ばれているわ」
揺羅。光中将の北の方ではなく、揺羅、と教える。
「ゆら?」
「そう」
揺羅が頷くと、微睡みに落ちていくちい姫が唐突に呟いた。
「周防は嫌い───」
「周防……?」
揺羅が訝しげに問い返すも答えはなく、ちい姫はすでに穏やかな寝息を立てていた。
息をつき、小さな鼻先にそっと触れて、額にかかるやわらかな髪を撫でる。この高倉の邸に入って、人のぬくもりを感じるのは初めてだった。
規則的な寝息が揺羅の心を鎮めてくれる。膝に感じるぬくもりは、とても愛おしいものに思える。
本当なら、春恒の正妻としてそろそろ子をもうけてもおかしくはない年頃だ。もしも吾子*がいたならば───叶いもせぬそのようなことを、ふと考えた。
その時、炭櫃の燠火がふわりと赤くなると同時にことんと音が鳴り、人の気配が届く。視線を上げれば、泊瀬が手燭を持って対屋に入ってくるのが見えた。
揺羅に寄った泊瀬は、ちい姫の姿に気づいてはっと息を呑み、驚きに足を止めた。揺羅は小さく首を振って声を立てぬよう仕草で伝え、東の対屋に、とだけ囁く。
驚いた表情のまま小さく頷いた泊瀬が消えると、揺羅は再び、膝に頭を載せて眠るちい姫の寝顔に視線を落とした。
冷え切っていた頬に紅が戻り、揺羅の膝に載せられた手にもあたたかさが戻っている。揺羅は安堵の吐息を零すと、薄紅梅の衣をちい姫の肩まで深く引き上げた。
束の間の穏やかな時ののち、遠くに慌ただしい足音が聞こえてきた。泊瀬の知らせを受けた東の対屋の者だろう。ほどなくして、渡殿に面した妻戸が勢いよく開いた。
「ちい姫さま……!」
恐らくはちい姫の乳母であろう駆け込んできた女房が、揺羅の膝で眠るちい姫を見て大仰な声を上げる。
「こちらにいらしたのですね……殿、ちい姫君が!」
そう言って振り返った乳母の思わぬ言葉に、揺羅もまた、はっと息を呑んで妻戸の方を見遣る。乳母の背後にもうひとつの人影が見えた。咄嗟に袖で顔を隠す。
「ああ……よろしゅうございました」
揺羅の許ににじり寄った乳母は、安堵の声を零しながら、揺羅の膝に頬を預けて眠るちい姫を薄紅梅の衣ごと取り上げるように抱き上げた。
冷ややかな風が揺羅をなぶる。膝の上からぬくもりが消えた。
「こんなところにいらしたとは……。さあさ、ちい姫君、東の対屋に戻りましょうね」
墨染を着たその乳母は礼も言わず、ただちらりと揺羅に視線を投げただけだった。揺羅が誰かも知らぬのだろうが、それでも袖の陰から見えたその視線にはどこか敵意が滲んでいるようにも思えて、揺羅は思わず目を背ける。
抱き上げたちい姫を見せている乳母のひそめた声が聞こえてきた。殿、と呼びかけるその相手が鈍色を身につけていることからも、ちい姫の父親であり春恒の兄でもある宰相 基冬であろうことは想像に難くない。
泊瀬が慌てて揺羅の前に几帳を運び立てた。隔てられ、姿が隠されても、揺羅は張りつめた心地で動くこともできぬままだ。
ちい姫を抱いた乳母は妻戸を出て行こうとしている。このままでは二人きりになってしまうではないか、という恐れはあっという間に現実となり、ちい姫と乳母が出て行ってもなお、基冬は妻戸のところに残っているようだった。
こちらから声をかけるわけにもいかず、揺羅は袿の袖のうちで手を握りしめる。
どうすればいい? 怖い───そんな気持ちに、揺羅の身体は我知らず竦む。
「忝い」
その時、遠慮がちな声が揺羅の耳に届いた。
夫である春恒の艶やかな声とはまったく違う、低くて静かな声。落ち着いた人柄であろうことを偲ばせるその声に返すべき言葉を探す間もなく、揺羅の代わりに泊瀬が答える。
「畏れ多いことでございます。こちらに参られた姫君さまを、我が北の方さまがお相手しておりましたところ、お寝み遊ばされてしまったようにございます」
すらすらと述べられたその言葉に、基冬は一瞬戸惑ったように口ごもり、やがて小さな咳払いとともに再び声がした。
「迷惑をかけ、申し訳なく思っている……と、北の方にお伝えいただきたい」
それを聞いた揺羅は思わず顔を上げ、泊瀬に首を振って見せた。
違う、そうではない。ちい姫と過ごしたわずかな時間は幸せな夢のような時だった。そう、今朝の眠りのはざまに姫と出会った、あの時と同じような。
揺羅のそんな様子を目にした泊瀬は困惑の表情を浮かべたが、少し考えたのちに基冬に伝える。
「我が北の方さまは、またぜひ姫君さまにお目にかかりたいと、そう、思うておいでのようにございます」
また、しばらく基冬の返事はなかった。
息がつまりそうな沈黙の中、揺羅のかすかな身じろぎが衣擦れを呼び、その音に促されるように基冬の声が届く。
「……ありがとう」
ただその一言を残し、基冬は静かな気配とともに妻戸を出て行った。再び閉ざされた東北の空間で、揺羅は深い息を吐き出して静かに目を瞑る。
今の基冬との短いやりとりを思い出せば、感じていた怖ろしさは消え去って、逆にどこか言い表しがたい嬉しさがじわりと揺羅の心に湧き上がってくるのを感じた。自身の行いに対して礼を言われる、そんなことですら高倉の邸に来て初めてのことだったのだ。
それはまた、存在を初めて他人に認めてもらえた、という意味をも持つことに揺羅はまだ気づいていなかったけれど、この時、冷たく凍てついていた揺羅の心に小さな火が灯されたのは確かだった。
炭櫃
角型の火鉢。
薄紅梅
淡いピンク色。
二階厨子
上部には二段になった棚、下方には両開きの扉つきの棚がある置き戸棚のことで、一双(二台一組)を並べて使います。上段には箏の琴などを載せ、中段には書物や巻物などを置きました。
吾子
我が子のこと。